Twitter創作企画「薄明のカンテ」のまとめ。世界観の説明に始まり、小説・イラスト・漫画・音楽その他、創作企画で生まれた作品を掲載する場所。

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不安

「っ……何だよ!人が心配してやったのに!!」
「………はぁ。ご親切にどうも」
「はぁ!?お前……何なんだよ!?どっかおかしいんじゃねぇの!?」
 冷め切ったネビロスの視線が頭一つ小さい相手に向けられる。彼は機械班所属のメンバーらしいのだが、先程怪我をして医療班にやって来た。
 ほんの切り傷程度だったのでスレイマンが診察した後処置をネビロスに任せた。しばらく談笑している様に思えたのだが、彼が言った何かがネビロスの癇に障ったのだろうか。ネビロスも何かを言ったらしく、機械班の彼は勢い良く立ち上がると「帰る!!」と怒声を残し扉を勢い良く閉めて出て行った。
「お、おーい…ネビロス…?」
「……」
「おーい!ネビロス!?」
「……何ですか」
「あ、やっとこっち向いた。返事しろよなー!もー!」
「何ですか」
「…あのさ、さっきの彼。何であんな怒って出てっちゃったんだよ?」
「知りません。知りたくもありません」
「……ネビロス…あのさぁ……」
「──心にも無い心配をするくらいならゴミ箱にでも吐いてこい、とそう言ったら怒り始めただけです」
 そりゃあ、怒るだろう。
 スレイマンはそう言おうとしたがそれを察知したネビロスはそそくさと席を立って出て行ったのでその背中に向かって大きく溜息を吐くしか出来ない。
 それにしても参った。何故彼はあんなにも協調性と言うか、思いやりが無い様な振る舞いをするのだろうか。昔からああ・・なのだろうか。
 しかしネビロスが結社に所属するにあたり社内人事、新規勧誘両課のメンバーも交えて話し合った時に彼の簡単なプロフィールを聞いていたのだが、それによるとネビロスは結婚をしており以前の職業は託児所の職員だったと言う。ならば保育部が第一候補かとも思ったが、前職の雰囲気を微塵も感じさせない彼の鋭い眼光と他者を寄せ付けない空気を感じ取った人事部は、それなりに社会人として能力の低くないネビロスを人手の足りなかった医療班にあてた。
 結果としてそれは失敗だったのではないかと思う程にネビロスの愛想は悪く、逆に保育部で子供の世話をさせずにいて良かったとも思ってしまう。
 アペルピシアは専ら室内での仕事をしていたしそこで黙々と仕事をこなすネビロスを悪く思っていない様ではあったが、仲間内での連携やコミュニケーションが時に重要になってくる外での前線処置を主な仕事とするスレイマンは一抹の不安を抱えていた。
 ネビロスと仲良く出来る未来はあるのだろうか。先に一般の枠で医療班に入って来たミアは状況に不安こそあったが、持ち前の明るさと人当たりで上手く仕事をこなしていた。一方のネビロスはそもそも人と関わる気配が無い。
 おまけに先程の機械班の彼とのやり取り。患者との関係を悪化させて返す事もしばしばだ。気付けばネビロスの持ち場を診察室から倉庫へ充てる事が多くなった。まるで臭い物に蓋をする様に。
「はぁ……」
 二人きりの自室で小さく溜息を吐いたスレイマンに即座に気付いたアペルピシアは彼の頬を人差し指で軽くツンツンと小突いた。
「あら?お困りかしら?」
「あぁ……あの銀髪のお兄さんがさ」
「銀髪?あ、ネビロスの事?」
 彼可愛いわよね、と聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしてスレイマンは強張った顔でアペルピシアを見る。アペルピシアは再度人差し指で軽く小突くとスレイマンに頬擦りした。
「全くもう、可愛いんだから」
「……いや、可愛いのはエルだろ」
 安心を掴み取る様に彼女の体を抱き締めるスレイマン。その抱擁に身を任せていたアペルピシアは、少し遠くを見る様な目で言葉を続けた。
「彼、可愛いのよね。ひたむきで愚直で。でも度が過ぎるのよ。真面目過ぎと言うか無理をしていると言うか。正直言って心の健康状態は良くなさそうだわ」
「それは…つまり……」
「本来ならもっとしっかり休ませた方が良いんじゃないかって事」
 ギロク博士のテロで妻と娘代わりの機械人形をネビロスは喪った、と人事部は説明してくれた。それはきっと、耐えられない心の傷だった筈だ。おまけに彼自身もほぼ一ヶ月昏睡状態に陥っていたと言うくらいだ。心身共に限界を味わったに違いない。
 もしも自分も目の前でアペルピシアを喪ったら。
 たらればでも想像したくない光景を思い浮かべてしまい、スレイマンは抱き締める手に力を込めた。
「おれ……ネビロスと仲良くなれたらなって思うんだ……やっぱ同じ仕事をする上でさ、連携って必要じゃん」
「そうね…」
 アペルピシアも抱き返す腕に力を込める。この温もりが消えてしまう恐怖。それを思うと少しだけネビロスの気持ちに寄り添える気がした。
「最低かな…?おれ……」
 自分がその立場で無くて良かった、と思ってしまう事がある。
 そう言うスレイマンの背中に、彼と同じだけの力で抱き締め返したアペルピシアは一言、「大丈夫よ」と呟いた。
「私も、そう思ってしまうもの」
「エル……」
「患者の心のケアをする精神科の癖にって、軽蔑する?」
「まさか!だっておれもエルも、医者である前に一人の人間だ」
「うん、そうよね。人間だから、自らも余裕が無いと他人に施す事は出来ない。自分のコップが殆ど空の様な状態で誰かに分けようとしても、自分も渇いてしまうし相手も満足させられない。自分がしっかり地に足着いた環境に置かれてから人を助けようと思うのは、責められる様な事じゃないわ。貴方が私に『一人の人間だ』って言ってくれた様に、私も貴方に『一人の人間よ』って言う。その時貴方に何か下心があっても無くても、貴方がした親切や思いやりで相手が救われたらそれは本当の意味での『救い』に変わりないのよ」
 ね?とふにゃりと微笑むアペルピシアの口元から彼女のチャームポイントである鋭い犬歯が見えた。猫の様な彼女を見てスレイマンは吐息を漏らす様に笑うと、彼女の額に自分の額を優しくぶつけた。
「ふふ。スレイマンには催眠術が効かないから、催眠状態で軽く楽にしてあげたいところだけど伝えたい事を全部言語化して言わなきゃいけないのよね」
「ありがとう。愛してるよ、エル。おれ、エルの催眠術効かなくて良かった」
「ふふふ…何それ」
 寄り添う二人の夜はそっと暮れていく。
 次の日、二人は相変わらず仏頂面のネビロスと会話を交わすのだが昨日までと違うのは、ネビロスの冷え切った心をゆくゆくは溶かしてやろうと目標が出来た事だ。
 特にスレイマンのネビロスに対する受け入れの優しさは、ほんの少しだけネビロスの表情を本来の朗らかさに引っ張っていた。

歩み始め

 ネビロスが入社したは良いものの、あまり馴染む事もせず三週間は経過しようとしていた。
 とりあえず先日の機械班の彼との揉め事は、ネビロスの結社に来るまでの経緯も知らず、だが若いのに暗い顔をして女性の影も見えない彼を見て「女の子でも紹介しようか」だの「飲みに行ってナンパでもすれば気分が晴れる」だの「この状況だから人恋しい子は多い」だのデリカシーのカケラも無い事を言われた為にネビロスが静かに激怒した事による。
 そりゃあまぁ怒るよな、とスレイマンは納得したし、ケンズやミクリカと違い限りなく安全圏から結社に入社したらしい機械班の彼の軽薄さに当てられたネビロスが、それでも気を病まずにまだ反撃出来た事に安堵しつつそう言う事の積み重ねでネビロスは心を閉ざしているのか、とも思った。
 余談ではあるがこのデリカシーのカケラも無い機械班の彼も、心なのかプライドなのかはさておき傷付く事はある様で。数ヶ月後、カンテが寒い寒い冬の空気に包まれたある日。片思いしていたツインテールの彼女にフラれた腹癒せに恨み言を呟いていたところ運悪く彼以上に彼女を想っていた貴族にその悪言を聞かれて彼の怒りを買い、思い切り怒声を浴びせられた挙句結社を辞める事になるのだがそれはまた別の話だ。
「あ、あのぉ……スレイマン、先生……」
 物思いに耽っていたスレイマンの背後からおずおずと声を掛ける若い女の子。そこに居たのはネビロスと同時期に結社にやって来たまだ十代のミア・フローレスだ。
「ん?どうした?あ、スレで良いよ」
「…はい!スレ先生!」
 にこにこと微笑みながら返事をするミアにつられてスレイマンも笑顔になる。ミアはテロの日によほど酷い目に遭ったのかその当時の記憶の一部が欠如していた。突如として家族を喪った彼女が結社に保護されるまでの間何を思っていたか。そんな事は考えたくはないが、容易に想像が付く。
 考える度に、風に舞う砂や火薬の匂い、人間の体が膿んで崩れていく匂いや死臭を思い出す。そんな環境にも、この子と同じ歳の頃の子供達は居た。
 子供達は、皆一様に同じ目をしていた。
 大切なものを奪われて壊れた心。それを瞳に写した様な、絶望に彩られた濃い闇を湛えていた。
 きっと彼女も同じ闇を湛えていた筈だ。そしてそれに耐え切れなかったから自ら記憶に蓋をする様にと本能的にその選択をしたのだろう。
『注意はして、でも普通に接するのが良いと思うの』
 医療班のメンバーで会議をした時にアペルピシアはそう言った。後に一般メンバーも交えた話をした際にカウンセラーであるクインもそれに同意した。
 注意深く観察をしつつ出来るだけ普通にやり取りをする事。彼女が無理矢理眠らせた記憶を無理に叩き起こす事の無いように。もしも目覚めてしまった場合誰かが傍に居て支える事。
 それが理想である。簡単に言えるが難しい内容だ。
 自分にはアペルピシアが居るし、心配はしていても本当の意味でミアを支える役目に名乗りを上げることは出来ない。いつか彼女にそう言う支えたる人物が現れる事を願いながら今日もスレイマンは『良いお兄さん』に徹していた。
「あの…スレ先生、私ヴォイドさんと一緒にお仕事できる日ってあるんですか?」
 うずうずしたようにそう尋ねるミア。彼女から出た予想外の質問にスレイマンは少しだけ『良いお兄さん』の仮面を剥がしそうになってしまった。
 ヴォイドは少しばかり特殊な人間である。カンテ国にある一等治安の悪い地域の出で少し前に結社にやって来たのだが、彼女の履歴書にはおそらく採用に当たった人事部からのメッセージで、要約すると「要注意」と書かれていた。
 医者をしていた様だが無銭飲食の常習で近年の犯罪に多数加担しており、売春をしていたと言うのでおそらく奔放である。二人きりを避けるように。そんな事が書いてあった。
 実際には、これは大分採用担当者の憶測が入り込んだ記述である事をスレイマンは知ってしまう。ヴォイドが売春をしていたと言うのは本人曰く、「一人の人間と仕事で恋人ごっこをしていただけ」であり不特定多数を相手にしていたわけでは無い。
 となるとそれはもう恋人なのでは?と口を滑らせた時、ヴォイドは少しだけ顔を曇らせた。まずい事を言ってしまったのかもしれないが、兎にも角にもヴォイドの生業は本当にただ純粋に医者であり、誰彼構わず誘う様な女性では無かったと言うのは少し前に話をして?スレイマン自身が実感した事だった。
 むしろ彼女にはそれ以上に大きな問題があった。それは岸壁街出身と言う事にも起因するのか、臭いの問題である。最下層の汚水の様な腐った物の様なとにかく不愉快な臭いが彼女の着衣に付着して取れなかったのだ。その為入社してからしばらく倉庫で備品整理のみさせていた。
 しかし最近になって何か心境の変化があったのかヴォイドはその辺りを気にし始め今では不快な臭いは完全に無くなった。むしろ良い香りを纏うのが好きになった様で、そしてそんな彼女に惹かれる男性が増えて来たのも事実だ。
 彼女の臭いで戦場の記憶がフラッシュバックしたスレイマンの判断によってミアから遠ざけられていたヴォイドだが、今の彼女ならもう大丈夫なのではないか?とも思った。
 少し前から極端に愛想の悪いネビロスと臭い問題のあるヴォイドを主に倉庫に充てていたのだが、流石に人手の足りない今備品整理だけをやってもらうわけにもいかずそろそろ診察の現場をメインにしようと思っていたところだ。そこにミアの様な子が居てくれたら人間関係の綻びの様なものも上手く噛み合う気はしていた。
「でもなぁ……」
 完全にミア頼りだ。情けない話だがまだネビロスともヴォイドとも完全に信頼関係は結べていない。どころか、好意的に見られているかどうかも分からない。そんな二人を纏めるのにミアが鍵になってくれたら、などとそんな役割をこの幼気な少女に任せて良いのだろうか。
「ネビロスとヴォイドの二人は今基本同じ場所に充てたんだけど、ミアはあの二人と仲良くなれそうか?」
「え?ネビロスさんとヴォイドさんが同じところに…?」
「あぁ、ちょっとあの二人周りに対して壁があってなー……むしろ壁がある者同士仲良くなってくれやしないかと……」
 そう言いながらミアの顔を見たスレイマンは素っ頓狂な声を上げそうになった。何故なら目の前のミアは顔を真っ赤にし、例えるなら「はわわわわ…」と言った反応をしていたからだ。
「あ、あれ?ミア?」
「ネビロスさんとヴォイドさん、ずっと一緒に居るんですね……」
「うん?うん、そうだな」
「ネビロスさんと……あんなにスタイルが良くて綺麗なヴォイドさんが仲良く……」
 臭いの問題もあって大分険悪だったんだなこれがまた。そう言い掛けてスレイマンは開き掛けた口を閉じた。最早解消されたと言っても良いヴォイドの話を知らない子に蒸し返すのも悪い気がしたからだ。
 しかしそれ以上に気になったのがミアの反応だった。ヴォイドに対する評価はまだ分かるとして、ネビロスへのそれがまるで片思いしている様だったのだ。
 しかし、ミアは十七歳。今年やっと成人を迎える年で当のネビロスは確か資料を読んだ時に同年代だと思った記憶があったので二十代後半。結構な歳の差がある気がするのだが。
「あー……ミア?変な事を言っても良いかな?おれ、人並みに恋愛モノは観てる方なんだけどどうにもミアがそれ系の作品の登場人物に見えて来た」
「え!?」
「端的に言うと、何か恋してそう」
「え!?え!?わ、私あの、ちょっと格好良いなって思ってるくらいで!好きかどうかはまだちょっと……!」
 そう言うミアの顔は言葉に反して真っ赤であり、とてもネビロスに抱く気持ちがただの『憧れ』であるとは思えなかった。
 初々しい彼女を純粋に応援したくなったスレイマンは、当初抱いていた「自分が本来負うべき役目をミアに押し付けている」と言う考えから「ミアと他メンバーの仲を取り持つ意味でも彼女に任せる」に改め、正式にヴォイドとネビロスを部屋に戻し、ミアと共に一般職に回ってもらおうと思った。
「なぁ、ミア。ちょっと相談があるんだけどさ。ネビロスとヴォイドはミアが思ってる様な間柄じゃないんだよ。それどころか、二人とも馬が合わないのか一言も言葉を交わさない日もあるみたいなんだ。そんなの寂しいと思わないか?」
「え?そうなんですか?それは確かに、寂しいです……」
「だろう?そこでミアにちょっと相談があるんだよ。ミアにしか頼めない相談事がさ──…」
 問題児達を部屋に呼び戻す。スレイマンにとっては賭けではあったが、不思議とこの目の前に居るスカイブルーの瞳を見ていたら上手くいきそうな気がしたのだった。

意外とどっちもどっちな二人

 相変わらずやたら大きいな。
 不躾だし大変下品だとは思いつつもネビロスはぱっと見て正直にそう思った。
「ネビロス・ファウストです。よろしくお願いします」
「……ヴォイド・ホロウ」
 彼女に抱いた印象は自分を棚に上げての『愛想がまるで無いな』では無く彼女のスタイルによるもの。改めて挨拶は交わしたが、ファーストコンタクトは曲がり角でぶつかると言うベタなもので、しかし諸々あって恋なんて始まる予感を微塵も感じさせない程彼女が苦手だった。
 その出会い方をした際、ヴォイドの凶器とも言えるスタイルの良さをネビロスはこれでもかと間近で見てしまったのだ。そして慌てるネビロスを見てヴォイドは嘲笑した。少なくともネビロスにはそう見えた。
 聞くにヴォイドは娼婦をしていたらしいと言う。自分とは縁遠い人間だし、きっとそう言う人間は自分の様に慌てふためく男を揶揄うように笑うものなのだ。
『ふーん…意外。興味あんだ、そう言うの』
 あの時のあの反応は、彼女が娼婦で自分の様な慣れない男を揶揄っての事なのだ。
 そんな色眼鏡を掛けたネビロスは、自身の作り上げたヴォイドの人物像を信じて早々に彼女に対して壁を作り、そしてヴォイドはヴォイドでそんな事日常だから気にも留めないと言った感じで二人とも仕事に当たっていた。
 倉庫での仕事は楽だが割合すぐに終わってしまうので、空いた時間をいかに潰すかが問題だった。考える余裕が生まれるとどうしても脳裏にテロの日の事が浮かんでしまう。ボトボトボトッと臓物を落とす様な音が響く様な気がしてネビロスは頭を抱えて震える。
 運悪く、そんな現場をヴォイドに見られた。
「あ……」
「……何ですか」
 頭の痛みで少し上擦った様な震える様なネビロスの声は、拒絶の色を含んでヴォイドに発した。ヴォイドはそれを見て一度抱き締める際の予備動作の如く手を広げたが、一瞬何かを考えてそれを止め、ポケットをゴソゴソと弄るとポイっと何かを投げて寄越した。
「……これは?」
「外の薬屋で売ってた頭痛薬。前勝手に薬処方しようとしたらエルに怒られて没収されたから。何か上だと一定ラインより上の強さのある薬って処方箋が無いと駄目なんだって。面倒臭いよね」
「あぁ…だから薬局でも売ってる様な頭痛薬を……」
「……あれ?もしかして、単に薬かと思ったけどやっぱり違う方法が良かった?そう言う類の頭痛…?或いは心因性とか……?」
 本人は一言もそんな事を発していないのに、期待した?と言わんばかりに覗き込んでくる様に見えたヴォイドを鬼の形相で睨み付けたネビロスは口に錠剤を放り込むとペットボトルに入っていた水で流し込む。そしてそのまま再度彼女を睨み付けた。
「……そうやってまた揶揄うんですか?」
「え?また?またって何?」
「覚えの無いフリをするなら別に良いです」
「フリも何も本当に覚えが無いんだけど」
 はぁ、と面倒臭そうに溜息を吐いて持ち場に戻るヴォイド。ネビロスも痛みが緩和されてすぐに自分の持ち場に戻った。
 あ、お礼を言っていない。
 真面目なネビロスはそう考えたが振り返ると既にヴォイドはいつもの無表情で薬品のラベルと睨めっこをしていた。罪悪感を抱えたままでは上手く仕事が出来ず焦り始めていたネビロスだったが、視界の端でヴォイドが薬品を懐に仕舞い込んで居るのが見えてしまい直ぐに彼女の元へ走る。
 入社したての頃、岸壁街での殺伐とした生活からまだ抜け切らなかったヴォイドはしばらく薬品の窃盗を繰り返していた。ネビロスが一緒に倉庫に充てられたのは、いざと言う時彼女を止める為でもあった。
「……痛い」
 手首を掴まれそのまま腕を持ち上げられ、更に壁に押し付けられる。身体の距離を詰められ足の動きも封じられ、まるで壁とネビロスに挟まれる様になったヴォイドは一瞬目を剥いた。
 それは柔術の経験のあるネビロスからしたら身動きを取れない様にする固め技を繰り出したに過ぎず、本来なら床に押し倒して発揮するそれをしてしまうと倒した衝撃等諸々から制止より過剰な暴力の面が目立ってしまう為にやり方を少し柔和にしたのだが。それでも、まるで襲うかの様な止め方をするネビロスを『悪趣味』と見做し、明確に敵意を持って睨むヴォイド。ネビロスは怯む事なく彼女を同じだけの敵意で睨み返しながら無言で腕を掴む手に力を込める。隙を突いて彼を蹴ろうとした足も力技で制止され、ヴォイドは心底嫌そうに顔を歪めた。
 礼を言おうと思っていたが、盗みを働く様ならそんな事は後回しだ。
「その手癖の悪さを改めなければ痣が増えるだけですよ」
「ふん……前私の手ただ掴んだだけで謝って来た癖に……」
「それは貴女をまともな人間と見做していたからです。でも今は違います。私の前にいる貴女はただの盗人です」
「……嫌な奴」
「何とでもどうぞ。私は悪事を働く人間に慈悲も遠慮も持ち合わせていません」
「はぁ……」
 やっとネビロスの身が離れた時、痣になった手首が痛むのかブンブンと振りながらポケットから薬を捨てる様に取り出すヴォイド。大袈裟な動きからは薬を取れなかった悔しさなのか、他の理由か、とにかくヴォイドの苛立ちが見て取れた。ネビロスはそれに釣られて目線を向ける。兎にも角にもポケットをひっくり返すまで見届けねば、彼女は疑われたままだ。
「見下してる癖に……ガッツリ見てくる嫌な奴…」
 ボソリと呟くヴォイドに目を細めたネビロスは、更に嫌そうな顔をした。
「見てくる…?貴女がちゃんと盗った物を全部取り出すか、確認しているだけです」
「……そう言う事にしといてあげる」
「そう言う事も何も、そうです」
「お前、嫌い」
 どっちもどっちである。
 傍目に見たら何だかどっちもどっちでしか無いのである。何でこんなにも仲良く出来ないのか。スレイマンの苦労を知らない二人は静かに刺々した空気を纏いながら作業を続けた。
 ネビロスはヴォイドが盗みを働かない様にと牽制しながら。ヴォイドはネビロスの頭痛を心配しつつあからさまな敵意を向けてくる彼に苛立ちながら。
 一触即発では無いが、このままでは間違っても仲良くなれなそうな二人。そんな二人にその日声を掛けたのはアキヒロで、倉庫に来るなりこう言うのだった。
「お二人とも、そろそろ診察室に戻って一般の仕事をしませんかぁ?僕達皆で仲良く連携しないと外でのお仕事が務まりませんから」
 嫌そうな顔を二人同時に向けたのは言うまでも無い。そしてそれに気付き『真似をするな』と言わんばかりに睨み合う。
 そんな二人を見て、『実は意外と気は合ったりしないのかなぁ?』と思うアキヒロであった。

みんななかよく

 きゅっと握りしめた拳は、ミアのやる気の表れの様だった。
 ネビロスとヴォイドが比較的堅くもなく、むしろ脱力していそうな愛想の無い挨拶を交わした後に口を開いたミアは見るからに緊張していて、挨拶の元気の良さはどちらかと言うと空元気にも見えてしまった。
 ネビロスもヴォイドも、二人より遥かに年下の子がこんな空気を発しているのに特に気にする様子も無く、一瞬覗き込んでいたアキヒロは少しだけ不安気に眉を寄せた。
 それは、今回のテロで出来た奇妙な縁。ネビロスの知らぬ彼の姿を見ていたアキヒロからしたら少し心配なところがあったのだ。
 多かれ少なかれ誰も彼もに悲劇はあれど、少なくともネビロスは一部始終を覚えてしまっている。腕を負傷する程拳を奮い、ショックのあまりまともに意識を取り戻す事を放棄したくらいには。
 ヴォイドがどんな人間かもまだまだ未知数であり、ミアの精神状態も気になるところだ。
 そんな三人を同じ空間に放置して果たしてどうしたものかと少し様子を見ていたアキヒロだが、やはり予想通りこの場の空気を引っ張って行ったのはミアだった。
「あ、あの…!私つい先日まで高校生だったんですけど……!お二人はどこの高校に通われてたんですか!?」
「……あぁ、私はケンズに住んでいたのですが高校はミクリカに通っていました。遠かったので通学が大変だった、くらいしか思い出は無いですが」
「私、高校行ってない」
「そうなんですかー……えっとぉ……じゃあ次はその、あのぉ……」
 しかし、悲しい程の続かない感。ミアはともかくネビロスとヴォイドは人と関わろうとする気が更々無さそうだ。まるでミアが一人で喋る様な会話を交わし、この日三人の顔合わせは絶妙に失敗とも成功とも言えない形で終わった。
 ミアが二人とちゃんと喋れる事が分かったと言う意味では成功だが、矢張りネビロスとヴォイドは他人に心を開かなかったと言う意味では失敗である。
 頑張りましたね、と慰めの言葉をミアに伝えるアキヒロ。しかしミアは、存外に嬉しそうに上気した顔を彼に向けた。
「ネ、ネビロスさんがいっぱい話してくれました…!!」
「え?」
 いっぱい話した?あれが?
 アキヒロは困惑しながらミアを見るがそれでもミアは嬉しそうだった。
「ネビロスさん、私の目をしっかり見て話してくれたんです!」
「あれ?今まで見てなかったんですか?」
「多分、私の声が小さいから気付かなかったりとかしたんだと思います!」
 元気なミアの声が聞こえないとは考えにくいので、おそらく意図的に避ける様にしていたのだと思われるネビロス。言葉掛けが重要な職場で他者と交流を深めようとしないと言うのは頭の痛い話だが、ミアの話によると少しずつ、少なくとも彼女には心を開こうとしてはいるらしい。
 となると、問題なのはヴォイドだろうか。
 生活の質も倫理観も、今まで培ってきたもの全てが自分達と一般的なカンテの国民の層と違うであろうヴォイド。そんな彼女に不安を覚えていたのはどうやらアキヒロだけでは無かったようだが。
「……とりあえず、ネビロスさんだけでもミアさんと同じ方向を向いていて欲しいですね…」
 ネビロスの後を追ったアキヒロは『ヴォイドの事で話がしたい』と彼を呼び止める。
 まるで『待っていた』と言わんばかりにゆっくりと振り向いたネビロスは、ヴォイドの名前に──その名を口にしたアキヒロごと射抜かんばかりの心底冷たい目を彼に向けた。

 * * *

「ミアってさ、何で結社来たの?」
 調剤室で薬剤師の手伝いをしながらヴォイドはミアにそう尋ねた。ミアは少しだけ目を伏せたが、強い瞳でヴォイドを見つめ返す。
「……テロの日に軍警さんに保護してもらったんです!その前から機械人形のお姉ちゃん、行方不明になってて……なってて…えっと、それで……えーっと……?」
 言葉に詰まるミアをヴォイドは不思議そうに見つめる。しかし何かを察した彼女は、それこそがミアの心に巣食う闇だと理解した。
 きっと両親共に無事では無かったのだろう。しかし言葉に出すのが辛いから、どこか濁した様な言い方になる。
 結社に来た、しかも保護を経て来たと言う時点で何かしらを抱えているのは間違いない。
「……ねぇ、ミア。ミアの悲しい思い、取り除けるって言ったらどうする?」
「え……?」
「ミアのその思い出があまりにも抱えきれない程辛かったら、方法はあるけど」
 この時ヴォイドは本当に本心からミアのことを思い、この提案をしたのは事実だった。ミアの様に何かを抱え、且つその思いを一人で抱えきるのが難儀で壊れてしまいそうな人間をヴォイドは何人も何人も淡々と治療・・して来たのだ。それらの患者は確かに良い金になるから治療を施して来た。だが、この人懐こい少女が、『岸壁街と縁もゆかりも無い普通の子がそんなトラウマを抱える』などと言う状況を岸壁街出身のヴォイドは認めたくは無かったし、哀れみを掛けたくなったのだ。
 この国で不幸な子は、岸壁街の人間だけで良い。
 地上の子が不幸など、本来ならきっとあってはならなかったのだから。
「そんな方法あるんですか?」
 くりっとした目でミアは尋ねる。それはまるで無垢な子供の様に純粋だった。
「あるよ。ちょっと寝て、起きたら終わり」
「そんな簡単に…!?魔法みたいですね!」
「魔法……?まぁ、確かにね」
 逆を言えばそれだけ人間は脆いと言う事だ。
 突けばそこから広範囲に崩れる様な脆さのある箇所を持っている。ミアの様に自覚しているのか居ないのか、しかし何か良からぬものを抱えているなら尚更ヴォイドの治療・・は効く筈だ。
「ヴォイドさんって凄いんですね!でも……私今、忘れたい程悲しい思い出って無いからなぁ……」
 その言葉に度肝を抜かれたのはヴォイドだった。悲しい思い出が無い?どう言う事かと尋ねると、ミアは一瞬悲しげに顔を伏せて口を開く。話しながらミアの瞳は潤んでいき、その内ぽたりと一粒の涙が溢れた。
「パパとママが、もう居ないって考えるのはとても悲しくて悲しくて……」
「え?じゃあ……」
「でも、それって無視出来ない現実じゃないですか……忘れさせてもらって、その瞬間はちゃんと忘れられてたとしても、きっとどこかで気付いちゃいます。そろそろお家帰ってパパとママに会いたい!って寮の荷物纏めて、何も知らずに家に帰ったらきっとその時また私は全部思い出しちゃうんです……」
「あ、そっか……」
 地上の子には『帰る家』があるのか。
 ヴォイドはその場しのぎの様な環境に身を置く事が当たり前でその事を失念していた。だとしたら確かに、両親の事を忘れさせるのはただただ酷な話だ。ふとしたきっかけで喪った哀しみを再度自覚せねばならないのだから。そんな、ともすれば死にたくなる程の悲しい経験を一度忘れさせて二度体験させるなど鬼畜の所業と言えるだろう。
 忘れさせる療法はミアには合わない。ヴォイドは脳内でミアと言う人間への備考をそう書き換える。そしておそらく自分の出る幕は無いだろうと言う事も。
「……でもヴォイドさん、ありがとうございます!私、色んな人に気に掛けてもらえて幸せです…!」
「うん…まぁ、気に掛けるだけで手立てが無ければ役に立たないだけだけど」
「そんな事ないですよ!私はヴォイドさんに気に掛けてもらえたのがとっても嬉しいんです!」
 薬も何も要らない、なんてお手軽な治療。
 ヴォイドは一瞬そう思ったが、まぁそれも良いかと思い直した。岸壁街の下層ではあり得なかった答えに少しだけ頬を緩めながら、こんな治療の仕方も地上では有りなのかと思いながら。
「ありがと。ミア」
「こちらこそです!ヴォイドさんに心配してもらえたの、私素直に嬉しくて…!」
「ふふ、そっか」
 ヴォイドは照れ臭そうにミアの頭に手を置く。彼女にそうした様に、自分も誰かから優しく撫でられた記憶がある。こんな風にぽん、と優しく撫でられた記憶を辿ろうしたヴォイドの頭は、遠い昔に愛煙家のスーツの男に大層優しく愛された記憶を呼び起こした。
『ヴォイド』
 そう呼ぶ男の愛おしそうな顔。しかしヴォイドの頭の中で、その顔は忽ち黒い泥の様なモノに塗れて行く。彼女の頭の中で、彼は絶望に塗り潰されていく。
 最早部屋を出て行くあの時、どんな顔をしていたのかも思い出せない。彼が何を思っていたのかも関係無い。大事なのは、あの日置いて行かれたと言うその事実だけだから。
「……クソ……」
 ボソリと呟くヴォイドの顔は、直前までミアに見せていた表情とは正反対の闇を湛えていた。

 * * *

「ネビロスさん、ちょっと良いですかぁ?」
 語尾が間延びしたような声音。アキヒロの穏やかな特徴ある言葉遣いだ。しかし、振り返ったネビロスの目に映ったアキヒロは普段の彼よりも険しい顔をしていた。
「…………」
「ヴォイドさんの事なのですが……」
「……ヴォイドがどうかしましたか…?」
 ネビロスさん、まず先に相槌と言うかお返事をしましょう。
 そこまで出掛かった言葉をアキヒロは飲み込む。同年代の大人相手は大人相手で、かつて患者として多かった年配の人間以上に時に気を遣うものだ。
 気持ちを切り替える為一つ咳払いをすると、ゆっくり周りを見渡して人が居ないことを確認する。自分とネビロス以外いないと分かって初めてアキヒロは重く口を開いた。
「……ヴォイドさんが岸壁街で医者を生業としていたものの無免許であったと言うのはご存知でしたか?」
「ええ、一応。後から知られて心象悪くなるより良いと考えたのかは知りませんが馬鹿正直に明け透けにしていましたから」
 ヴォイドの名前を出すだけで、ネビロスの目が怒りによるものか静かに見開かれる。普段彼のしない様な珍しい表情に素直に驚いたアキヒロは、彼に言うべきではなかったか?と迷いつつもそのまま言葉を続けた。
「……退っ引きならぬ事情を抱えていた方々に施していたと言うのは判明してはいるんですが……それでですね、彼女はかつて医療行為をしていましたが免許が無いので……」
「退っ引きならぬ?岸壁街の人間なぞ退っ引きならない人間ばかりでは?そう考えれば彼女が日常的に免許も持たずに医療行為をしていたと見做して良いでしょうね。それはつまり、結局ヴォイドが危険な女性と言う事には代わりないでしょう?」
「え?あ、いや危険と言うか…つまり結社の肩書きとしては彼女は貴方やミアさんと同じ一般職なので、ヴォイドさんが無茶をしない様にネビロスさんも是非コミュニケーションを日頃から取るようにしていただけると僕としてもありがたくてですねぇ……」
「ならば一度、人事部が補完した彼女の履歴書を私も見させていただきます。悪用はしないので御安心を」
「あ、ネビロスさん!それはちょっとプライバシーが……」
「……同じ医療班のメンバーであると言うのにおそらく私より人事部の方が彼女を知っているのでは?と言うくらい接点が無いのです。そんな危なげで恐ろしい女性と同じ空間に放り込まれるなど御免被りたい。ですが仕事ですしそんな事も言っていられないのなら、こちらが彼女を知る他対策は無いじゃないですか」
 そう言ってネビロスは履歴書の纏められたファイルを取り出し、ヴォイドのそれを探し始める。完全に彼の中でヴォイドと言う存在がある種の悪玉めいてしまっている事にアキヒロは小さく溜息を吐く他無かった。
 ただただ同僚として仲良くして欲しいだけなのだが、一体どうすれば良いのやら。
 その内、どすん!と言う鈍い音が鳴り響きアキヒロは驚いて小さく肩を揺すった。音の出所を探ると、ネビロスがファイルを落とした様だった。
「おや……そのファイル重いですからねぇ。ネビロスさん、お怪我は?」
「………」
「ネビロスさん…?」
 聞いているのかいないのか。その瞬間、ネビロスは何かに気付いたかの様にハッと顔を上げ、ボソボソと聞こえるか否かの小さな声で何かを呟くとアキヒロを押し退けるようにしてどこかへ行ってしまった。
 アキヒロはネビロスに自分の言いたい事の三割も伝わっていない事を感じたし、ネビロスがヴォイドに対して抱えている負の感情の大きさを感知して頭が痛くなった。
「あれ…?これ、まさか……」
 そしてネビロスが落として行ったヴォイドの履歴書。そこに面接をした人事部が書き記したであろう『ロボトミー』の文字を発見し、更に頭を痛めた。慌てて走り出したネビロスの様子と嫌な符号が合致する。
 彼はもしや、彼女にこの行為の是非を糺しに行ったのでは無いだろうか。

 * * *

「……クソ……」
 嫌な事を思い出した。
 そう言いたげなヴォイドが虚ろな目はそのままにゆっくりとミアに近付く。心に何を抱えているかまるで分からないその表情にミアは少し呆けた顔を向けるが、ヴォイドが口を開く前に慌てて割り込む様に体を捩じ込ませたネビロスは彼女が言葉を紡ぐのを許さなかった。
「…ミアに何をしようとしています……?」
「は……?」
「ネ、ネビロスさん?」
「……いい加減にしろよ、お前。私がミアに近付いてお前に何の損があるの」
 ぐっ、と足を一歩前に出し敢えてネビロスに近付くヴォイド。ネビロスは引くでも無くただヴォイドを睨む。ヴォイドが仮にぐいぐい近付こうが、鼻先が付きそうな程密着しようがネビロスは引かない。お互い一歩も引かぬ意地と意地のぶつかり合い。しかし表情が見えないとただ密着しに行っているだけに見えてしまい、むしろそんな二人を見ていたミアがその密着っぷりに慌て出す程だ。
「ま、ま、待ってください!」
 咄嗟に両手を前に出す様に構えるミアだが、その手の平はヴォイドとネビロスの上腕を優しく『ふにょん』と触るだけだった。
 そんなミアの一挙一動に少なからず毒気の抜かれる思いになる二人。何だかミアを見ていると、争う事自体が無駄な事の様に思えてくる。そんな気にさせる何かをミアは持っていた。しかし、その彼女に何かをしようとしている──様にネビロスには見えていた──ヴォイドを許せる程の心の余裕は彼には無かった。
「……ミア、少しヴォイドと話があります。席を外していただけますか?」
「え……?お話ですか…?」
 瞬時にしょぼんと落ち込んでそうに見えるミアを気に留めるよりも先にヴォイドの手を引き廊下を進む。突き当たりの誰も使っていない倉庫へ彼女を乱暴に押し込むと、ネビロスはヴォイドに詰め寄った。
「何をしようとしていました…!?彼女に何をしようと…!?」
「何、なんだよ…お前…放せったら…!」
「ミアに今、何をしようとしていました…!?」
「何って…何も無いけど…!?ただ普通に話してた、それだけ……!」
「では貴女にとって『ロボトミー』とは何ですか!?」
 その単語を聞いてヴォイドはハッと目を見開く。ガラス細工の様に綺麗な海色の瞳に捉えられたネビロスは、遠い昔溺れそうになった過去を唐突に思い出していた。
「………どこでそれを」
「ミアにやろうとしたかどうなのか、それを貴女に問いたいのです」
「………」
「何故黙るのですか!?」
 ロボトミーとは、ヴォイドにとっても嫌な記憶の一部であった。トラウマを抱え人ならざる人になってしまった人間。けれど、見殺しにしたくないからせめて面倒事を取り除いてくれと懇願するその家族。
 自分の処置により、最初とは別の意味で「人ならざる人」になる患者。
 果たしてそれは生きていると言えるのか。そう尋ねたくなる程に大人しくなり、まるで感情の見えなくなった患者達を淡々と捌いた過去は他ならぬヴォイドにとっても嫌な記憶であったのだ。
 その処置が本当に良かったかなど、本人すら分からなくなっている事もある。そこに加担した事実は、ヴォイドにとっても昏い思い出だった。
「あまりにもミアが辛いなら手段としてはある、と話そうとは思った」
「……!?矢張り、貴女…!!」
「それすらも……そんな状態を『選択肢としてはある』と思わなきゃやってられない程の状況の人間を見た事あるの…?」
「はい…?」
「お前があの治療を『最悪のもの』と見做してる様だからそう聞いた」
「そんな事をせずとも……世の中には適切な治療と言う規定が存在しています。それは旧時代の、規定から外れた医療でしょう?」
「それしか手筈がない人間ってのも存在するんだよ。お前だって、寝ても覚めても悪夢しか見ない状況になったら…そんな世界に身を置いてたら嫌でも分かる」
 そう言われたネビロスの脳裏に血塗れで倒れ込むルミエルの姿が蘇る。
 自分も見たのだ。この世の地獄の様な光景を。未だに忘れられず、剰えあの時の彼女に恨まれ憎まれ今も時折責められている。
 だけど、心折るわけにもいかない。責められるのが今の自分の役目だと思っているから。
 悪夢から逃げると言う事は、弱き者の証だと言う事だ。逃げる事は許されない。許されてはいけない。
「……逃げようもない悪夢に直面したならば、戦う他ありません」
「だから、『戦えない人間』が存在するって話だよ」
「自分が闘わねば、人はそこまで世話なぞしてくれません」
「はぁ……お前、本当に頭硬いし話通じない」
 本当に医療班?と聞き捨てならない疑問をネビロスに発したヴォイドは、彼の方に向き直ると嫌そうに目を細めた。
「お前、ミアみたいな子が近付いちゃいけない人間な気がする」
「……自己紹介ですか?私からすれば貴女も大概ですが」
「お前は、ミアみたいな繊細で戦えなさそうな人間にトドメ刺すタイプだろ」
「貴女は、ミアみたく奮起しようとしている人間を甘言で誘って足を引っ張るタイプでしょう」
「お前みたいな奴、嫌い」
「奇遇ですね、私もです」
 睨み合いつつ牽制をしつついがみ合ってきた二人だがこの日は「ミアに余計な手を出したら許さない」と互いに言い合った事で争いは終了となった。
 この時、ネビロスにとってミアはルミエルに似ている外見のほんの少し気になる女の子と言うだけであったし、ヴォイドにとってミアはロボトミー手術の苦い思い出を想起させる儚い女の子。
 二人の中で勝手に理想のミアの図を作り、相手の思い描くそれを「違う」と勝手に否定して勝手に喧嘩していたに過ぎない。
 売り言葉に買い言葉、こんなにも嫌いな相手の思い通りにさせたくないから意地でも否定する。何とも大人気ない争いの後に付けた落とし所は「お互いにミアを傷付けない為に監視をする」であった。

なった。


「そんな事もありましたよね」
 不意にぼそりとネビロスが呟く。彼の隣にいたヴォイドは溜め息混じりに頷いた。
 二人の目線の先には楽しそうに笑うミア、そして彼女の親友のクロエ、そして嬉しそうに飛び跳ねる毛玉ことシプリ。
 そんな屈託の無い、まだあどけなさの残る笑顔から想像はつきにくいが、ミアは二人が思う程弱い女性では無かった。ヴォイドが行方不明になった時もネビロスが行方不明になった時も、諦めずに前を向き続けたミア。
 そんな彼女の姿を見ながら、かつて勝手にいがみ合っていた二人は溜め息を吐きながら遠い目をした。
 当初の印象以上に、ミアは思ったよりも強い女性だと再確認した事件を二人は思い出していた。
「……何だか、貴女とは至極どうでも良いことでよく張り合っていましたね…」
「本当にね。本当にどうでも良かったよね」
「貴女も随分頑固でしたし……」
「え?頑固はネビロスの方だ」
「いいえ、頑固はヴォイドの方ですよ」
「ネビロスの方が頑固だ。私が頑固度五十ならネビロスは百だった」
「いいえ。私が頑固度三十で貴女が百なら正しいです」
「正しくない。お前が三十とかあり得ない」
 それはとても成人過ぎた男女の会話ではないような、例えるなら『お前の母ちゃんデベソ』レベルの低レベルの言い争いだ。
 そんな事を言い争う二人を見ていたクロエは頭の中でぼそりと『この二人見てるとミアの方が大人に見える』と呟く。当然この二人には聞こえないから低レベルな争いは続く。
「あーっ!ネビロスさん!また眉間に皺寄ってますよ!」
 そんな二人の元にシプリを抱いたミアがとことこと現れる。彼女が悪戯っぽく言った言葉にネビロスはハッとした顔をし、バツが悪そうに自分の眉間を撫でた。
「む、難しい顔をしていましたか…?」
「難しい顔してました!何か考え事ですか?」
 少し心配そうに自分を見るミアには言えなかった。まさか『ヴォイドとの罵り合いが白熱してしまっていた』などとは、とてもじゃないが言えなかった。
「…大丈夫ですよ、もう平気です」
「本当ですか…?」
「ええ。本当に」
「それなら良かったです!本当に、本当に…」
 噛み締める様にそう言ってしまうのは、ほんの少し前に彼がまるでこの世界から消えてしまいそうなそんな弱さを見せたからだろうか。
 気丈に振る舞ってはいたものの、思い出すと今でもミアの心臓は冷える。本当に瞬間的に止まってしまう様な、そんな心持ちになる。
 大切な人が居なくなる。そんな思いは二度としたくなかった。
「…大丈夫です。もう二度とミアを置いてどこかに行こうと思いませんから」
 ポンと頭に手を置かれ、ミアは嬉しそうににこりと微笑む。その場凌ぎでも何でもなく本心から言ってそうなネビロスをヴォイドは虚な目で見つめていた。
『そうだ、何で私ネビロスの事気に入らないんだっけ』
 そう思った時、彼のそのともすれば大切なものすら置いて逃げ出してしまいそうになる弱々しい姿が、自分を置いて去ってしまった男の姿に重なる事に気が付いた。
 置いて行く人間は、嫌い。
 この状況を自分一人のお気持ちで決められると思っている傲慢さも。
 置いて行かれた側がそいつのお気持ちでどんなに振り回され、どんなに絶望するか。
 ネビロスのどんなところが嫌いか何となくヴォイドは把握した。そしてそれを『もう二度としない』と言ったネビロスの事がほんの少しだけ好きになれそうなそんな気がした。
 ラサム歴二一七四年六月。
 テロ発生から一年を目前に控え、皆それぞれこの新しい生活に慣れて来たところだ。
 不意にヴォイドと目が遭うネビロス。彼は、そのグレーの瞳でヴォイドのじっとりと据わった目を見つめた。
 深い深い海の様な、自然を凝縮した様なその瞳を。
「………はっ…」
 ヴォイドの嘲笑う様な吐息にネビロスはまたイラっと眉間に皺を寄せる。多分、ヴォイドはこれでも普通の人がする会釈の様な、そんな微笑みのつもりで笑ったのだろう。しかし慣れていない彼女のそれは嘲笑に見えた。けれどネビロスとてそれには気付いているので、一瞬眉間に皺を寄せたもののそれ以上は特に突っ掛かったりしない。こう言う時は、落ち着いて深呼吸に限る。
 悲劇から一年と言う歳月はあまりに濃く、色々な経験に塗れていた。そしてその経験によりネビロス自身、生まれ変わりの様な成長を感じていた。
「ネビロスさん?大丈夫ですか?」
「……ミア、貴方がいてくれて良かった」
「あ、ネビロス氏。またヴォイド氏に何か邪な感情抱きましたね」
「ムカつく」
 とは言え、最初の印象で決定付いた関係性はなかなか払拭はされないらしい。
 でも、この賑やかさが楽しくて、皆がいて良かったとそう笑うミアを見て、何だかんだ今の生活と今の自分を「悪く無い」と思える面々であった。

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