薄明のカンテ - 「顔」/べに
 人間というものは所属する共同体によって「顔」を使い分ける生き物だ。
 職場では厳格な鬼上司の「顔」をしている男が、家では家族に対して優しい父親の「顔」になるように。
 それは「裏表がある」とかそういった性格面のマイナスのものではない。相手によって表情や態度を使い分けることで、自分の感情や意図を伝え相手に対する適切な対応をすることができるのだから。
 そして、それは人間関係を円滑にし社会を構築する上で非常に重要な役割を果たす。だから円滑なコミュニケーションの為、仕事の効率化の為、人間は自然と「顔」を作る。
 そんな「顔」を作ることを得意とするヴィニー・ラトウィッジであったが、ヴィニーであってもある意味では尊敬する男が医療班には居た。
「ネビロスさん、体調大丈夫ですか? まだ復帰して10日なんですから無理はしないでくださいね?」
「大丈夫ですよ、ミア」
 それが今、ヴィニーの前でイチャイチャとしているバカップルの片割れ――ネビロス・ファウストだった。
 ネビロスを心配するように眉をへにょりと下げたミア・フローレスの頭を撫でるネビロスの表情は柔和で、彼の彼女を見る灰色の瞳は何とも慈愛に満ちている。その「顔」は「優しいお兄さん」といったところか。
 いや、お兄さんじゃなくて恋人か。
 そんな事を思いながらヴィニーはしみじみと数日前の衝撃を振り返る。
 ヴィニーがマルフィ結社に来た時、ネビロスは諸事情とやらで休職していた。諸事情は諸事情であって理由は話さないとばかりの頑なな態度を皆がとっているので、この際だからその諸事情については気にしないことにした。
 諸事情については気にしないが人員が少なく仕事が大変だった恨みは忘れないだろう。
 それはともかく。
 彼が休職中にもミアの口からは良く「ネビロスさん」という名前が出てきていた。そして、その名前を呼ぶ時に彼女はとても楽しそうなものだからヴィニーは「ミアにとってネビロスさんとやらは憧れの人間か、片想い中の人間なのだろう」と検討をつけて彼女の言葉に相槌を打っていた。
 ミアの口から出てくる「ネビロスさん」情報と、他の医療班のメンバーから世間話の流れで得た情報からヴィニーが想像していたネビロス像はこうだ。
 年齢は20代前半。これは成人したばかりのミアが恋するくらいなのだから、少し年上のお兄さんだろうといったところからの推定だ。
 そして他の情報から推測すると性格は大人しく控えめ。よく本を読んでいるという情報から、我を出すタイプではなく内気な物静かな青年といったところか。
 容姿はミアから聞く限りでは線が細そうであり「儚そう」という言葉が似合いそうだ。
 一言で表すならネビロス・ファウストはアンニュイ系男子。
 それがヴィニーの作り上げたネビロス像だった。
 しかし、彼が復職して来てみたらどうだろう。
 年齢は29歳――いや、誕生日だったとミアが騒いでいたので今は30歳でヴィニーの二つ下か――と想像よりも上だった。
 容姿も線が細い背の高くない青年を想像していたが、身長はヴィニーと変わらず体格も細身ではあるが華奢というものではない。
 性格くらいは予想が当たって内気で物静かかと思ったヴィニーだったが、ネビロスは物静かを通り越して厭世主義ペシミズムのようにも見え、更にはどことなく目の奥には狂気を孕ませた危険な人間のようにも見えた。
 何もかもが予想と外れてヴィニーは驚くしかなかったし、更にヴィニーを驚かせたのはネビロスがミアの正真正銘の恋人なのだという事実だ。
 ミアは医療班の皆が自分とネビロスが付き合っているという事実を知っているので、わざわざヴィニーに自分から「恋人なんです!」と言わなくても知っていると勘違いして言わなかった。そして周囲の人間も「ミアが言っているだろう」と言うこともなかったため、ヴィニーは本当に「ミアにとってネビロスさんとやらは憧れの人間か、片想い中の人間なのだろう」と思い込んでいたのだ。
 ミアとネビロス。
 脳内で並べてみても違和感が凄い2人であったが、存外2人が一緒に居るのをリアルで目撃すると意外にもちゃんとしたカップルであった。見ている限り本当に想い合っているようなのだから世の中不思議なこともあるものだ。
「ミア」
 ヴィニーはわざとミアの名前を呼んだ。
 恋人とのイチャつく時間を邪魔されたのに全く不快に思うこともないとばかりの顔のミアが無防備にヴィニーへと近付いてくる。
「何ですか、ヴィニーしゃ!?」
 警戒心ゼロの顔をしていたミアの頬をヴィニーは無遠慮に片手で掴んだ。
 もちもちの肌をむぎゅむぎゅするのは何とも面白い。
 そして更に面白いことといえば、ニヤニヤと笑うヴィニーに放たれてくる殺気。殺気の発信源は揉まれているミアではなく、ネビロスだ。
 目だけで殺しそうな雰囲気で此方を睨むネビロスに最初は内心で怯えたものだが、数日経てばむしろミアに対する優しい顔と、この嫉妬しているであろう時の顔のギャップが面白くなってくる。
「ひゃへへふははひー!」
 ヴィニーの手によって蛸のような口にさせられているミアが「止めてください」と主張するが、ヴィニーは「何を言ってるか分からないな」と気付かないフリをした。
 さぁ、ネビロスはどう動くだろうか。
 ヴィニーは年甲斐もなくワクワクしていた。
「ヴィニー」
 そんなヴィニーを止めるために静かな声でヴィニーの名前を呼んで、ヴィニーの念願の魔王が降臨した。
「何ですか、ファウストさん」
 魔王ネビロスに対して、ヴィニーはネビロスが先程までしていた「優しいお兄さんの顔」をして微笑み返す。しかし、もちろん手は止めていない。
「ミアが嫌がっているので離していただいても? それとも婦女子の嫌がる行為を続けるのがアケリア流とでもいいますか?」
「アケリア流とは随分とスケールの大きな事をおっしゃいますね。まさか、そんな文化が大陸にある訳ないでしょう」
「それならば尚更、離していただけますか?」
 言葉遣いは丁寧ながら「貴様の汚い手を退けろ」という言葉を多分に含んだネビロスの声に、そろそろ本気で怒られる頃合いになるなと判断したヴィニーは仕方ないとばかりにもちもちのミアから手を離す。
「もー! ヴィニーさんってば!」
 口が自由になったミアが頬を膨らませた。
「最近、甘いもの食べすぎて頬が丸くなったって気にしてたところなんだから止めてください!」
 太ってなければ揉んでいいのか。
 ズレたミアの抗議の声に「悪い、悪い」と軽く返すと、ミアの機嫌は簡単に直ったようだった。こちらは単純なので非常に扱いやすい。
 一方の「魔王の顔」をしたネビロスの怒りは収まっていないようであるが。
「ミア、調達班から薬品届いたから整理手伝って」
「分かりました!」
 そんな時にタイミングが良いのか悪いのかミアを呼ぶヴォイドの声がかかり、張り切ったミアは返事をすると奥へと消えていく。
 残されるのは当然、ヴィニーと魔王だ。
 取り敢えずとばかりにヴィニーは口を開く。
「言っておきますけど、俺はミアに何の恋愛感情も抱いてませんからね」
「ええ。恋愛感情を持っていると判断したなら、私は貴方がミアに触る前に阻止しています」
 言いながらもネビロスの目は冷めていた。
 別に男に熱い視線で見つめられたい趣味がある訳では無いヴィニーだが、あまりにも露骨な冷たさを孕むネビロスの視線は辛い。
 今は特にミアに触っていたヴィニーへの嫉妬と怒りがある故の態度なわけであるが、それを差っ引いてもこのネビロスという男は仕事に戻って来たは良いがあまりにも愛想が悪い。もしかしたらミア以外に笑顔を見せないのでは無いだろうかと思う程には愛想が悪い。何てあからさまな奴だ。もっとコミュニケーションを円滑にしようという「顔」を作る気はないのか。
 ミア専用の「優しい顔」。
 ミアを守ろうとする「魔王の顔」。
 どちらも恋人の為の「顔」で、それ以外はネビロスに何も無いのだろうか。
 そんな勝手な事を考えつつもヴィニーは結局ネビロスのことを何も知らない為、答えは出るはずも無く全てが推論でしかない。ヴィニーが知っているネビロスの情報はミアの惚気に出てくるものしかなく、全てが彼女の主観に基づいているものであるのだから真実に行き着く筈もないのだ。
「ファウストさんは恋人を大切にされているんですね。可愛い恋人が居て幸せ者じゃないですか」
 この場を繋ぐため当たり障りのない言葉を紡ぐと照れる訳でもなく、むしろネビロスが不快そうに眉を顰めるものだからヴィニーは勘が外れて片眉を上げる。恋人を褒められたら人間誰しも照れるものであって、今のネビロスのような表情をするものではない。
 まさかこんな恋人への褒め方でも嫉妬するような狭量な男なのだろうか。
 さすがにそれは心が狭すぎやしないだろうか。
 そんなことをヴィニーは考えるが、ネビロスから返ってきた言葉は予想だにしないものだった。
「ヴィニー、その喋り方でなくてミアに話すように話して貰っても私は構いませんよ」
 成程。
 ネビロスはこの短期間でヴィニーのミアに対しての話し方と、自身に対しての話し方に違和感を持ったのだろう。馴れ馴れしい口振りをネビロスは好まないと判断してヴィニーはネビロスに丁寧に接していたのだが、それよりも恋人ミアとは親しげに会話をする男が憎く見えたか。
「悪いな、ネビロス。その方が助かる」
 お言葉に甘えてヴィニーが「顔」を外すとネビロスは何とも言えない表情をしたものの言い出したのは自分なので苦情は言わなかった。しかし、その表情の奥に「名前呼びまで許した覚えは無い」というものが見え隠れしている。それをヴィニーは見ない事にした。その方がネビロス・ファウストという人間と付き合う上では面白そうだからだ。
「親睦を深めるために、ついでにミアとの馴れ初めとか聞きたいんだけど」
「お断りします」
 ヴィニーの言葉は呆気なく遮断される。「良い人の顔」をしたままのヴィニーならば大人しくここで引き下がっただろうが、ネビロスに対してはもっと突っ込んでいっても大丈夫だろうと判断してヴィニーは更に言葉を紡いだ。
「ネビロスがいない間に、俺へミアが語った『素敵なネビロスさん』についての情報と交換というのはどうだろう?」
 ネビロスの眉が動いた。
 それは釣りでいえば餌に魚が食いついた瞬間といったところで、ヴィニーは更にネビロスを逃がさないように、もっと深く食いついて針から逃がさぬようにもう一言。
「ミアはそれを言う時に『ネビロスさん本人には恥ずかしくて言えないんですけど』が枕詞だったなー。聞いて損は無いだろうなー」
「……情報開示が其方からなら」
 一本釣り大成功。
 釣り上げたネビロスに、ヴィニーは爽やかに笑いかける。
「良し。じゃあ昼飯でも食べながら聞かせてもらおうか」
「いえ、昼は私はミアと……」
「アイツなら言えば譲ってくれるだろ?」
 しれっとヴィニーが言うとネビロスは心底嫌そうな顔を見せた。
 世の中なんてどうでもいいかのような目をしておきながら、それでいて恋人のことには敏感で、そこまで嫌がる顔を見せていてもヴィニーの相手を止めないネビロスが、ヴィニーにとってはおかしくて仕方ない。
 ネビロス・ファウストという人間に他にどんな「顔」があるのか暴いてみたくなった。きっと彼には他の顔もあるはずだ。それが見てみたくなった。

――結局、ヴィニーの読み通りミアは「ネビロスさんとヴィニーさん、仲良しになったんですね! どうぞ行ってきてください!」と明るく2人を食事へと送り出し。
 この日から、ヴィニーとネビロスの奇妙な友人関係――尤もそう思うのはヴィニーだけだろう――が静かに始まりを告げるのであった。