Twitter創作企画「薄明のカンテ」のまとめ。世界観の説明に始まり、小説・イラスト・漫画・音楽その他、創作企画で生まれた作品を掲載する場所。


親孝行娘

「それでね、それでね」
「うんうん、焦らなくていいよぉ」
 アキヒロ・ロッシは姪っ子のカヤと手を繋いで保育部から寮の部屋へ戻る途中だった。カヤが背負う小さなカバンには、ラッピングされたケーキやらお菓子やらが入っている。
「マジュ姉ちゃんの、えっとね、アンお姉さん!アンお姉さんがね、ケーキをね、くれたの」
「そうなんだねぇ、アンお姉さんがケーキをくれたんだねぇ」
「そうなの!まだね、中身は見てないけどね、きっとね、おいしいよ」
 ほわりと笑うカヤ。片手で抱えたクマのぬいぐるみに「ねー?」と声を掛ける。
「一個だけだから、半分こしてアキくんも食べよ?」
「良いねぇ、半分こしようか。そうだねぇ、お夕飯食べた後にデザートにするのどうかなぁ?」
「うん、わかったぁ」
 一個だけのケーキを半分こ。カヤは母親のレイナとお菓子をよくシェアをしていたのもあり、何かと言うと半分こしたがる子だった。
「医療班のお兄さんお姉さん達からもお菓子貰ってきたけど、いつ食べたい?」
「う〜ん……ケーキと一緒がいいかなぁ」
「じゃぁ、そうしよっかぁ」
 なんて事ない、昨日も明日も変わらない帰り道。だが、皆んなと交換した菓子があるだけで、2人の足取りは少し軽くなっていた。

 帰ってきたアキヒロは、清掃部から戻ってきた洗濯物を箪笥にしまっていた。家事も仕事も全部1人でこなすのは難しく、洗濯だけでも清掃部に依頼できるのはとても助かっていた。特に結社の医療班は医療関係の免許持ちは少なく、その中でも正規の医者は更に少ない為に仕事の負担は偏っていた。
 それでも、ここに行くと決めたのはアキヒロ自身であり後悔はしていない。カレンの最期の約束を守る為にマルフィ結社へ加入した事は一日も忘れた事がなかった。
「今日の夕ご飯はどうしようかなぁ……」
 エプロンをして冷蔵庫をさっと眺めたアキヒロ。一つ頷くと献立が決まったらしく、扉を閉めて鍋に水を入れ始めた。
 挽麦は鍋で温めながらふやかし、隣りで白スープの素を使ってスープを作り、魚つくね焼きのレトルトは電子レンジへ。白スープには隠し味に蜂蜜を追加する。アキヒロがナツヒロと一緒に母親から教わったレシピであり、カレンも大好きだった味だ。レトルトの魚つくね焼きは、カヤが気に入ったからとレイナがよく買い込んでいたメーカーの製品だ。
 煮込んでいる時間に洗えるものは先に洗って待つアキヒロ。脳内では今日の患者についての記憶を反芻する。時間は有限、されどやる必要のある事とやりたい事は無限にあるものだ。
 鍋の中の白スープを軽くかき混ぜるアキヒロ。その足元で彼の服の裾をカヤがくいくいと軽く引っ張った。
「えっとね、えっとね……アキくん」
「うん、なぁに?カヤ?」
 鍋の火を弱火にしてから、アキヒロはカヤと目線を合わせた。
「い、いつも、がんばってくれて、ありがとう」
 緊張からか吃りつつ、ぺこりとお辞儀してカヤがアキヒロに渡したのは画用紙に描いた絵だった。たどたどしい文字で「いつもありがとう」とも描いてある。絵の中心には黄色のクレヨンで塗られた白衣姿のアキヒロ、その隣りにはオレンジのクレヨンで塗られたエプロン姿のカレンがいた。二人とも笑っていて、周囲には色とりどりの花が咲き、青空には雲が流れている。
 反射的に緩みそうになる涙腺を抑えてアキヒロは微笑んだ。
「……カヤ、ありがとう。似顔絵を描いてくれたんだねぇ」
「うん!あのね、アキくん、カレンお姉さんに会うとね、すごく嬉しそうだったからね、一緒にね、描いてみたの」
 花が咲くような屈託のない笑顔で言うカヤ。その顔と似顔絵を交互に見て堪えきれずに一筋、二筋、涙がアキヒロの頬を伝った。
 泣き出したアキヒロを見て、いけない事をしただろうかとカヤがオロオロし始める。
「アキくん、どっか痛いの?もしかして、似顔絵ヤだった?」
「大丈夫、大丈夫だよぉ、カヤ。痛くない……とっても嬉しいからだよぉ……」
 アキヒロの脳裏に蘇るのは、去年の愛の日の事。
 元気に生きていたカレンはベリーソースの入ったチョコレートを美味しそうに頬張っていた。明るいカレンの表情を見る度に、アキヒロはその日にあった嫌な事がふわりと軽くなっていく心地がした。
 ナツヒロ一家も家族三人の穏やかな時間が流れた。三人で撮った写真をナツヒロに送られたアキヒロはカレンとのツーショット写真を送り返したものだ。
 思い出さずにはいられない去年の愛の日の事。あの時と今。比べるだけ虚しい大きな差異。されど、比べずにはいられない。
 カヤが絵をくれた嬉しさと消せない切なさで、ぼぅと熱くなる鼻先。絵を台の上に置くと、アキヒロはカヤをそっと抱きしめた。そんなアキヒロの首にカヤはきゅっと縋り付く。
「似顔絵ありがとうねぇ、カヤ。額に入れて飾ろうねぇ」
「飾るの……?ちょっと、ちょーっと、はずかしいかも……」
 消え入りそうな小さな声でもじもじと呟くカヤ。
「そっかぁ……せっかくカヤがカレンの似顔絵を描いてくれたから、いつも見るところに置きたいだけなんだけど……ダメかな?」
 アキヒロの提案に戸惑ったカヤは視線を下げて何かを考えたようだったが、直ぐに小さく頷いた。
「うん、いいよ。アキくん、それで元気になる?」
「もちろん」
 答えたアキヒロは涙を拭ってカヤの頭を撫でると、白スープの火を少し強くした。

 夕飯後。調達班の子供達が配っていたお菓子(結構美味しかった)や、アンから貰った柘榴のレヤーケーキ(かなり美味しかった)や、医療班で貰ってきた菓子(意外と沢山)や、アキヒロの準備していたクッキー(市販品)を頬張ってご機嫌のカヤはカバンをごそごそ漁っていた。
「カヤ、どうしたの?」
 うー……と言いつつ、ようやく目当ての物を見つけたカヤの目が輝いた。
「これ!」
 そう言ってアキヒロに見せた絵にはカヤとナツヒロとレイナが笑顔で並んでいた。先程のアキヒロとカレンの絵と同じく青空が書いてあるが、場所はどこかの見覚えある道の様だった。
「あのね、パパのも描いたの!どっかでね、いつかね、会えたらね、渡すの」
 いつかどこかで会えるーーそう確信しているカヤは自慢げに絵を持ち上げる。その顔を見たアキヒロは束の間、息を詰まらせた。
 アキヒロが検死した中にも、傷病者にも、死亡者リストにも、ナツヒロはいなかった。死んだとも言い切れないが、生きているとも言い切れない。もし生きているならば、あの日から半年以上経過しているのに一切情報が無いのはおかしな話である。
 これ以上、カヤに身内が亡くなる辛さを背負わせたくないアキヒロ。遺体が出てこない限りこの期待は裏切られないと考えて黙っている事にした。
「よく描けてるねぇ、カヤ。パパが見たらきっと喜ぶよぉ」
「でしょぉ?ここね、よく皆んなでね、お散歩した道なの」
 そう言われたアキヒロは見覚えがある理由に合点が入った。絵の道はナツヒロ宅の近くの遊歩道と色が似ている。
「いつも壁の上でねこさん寝てたの……犬さん怖かった……お花が笑っててね、可愛かったの」
「そっかぁ、そうだったんだねぇ……壁の上に猫さんいたから、ここにも描いたの?」
「うん。ねこさん可愛かったから描いたの」
 うふふ、と女の子らしい笑い方をするカヤに成長を感じ、つられて笑みをこぼすアキヒロ。
「クマちゃんもいるんだねぇ」
「うん。クマちゃんもかぞくだもん」
 ねー、と言いながらクマのぬいぐるみをぎゅっと抱くカヤ。
 絵の中にクマのぬいぐるみはいるが、カヤは頭に大きなリボンを付けていない。毎日付けているリボンの髪飾りはケンズの避難所でとある女性から譲渡されたものなので、家族三人が揃っていた頃は無かった物なのだ。つまり、これは過去の絵・・・・。カヤはカヤなりに、もう二度と家族三人が揃う事は無いのだと飲み込んでいるのだ。
 ツンと痛む鼻の奥に耐えながら、次の言葉を繋ぐアキヒロ。
「カヤ、パパに渡すお絵描きはどこに置いておくの?」
「んーとね……あ、どうしよぉ……わかんなぁい……」
 むぅ……と考え始めたカヤ。アキヒロが一つ提案をしようと口を開きかけた時、カヤが何かを閃いて声を上げた。
「アキくんの絵の隣りにかざろ?」
「それでいいの?カヤ?」
「うん。無くさないし、パパにすぐあげられるし、いつでもパパとママと一緒にいられるから」
「……わかった。じゃぁ、一緒に貼っておこうねぇ」
 壁に貼られた二枚の絵。テロも何もなければ壊れる事のなかった、温かいもしもの世界がそこにはあった。


雨霖鈴曲

「あのね、この間パパに会ったの」
「え」
 相変わらずカヤは暗い所や一人で寝る事を怖がる。その為、常夜灯は欠かせず、寝付くまでアキヒロが隣りにいる必要があった。そんな枕元でカヤは父親に会ったという話をした。
「一緒にかげおくりして、お花畑で遊んだの。元気だよって言ってたの」
 保育部で遠出した事はないし、結社の近くに花畑と言える土地はない。一瞬驚いたアキヒロだったが、カヤはどうやら空想の世界のことを話しているようだと直ぐに気がついた。
「大きな葉っぱの下通って、そのあと、鳥さんに乗せてもらってね、お空飛んだの!」
「そっかぁ、楽しそうだねぇ。お空からは何か見えたの?」
「うんとね、えっとね、皆んなが見えたの。マジュお姉ちゃんとか、フランソワくんとか、先生とか見えたからね、お友達増えたよ、ってパパに言ったの」
「うんうん。パパは喜んでくれた?」
「うん!もっとお友達増やそうねって言ってた」
 幼い子は空想と現実がごちゃ混ぜになりがちだ。子供が空想の世界を話すのを嫌がる大人もいるが、空想は想像力を養う等脳の発達に欠かせない事である。嘘とは違う空想は止めないほうが良いと育児本もアペルピシアも言っていたので、カヤの話にアキヒロは合わせる事にした。
 鳥に乗って旅をしたと言う壮大なスケールの話が、海を超えて不思議の城に到達した辺りでカヤはすぅと夢の世界に入って行った。
「将来はクリエイティブな仕事の人になるのかなぁ」
 しっかりカヤが寝たのを確認したアキヒロは、積み残した仕事を片付けるべく側を離れた。
 今日の症例の調査も、現在治療中の患者の治療計画も、終わらなかった分はカヤが寝た後の時間になる。明日清掃部に預ける洗濯物の整理もせねばと困ったように笑いながら、アキヒロは本棚に向かった。
 パラパラと医学書を捲りつつ、昼間の事をアキヒロは思い出していた。
 医療班としての仕事は少なかったが、今日はイレギュラーが本当に多かった事を。
 愛の日という一大イベントを前にして、人はそんなに冷静でいられない。とは言え、今年の愛の日がまさかここまでイレギュラーづくめになるとはアキヒロも想像していなかった。
 午前から浮ついた空気が漂っていた事はともかく、午後。全員に菓子配りをする殊勝な調達班の子供たちがいると聞いていたアキヒロだったが、堂々とネビロスの為に乗り込んで来て突風の様に引っ掻き回すとまでは考えが及ばなかった。乗り込んできた調達班の子を引き摺るようにネビロスが出て行った後、医療班の中にはなんとも言えない微妙な空気が漂ったのだった。ネビロスとミアの様子は微笑ましいが、引き摺られていった少年も心配で。大道芸人みたいな背の高い人に驚きを隠せていない人もいて。状況を全部理解できた人はあの場には誰も居なかったであろう。
ーーあの日、ケンズで昏睡状態だった人が。いっそ何も知らないまま安楽死できれば幸せではないだろうかと考えた人が。再会した後も何かに憑かれた様に死に急ぐ様だった人が。こうして未来を見据えて生きようとしているーー
 あの時一線を越えなくて本当に良かった、と独りごちるアキヒロ。
 ネビロスの相手がミアであるという事も暖かく見守りたい理由だった。家族が亡くなった時の記憶がすっぽり抜けている、つまりはあまりの悲惨さに己で蓋をした記憶があるミア。この間も世間話の途中に不意に泣き出したとアペルピシアが言っていた。結局、落ち着かせる為に休みだったネビロスを呼んだとか。
 そんな二人が未来を見据えて一歩を踏み出そうとしている。その事自体が、アキヒロは嬉しかった。微笑ましくて、暖かくて、幸せな事だった。支えようとする周囲の気遣いも。
 同時に、彼らと周囲の様子を見ているともう隣にいないカレンの事が過ぎって少し胸が冷んやりしてしまう感覚がアキヒロにはあった。心の一部になっているカレンは常に未来を指し示しているが、隣にいた頃の温もりが無いのはやはり寂しかった。
 実を言うと、結社でアキヒロに声を掛けた女性もいた事はいた。だが、全員玉砕している。それも当然だ。カレンの代わりなどどこにも居ないのだから。
 調達班の子供達が全員引き上げて行った後フユがふとアキヒロに視線を移した。視線が合った瞬間、フユが心配そうに眉を下げた。
「アキ先生……顔色が優れないようですが……」
「大丈夫だよぉ、フユ。人の門出は良いことだからねぇ」
 この時は、空元気でなんとか持ち堪えられた。だが。
ーー本当に……プライベートの事は時間外に片付けて貰えないものかなーー
 現場には居なかったものの、様子を見ていた他のメンバーから話を聞いて知ってしまった。人事部からロード・マーシュがやって来たと思ったら何故か倒れてしまった一件である。
 ネビロスの連勤問題で世話になったのもあり、ロード自身に対して悪い印象はそこまでない。問題なのは倒れた理由と医療班メンバーの対応だ。普段丁寧な筈のネビロスはやたら手荒で、ヴォイドはパイプ椅子を掴んで暴れ、その惨事にアペルピシアが雷を落としたと言う。
 アキヒロが会った時のヴォイドは落ち着いた後だったようで良かったが、何処か無機質な彼女が私情に流されて騒ぎを大きくするとは思わなかったのだ。
「人は見かけによらないとは言うけれど……」
 妙な溜息を吐くアキヒロ。
 それとロードが倒れた理由だ。詳細は知らない。ここ数日、ロードがどんなプライベートを過ごしていたかアキヒロは何一つ知らない。ただわかるのは、ロード・マーシュという男はヴォイド・ホロウの事がどうしようもなく好きなのだろう、という事だ。
 彼の執念深さは、高校にも大学にも追いかけて来たカレンの執念に似ているようにアキヒロには思えた。それ故だろうか。何処か眩しいと思うと同時にどうしようもない切なさも込み上げてしまう。
 ロードが引き上げた後にやってきた総務部のフィオナもそうだった。小動物を狙う肉食獣の様にヴォイドに近づいて一言二言話すと一気に嬉しさが爆発するように感謝を述べて、スキップせんばかりのテンションで去って行った。
 フィオナが何を聞いたのか、ヴォイドがどう答えたかアキヒロは何も知らない。だが、一連のフィオナの小型の肉食獣のような行動は、楽しい事を見つけてあれこれ動き回るカレンを彷彿とさせたのだった。
 暖かく見守るつもりだったアキヒロだが、どうしようもない切なさで結局生暖かい微妙な目でフィオナの後ろ姿を見る事になってしまったのはそんな理由があった。
 一緒にフィオナの後ろ姿を見送ったジークフリートが「アキ先生、ちょっと時間貰っていいかね?」と言い出したので了承したアキヒロは、何もない廊下の突き当たりに連れて行かれた。
「こういうのは、機械人形のおじさんの領分じゃないと思うんだが……アキ先生、今日相当無理してるだろ?」
「大丈夫ですよぉ、いつも通りです。ジークさんも心配性なんですねぇ」
 ふわりと答えるアキヒロに呆れた様な視線を返すジークフリート。
「医療関係者は大体無理を押して仕事に出る。心配性で丁度いいもんだ。それで?アキ先生は大丈夫なのかい?」
「皆んなが幸せなら、僕も幸せですよぉ。心に傷を負っているあの二人が前を向こうとしているんです。祝福以外に何があります?」
 きゅ、と目を細めるアキヒロ。
「だから、大丈夫ですよぉ」
 アキヒロの声が少し震えてしまったのはジークの集音器に届いたのだろうか。わからないが、ジークは機械人形らしからぬ大きな溜息をついた。
「空元気も元気のうちってわけかい。そう言う元気は無理が祟るぞ?前の主人、ピョートルがよく言ってたんだがな」
「もう十分、悪夢は現実で見たので。あの時以上は落ちませんよぉ」
 もし、この時のアキヒロの表情を人が見ていたならば。いつもの春の陽光のような朗らかな笑みが、この時だけは貼り付けた様な表情になっていたと言った筈だ。
 手に持っていた医学書を閉じるアキヒロ。
 調べごとをしようにも、騒ついた心に気を散らされて目が滑ってしまい、アキヒロは文章が読めなくなっていた。
 誰か想える人がいる事は素敵な事だが、渦中の人を見ると隣りに誰もいない寒さが骨身にしみる。スレイマンとアペルピシア。ネビロスとミア。ヴォイド、それにロード。フィオナ。人を羨んでも仕方ないのはアキヒロも十分わかっていた。だが、遺体袋に入れられたカレンが集団で火葬された時の記憶が蘇ると、もうこの世界にカレンは存在しないのだとまざまざと思い知らされるのだった。何もできなかったあの時の無力さものしかかり、拍車をかける。
 熱っぽくなる瞼を軽く閉じ、深呼吸するアキヒロ。こんなところで感傷に浸っていられる程、暇ではないのだ。
 年明け早々に保育部を一人で抜け出して、アキヒロを探しに来たカヤ。引っ込み思案なカヤが大胆に行動する時は決まって何か追い詰められている時だった。
ーー僕よりも、訳も分からず両親と引き離されたカヤの方がきっともっと辛い。カヤを近くで支えられるのは僕しかいないんだから、僕がしっかりしないとーー
 気持ちを切り替えて、洗濯物の整理をしようと顔を上げたアキヒロの視線の先に、絵が貼ってあった。愛の日のプレゼントにカヤが描いてくれた拙い絵だ。
 絵の中では、アキヒロの隣りにはカレンがいて、二人とも笑っていた。
 絵の中では、カヤの隣りにはナツヒロとレイナがいて、三人とも笑っていた。
 そう。何もなければ、今頃。
 息を詰めてカヤの絵にそっと触れるアキヒロ。
 叶うならば、 7月18日の前に戻って、診療所のトイレの窓も直して、カレンには絶対無茶をしないようにと言いたかった。家から出ないでと言っても、あの日出産のあった女性がいたし、止めてもカレンなら行く。せめて、絶対無茶しないでと伝えたかった。
 じわりと熱くなる目頭。
 ハルも完全にシャットダウンしておいたし、ナツヒロに様子見に来なくて良いとはっきり言った。自宅の機械人形もシャットダウンしておくようにと言いたかった。レイナにもカヤと絶対離れないようにと言いたかった。
 後から後から湧き上がる悔しさと切なさと、流れ落ちる涙。一粒、二粒と流れ始めた涙は止めどなく溢れ、袖を濡らして行く。あの時、こうしていればと思うほどに言葉にできない感情に突き動かされるように、アキヒロは肩を震わせて咽び泣いた。

 ねぇ、あれから頑張ったんだよ。
 皆んなの役に立って、って君が最期のお願いをしてくれたから。
 ねぇ、ちゃんとできてるかな。
 君との約束は守れてるかな。

 カレンは僕の泣いてる顔なんて見たくないって言うよね。
 それはわかってるよ。
 けど、今日だけはいいよね。
 愛の日だから。
 泣いてもいいよね。
 君を念って泣いていいよね。

 崩れ落ちるようにアキヒロは座り込んだ。
 他の誰でもない、カレンの温もりが恋しかった。何億光年離れても光を届ける恒星のような人の全てが恋しかった。己の中に残っているカレンの欠片を抱きしめて、必死で仕事とカヤの世話に明け暮れていた半年だったアキヒロも、もう限界だった。
 アキヒロのエバーグリーンの瞳に暗い光が宿る。
 おもむろに立ち上がって薄暗い台所へ向かおうとした瞬間、テーブルに置きっぱなしだったアキヒロの携帯型電子端末に通知が入り画面が光った。ロック画面にふっと映ったカレンは直ぐに消えてしまった。
 真っ暗になった端末の画面をじっと見つめたアキヒロは無造作に端末を掴んだ。
ーー写真があったところで……!ーー
 勢いよく端末を振りかぶるアキヒロ。だが、結局その手が振り下ろされる事は無かった。
 震える息を吐きながら、ゆっくり手を下ろしたアキヒロは端末に保存されていた写真を数枚スライドさせていく。どれもこれも、カレンとの思い出が詰まった写真だ。明るく笑っているカレン、むくれているカレン。二人で和服を着た時の写真、一緒に行ったミクリカ中央通りの写真。カレンが撮ったCherry×Sherryのケーキの写真。
ーーなんでこんな寂しい思いをしてまで生きていなきゃいけない?ーー
 カレンが居ない日々の寂しさをなんとか乗り越えたつもりだったアキヒロ。
 多くの知人が亡くなり、家族も亡くなり、結社に来たものの深い話を相談できる相手は機械人形のフユくらいしか居なかった。そのフユも今は医療班でスリープモードになっている。
ーー明けない夜はないと言うけど、太陽そのものが無くなったなら決して夜は明けないーー
 靄のかかったような思考の中で端末に表示される写真をスライドさせる。そんな中現れたのは一本の動画だった。なんとなしに再生すると、ケーキを食べて頰を紅潮させるカレンが映った。
『美味しい〜!アキ先輩も撮ってないで早く食べて……って、撮ってるの私!?』
 カレンの照れたような笑い声にアキヒロの笑い声が混ざる動画。
 何気ない日常の一コマだったが、アキヒロの目には凄絶な光が刺した。
ーー確か、この日は泣いてる子供を叱り飛ばす親に出会したんだ。『人前で泣くなんてみっともない』って。それでカレンは『悲しみを否定しないで欲しいな』って言ってたんだーー
 ふっと自嘲気味な笑みがアキヒロの口元に浮かぶ。
 泣く事にはリラックス効果があると考えられている。泣くと交感神経からリラックスモードの副交感神経に切り替わり、幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンが分泌されて感情を落ち着かせる事ができる。
 また、涙にはストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールが含まれており、溜まりすぎた体内のコルチゾールを排出する事でストレス軽減に繋がる。
ーーそうだね。そうだよね。『悲しみを否定しない』だよねーー
 医学知識として理解していても、誰か大切な人に言われる事は訳が違うものだ。
 髪に刺していた簪を抜いて手のひらに転がすアキヒロ。蛍玉の隣りに下がる新しい飾りにはカレンの遺髪が入っている。落ちてくる己の髪に気を留めず、慈しむように遺髪入れにそっと触れて目を細める。声なくアキヒロが囁いたのは確信のこもった「大丈夫」の言葉だった。


開雲見日

 翌朝。寝不足で目を瞬かせながらアキヒロはカヤと朝の準備をしていた。
 昨晩、珍しく感傷的になったアキヒロ。なんとか気持ちを切り替えてやらなければならない事を終わらせてから就寝したところ、いつもより睡眠が足りなかったらしい。
 しっかり眠れたカヤは艶々しており、出発の準備で忙しい中で何か書き物をしていた。
「カヤ、何書いてるの?遅れちゃうよ」
「あのね、マジュお姉ちゃんとね、アンお姉さんにね、お手紙書いてるの。ケーキおいしかった、ありがとう、って」
 真剣そのものの顔で言うカヤはまた一つ成長したようで、じんわりとアキヒロの心にもしみてくる。
「そっかぁ、お礼のお手紙書いてるんだねぇ。カヤは優しいねぇ。偉いねぇ」
「今日会ったらね、渡すの。だからね、書けるまで行かない」
「!?」
 珍しく強情っ張りを発動させたカヤのお陰で、保育部にも仕事にもアキヒロは遅刻してしまったのだった。



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