カタストロフの夜を超え／燐花
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rinka_creation 2022年10月03日(月) 18:54:37履歴
この夜を越えれば
この苦難を越えれば
──ねぇ、明日は君に会えるかな？
前編
ヴィアリィ・フォビア
ユーシミア・ロスト
時限式カラミテ
引き戸を開け、付き添いのアペルピシアが診察室から出て来る。続いて、診察を終えた虚ろな顔のミアも出て来て二人はソファに腰掛けた。
「ちょっと飲み物買ってくるわ。ミアは何が良い？」
ミアは小さく首を横に振るだけで何も言わない。アペルピシアが「何も要らないの？」と尋ねると、ミアは今度は縦にこくんと頷きそのまま動かなくなった。アペルピシアは席を立ち、自販機まで歩き出す。乳酸菌飲料があったので気付けばついついそれを買ってしまっていた。自販機と言えばコーヒーやお茶が定番だと思うが、パッと目についた乳酸菌飲料を選んだ辺り疲れているのかもしれない。
「先生」
「あら、貴女外で待っているんじゃなかったの？」
「車の中で待っててもする事が無いんで」
クロエがアペルピシアに駆け寄り、ついでに缶のいちごミルクを買う。そして病院の中で見るには不釣り合いな、腰に手を当て仰け反る様なポーズで一気に缶を煽るとゴッゴッと早飲みした。あっと言う間に一本空にすると、リサイクルボックスに缶をシュート、更にもう一本買い足したところでクロエはやっと口を開いた。
「…どうでした…？ミアは…」
「……診察室でも、殆ど口を開かなかったわ。どこが痛い？とかそう言う事には答えるけど……」
「どこが痛い、以外を伝える必要ってあるんですか？」
「ええ。誰にやられたか、とかは聞く事もあるわよ」
「婦人科の先生がそんな刑事みたいな事聞くんですか？」
「ん？ああ。婦人科に駆け込むのはね、何も病気や調子の悪さだけで来る人だけじゃ無いの。中には、襲われたとかそう言うので不安になってくる人もいる。つまり、そこで事件性が見えたら医者は解決に向けての動きも見せなきゃいけない。勿論、襲われた直後なんてショックで動けない事が多いから珍しいんだけど。そうで無くても、避妊に失敗したとかで来る人も勿論いるわね」
「何か患者って無責任っすね」
「逆よクロエ。責任を全うしようと思うからちゃんと医師の診断を煽ろうとするのよ。でもデリケートな問題だから善し悪しだけで片付けちゃいけないし、ただでさえマイナスイメージの多い科だからね。来れない人の方が一定数いるのも仕方ないわ。婦人科に限らず医療系全般に言えるけど、例えば何かを申請したり相手を訴える証拠にしたり用途は色々あるけど、診断書って重要なのよ。その為に医者が話を聞く事も勿論あるわ。外科なら『喧嘩した』で怪我して運ばれた人が多かったり、背景ってまちまちだけどトラブルがあるかもしれない。だから疑わしきはある程度聞かなきゃいけないのよね」
何にせよ、ここで大きい声で否定の言葉を言うもんじゃ無いわよ？とアペルピシアは若いクロエを一喝する。何だかんだ子供の抜け切らないクロエの若い子特有の判断と尖りには覚えがあるしそうなる気持ちも分かるが、大人になるにつれ時と場所と場合を見て「口に出して良いか否か」は学ばねばならない。「正しい事だと思うからいつでもどこでも声を大にして言って良いはず」と言う感覚はそろそろ次の段階へ昇華させねばならないのだ。
クロエの価値観としてそう思ってしまうのも普通ではあるのかもしれない。しかしそう言う意味では、婦人科の待合室で勇気を出して診察を受けに来た人もいるかもしれないのに十把一絡げに無責任なんて感想を抱く事こそあれ、口に出したのはいけなかった。
「ただでさえ病院に罹る人の中にはやっとの思いで一歩を踏み出した結果来れたって人もいるの。だからそんな人を更に尻込みさせる事を言うのは良く無いわ。病院は寄り掛かれる存在であるべきよ。そして医者さえ患者に寄り添えば、周りで見ている人間は何を言っても良いと言うわけでも無いわ」
「すみません…気を付けます」
精神科だからこそそう言う患者をよく見ているアペルピシアが言うのは説得力がある。精神科に居たアペルピシアは「まだ大丈夫」と言う根拠の無い根性論の下限界まで頑張って頑張って、治すのに時間の掛かる状態まで悪くなってしまった人をよく見ていた。
「それで…ミアに関しては何て？」
「ああ……やっぱり貴女の言った通り、暴行の形跡はあった…って。少し傷があったから雑菌の繁殖を防ぐ錠剤と、それから経口の緊急避妊薬も貰った。経口の薬は本当に体に不調として出てしまうから、その間は休ませた方が良いと思うわ。念の為二、三日はミアが休んでも良い様に私達も動くから。急だし、人事部に予定表として出しておくのは無理だわ。口伝てで良いから、社内人事課の誰かに伝えておいてくれる？私も後からメールはするつもりだけど」
「…ええ。私もその間、ミアの事ちょっと気を遣おうと思います。そう言えば、医療班は五月から新しい先生が入社されるとか何とか」
「ええ。履歴書はもう確認してあるから後は来てくれるのを待つだけよ。ただでさえヴォイドがあんな状態でミアもネビロスも……急に忙しくなっちゃったから早く来て欲しいわ…」
「……その人は災難っスね。来て早々この忙しさとは…アーメン」
同情する様な口ぶりのクロエにアペルピシアは「総務班も相当忙しいでしょう？」とお互い様と言わんばかりに呟いた。
「あの……」
その時、二人の後ろから声を掛けられ一瞬どきりとしながら振り返る。二人とも気付けない程気配を消して近付いて来て居たのはミアであり、その顔は普段の彼女とは正反対の暗く元気の無いものだった。
「あ、どうしたの？ミア」
「すみません。ちょっと…おトイレに行きたくて…」
「…ああ、お会計は私がやっておくから平気よ。もう診察も終わったし、席を外しても大丈夫。あ、でもそうね、トイレに行くならこれ…」
アペルピシアはナプキンを一つミアに渡すと「大丈夫だからね」と労る様に言う。ミアはこくんと頷くとそのままトイレに向かった。
トイレに着いたミアは、その広さと清潔さに少しだけわくわくした。産科も併設されている婦人科だとは聞いて居たが、やっぱり子供連れであったりお腹の大きい人だったりを考慮された作りになっているのだろう。個室は十分な広さで、むしろ広いくらいだった。子供一人くらいいても広さは足りる、そんな作り。
ここには希望がいっぱいで、待合室で待っている間お腹の大きいお母さんに寄り添い「赤ちゃんまだかなぁ？」と口にする子供の姿を見た時は込み上げるものがあった。
色々と思い出しながらスカートをたくし上げて下着を下ろす。下着の表面に体内から流れ出たのであろう薬剤の汚れの付着が見えた時、ミアの脳裏に先程の診察室での治療が過った。
『少し傷があるから、バイ菌に化膿しない様に今ちょっと中にお薬入れますね。変な感じするかもしれないけど、大丈夫だからね』
一通り性病の検査もした後、そう言って広げた足の間に硬い金属の器具が入り、ジュッと音を立てて何か薬剤が注入された。医師が『大丈夫そうかな？』と言った辺り、性行経験の無い子は痛がってしまいこの器具を入れての処置が難しい時もあるのでは無いかと少し痛む処置を受けながらミアはふと思った。まだそう言う病院に行くのもあまり縁が無く、今回が初めてだった。人の目に晒されるのも、ましてや触れられるのも。確かにこんな風に足を広げた格好で医者とは言え人に見られると言うのは抵抗がある。触った事なんてある筈ないから人に触れられるのも少し怖い。
そこに彼は、触れた。
彼が私に触れた初めての人。
ミアの目にじわりと涙が滲んだ。
そして二人で見舞いに行った昨日の事が、彼の居た昨日までがまるで夢の様に過ぎてしまったとそう思った。
* * *
ヴォイドとミサキの見舞いを終えたミアとネビロスは車に向かった。今日はこのまま真っ直ぐ帰って、そう言えばお泊りはどうしよう？
そう思いながら歩いていると、車を前にネビロスはぴたりと足を止めてしまった。不思議に思ったミアが彼の顔を覗き込むと、血の気がまるで無い様な白い顔をしたネビロスは目を泳がせて居た。
ただならぬ異様な状況。
ミアは一大事を感じ取り、ネビロスの手を取って力強く握った。
「ネビロスさん…！？大丈夫ですか！？どうしたんですか…！？」
「……ぁ……う……」
「ネビロスさん！？」
額に汗を滲ませて居たネビロス。そのまま動けなくなった彼の手を尚更強く握ると、ネビロスはフゥと荒く息を吐き、すみませんと絞り出す様に口にした。
「帰るのは…電車でも良いですか…？結社には連絡して、車を運んでもらいます…」
「大丈夫ですか…？ネビロスさん、どうしたんですか…？」
「大丈夫です…大丈夫ですから…」
運転も出来ない様な状態で大丈夫な筈がない。現にネビロスは頭を両手で押さえて痛みに耐えている様だった。
「ネビロスさん…！ここ病院ですよ…！？無理言ってでも診てもらいましょう！？」
「いいえ…いいえ…結構です…」
「ネビロスさん！」
「大丈夫です…！」
そう言ってパッとミアの手を離すと足早に駅に向かおうとするネビロス。ミアは急に素っ気なくなった彼の態度に少し泣きそうになりながら後を追った。
そこは病院なのに。診て貰えば良いのに。何で私の心配は受け止めてもらえないんだろう？
そんな理不尽さを感じながら一緒に駅に向かう。ホームのベンチに座って頭を抱えるネビロスが「いつも通り」だとはどうしても思えなかった。
「ネビロスさん…」
「………」
「あの……」
「…ついさっき、総務部に電話をして車を移動してもらう事にしました…。キーを渡して…明日ティーマが病院に赴くついでに運転して帰ってくれると…けれど、駐車場の延長料金も取られるし、そんな事はこれきりにしてくれと怒られてしまいました。言われなくとも、二度とやるつもりもありませんが」
「ネビロスさん…私、ネビロスさんの事…」
心配で心配で堪らない。そう言おうとしたミアの言葉を遮る様に彼女を抱き寄せキスで口を塞ぐネビロス。離さんと言わんばかりの力で抱き締められ、そして彼と想いが通じ合った時にした様な、咥内を蹂躙する様なキスをされる。普段のミアならそんな少女漫画の様なシチュエーションにときめくものだが、何だか誤魔化す様に強引に行われるそれにミアはくらくらしながらも不穏な違和感を感じた。
同時に別の事も考える。思えば、初めは驚いて恥ずかしくて気絶してしまったこのキスの仕方も随分慣れたものだ。まだドキドキはするけれど、もう気絶はしない。
酸素を求めて口を開けると執拗なネビロスの舌は逃すまいと追ってくる。思わず声すら漏らしながら酸欠で惚けているとようやくネビロスが唇を離した。
「あ…ネビロス、さん…」
自分の体を支える様に抱き抱えるネビロス。
こんな激しいキスを交わしたと言うのに、彼の目はいつに無く暗く闇を湛えて居て、思わずミアはぞくりと背中に妙な感覚が走ったのを感じた。
「ミア…私たちが乗る電車が来ますね」
「はい…」
裏腹に交わされるのは何気ない日常の会話。ミアはもう何も考えられずにネビロスの手に引かれるまま彼の後についた。
しかし、いつしか生まれて居たミアの疑問はこの時大きく膨らんでいた。ネビロスがミアに意見を言わせてくれないのは自分が子供だからだろうか？十歳以上年下だからだろうか？
ネビロスは優しい。いつだってミアの事を考え、いつだってミアを労ってくれる。ミアが変な事を口走っても、笑って訂正してくれる。馬鹿にしない。偉ぶらない。なのに、時折頑として意見を許さないかの様な、自分の進ませたい方向にどうしても進めたくて誘導されている様な、そんな気配を感じてしまう。
それはきっとミア が子供だからかもしれない。以前もネビロスが体調を崩した時に、看病に赴いたミアの意見を聞かず「心配だから」の一点張りで帰されそうになった事があった。
だけど、いつまで？どんなに大きくなっても、彼との年齢差は埋まらないのに。
この先自分が二十代になっても三十代になっても、いつまでも二人はこのままで、この関係のままその都度色々考えて、そして「自分が子供だから」と言う言い訳を思い出すのだろうか。もうそんな事通用しないと分かっているのに、そう思う事でネビロスとの時折納得いかないやり取りも「仕方がない」と思って飲み込むのだろうか。
もしこれが、相手が彼と同じくらいの年代であろうルミエルなら？ルミエルなら、「年が離れているから」とか「子供だから」とかそう言う理由もなく、納得いかない時は同年代の人間として彼にそう言えるのだろうか。
私はいつになったら本当の意味で彼の隣を歩けるのだろうか。
「あの、ネビロスさん！」
「はい？」
「今日は、今日は……今日は絶対絶対、泊まってってください！！」
「はい…？」
「私、今日はネビロスさんと一緒に居たいです！」
頓珍漢と思われても良い。とりあえず自分の主張を大きく相手に伝える事から始めようとミアは思った。恋人と言うのは意見の擦り寄りが一番大事で、それはこの次にすべき段階の話。でもまずは流されないくらいの勢いでしっかり伝えるところから始めようとそう思った。
私もちゃんと主張して、そしてネビロスさんの話も聞く。そうやって徐々に子供から抜けていくんだ。彼に対等に見てもらえる大人になるんだ。前に進むんだ。
ミアは少しだけ鼻息荒く、だけど確実に一歩を踏みしめて居た。
* * *
部屋に着き、他愛無い話をしながらご飯を食べ、二人でテレビを観ながらぼんやりする。安らぐ時間なのにネビロスの浮かない顔は相変わらずでミアは抱き締めて居たぬいぐるみにもっと強く力を込めた。
「………」
画面の中でお笑い芸人、ピーター・アナセンが得意のトークで会場の笑いを攫っている。カンテ国のコメディアンにしては珍しく東國の様にコンビとして活躍していた彼だが、最近は相方のエルッキが俳優として活動しているのも有り個々での活躍が多い。せっかく二人でデビューしたのだから個々でではなく二人で出て欲しいとミアは思いつつちらりとネビロスの方を見た。思い詰めた彼の横顔は相変わらずで、その表情から察するに自分と同じ様に「ラウル」でではなくピーター個人として出て来るのを憂いて…なんて単純なものであってはくれないのだろう。
「はぁ…」
ただでさえ笑いに疎い真面目な彼がお笑い芸人の在り方を憂う様な事は無い。自分と違う感性を持つ彼だから勿論惹かれた。だけど、今この瞬間だけは自分と同じ様な感性で、自分と同じ様な些細な理由で眉間に皺を寄せていてくれたら。そう思ったらミアは思わず大きな溜息を吐いてしまった。
「…どうかしましたか？」
しかしそんな見えない彼でも、こう言う風に些細な自分の態度の変化に気付いてくれるところは変わらない。ミアはそれだけでただただ嬉しかった。そして、やっぱり今のままでも十分幸せなのだと思った。
でも、それで無理矢理自分を納得させていたら結局この先もずっと変わらず定期的に同じ事でモヤモヤするのでは無いだろうか。
「疲れたみたいですね…ヴォイドの姿にショックを受けていたみたいですし。もう寝ましょうか。先にシャワーいただきますね」
いつもの様にそう言い、スッと立ち上がるネビロス。ミアはそんな彼の手をパッと掴むと、決意に満ちた目で見上げた。
「ネビロスさん…！一緒にお風呂入りましょう！！」
「駄目です」
間髪入れずきっぱりと力強めな『お断り』を入れて来るネビロス。いつもならその『お断り』の速さにしょんぼりしながら「いつになったら一緒に背中流したり出来るんですかー？」とふにゃりと巫山戯た感じでミアが問い、「もう少し大人になったら、ですね」とネビロスが微笑むまでがセット。これは二人の会話の定型文の様なものでもあった。
しかし、この日のミアは違っていた。
「……いつになったらそう言う事も一緒に出来ますか…？」
同じ言葉ではあるが、深刻そうな声音でミアは呟く。ネビロスもミアの様子の違いに気付いてか、いつもと違い微笑んだりせずに強張った顔で返した。
「ミアがもう少し大人になったら、ですよ」
「…大人っていつなれますか…？私、もう成人しました」
「ミア、焦って前を向く事はありません。貴女はまだ 二ヶ月前にやっと大人になったばかりです」
「でも、それでも大人です…前線医療で仕事をする話も…慣れていこうねってもう言われ始めてます…」
「……貴女の仕事ぶりを見たスレイマンが言っていた話ですね。前線医療…過酷で責任もある仕事です。貴女はまだそんな事無理に急がなくて良いんです」
危険を伴う責任の重い仕事だから。だから無理に急いでミアにその仕事を任せる事もせず、安全な職場に置いておいて欲しい。ネビロスが自分への心配と優しさから言った事だと言うのは痛い程分かっている。だけど、自分はいつまで子供扱いされるのだろう？忙しくしているスレイマンやアキヒロらの手伝いも指を咥えて見ているしか無いもどかしさをいつも以上に思い出し、何故か今日のミアには堪らなくなってしまった。
前線医療にも向かえる大人のヴォイド一人が居なくなった負担を、まだ子供と見做されているミアに賄えそうにない。そう考えたら、守られてばかりなのは嫌だと急に思ってしまったのだ。
「……私、何で子供で居なくちゃ駄目なんですか…？いつになったらネビロスさんも私の事大人って認めてくれますか？」
「ミア……」
「胸がもっと大きくなったらですか？字がもっと上手に書ける様になったらですか？背が伸びたら？足が大きくなったら？自分でも分かってます……そんな風に大人を求める時期はもう過ぎたって。私はもう、体は本当に大人なんです。ネビロスさん、ネビロスさんはどうして私に子供の様であって欲しい と思うんですか？」
ネビロスは自分を子供と見做すことで目を逸らそうとしているものがある。そう思ったミアの精一杯の主張だった。しかしミアは驚いてしまった。予想外にネビロスの目が泳ぎ、顔色が悪くなり、息が荒くなったから。
何だか、とても良く無いことを聞いてしまったのかもしれない。そう思いつつ、ずっと疑問に思っていた事でもあった。
「……ネビロスさん、私は…ヴォイドさんの様になりたくて…」
彼女の様に、一人前に業務をこなせる人間に。
ミアとヴォイドが『医療班には天使が何人かいて、内有名な一人はほんわかしててお花みたいで、もう一人有名な子は時々処置に凄く容赦が無い』とそう噂されている事も知っている。せめて医療班に癒しを求めた人がそんな風に話したくなる気持ちも分かるが、ミアはそこでヴォイドと並べられても足りない気持ちの方が強かった。
天使が何人かいる。その中に自分を入れてもらっても、実際の自分はまだ出来ない事の方が多い。前線駆除のメンバーみたく、危険と隣り合わせで任務に赴く人間も居る一方で、いつも安全なところで仕事をしている。前線駆除班で若い部類に入る友人のルーウィンは二十一歳、もっと年下のエドゥアルトは十九歳だと言うのに。仲の良い友人達も危険な任務に赴く時があるのに、自分は守られてばかりな気がしてしまった。
「ヴォイドの…様に…？ミア、貴女…ああ なりたいのですか？」
振り絞る様な小さな声で彼はそう言った。ネビロスはヴォイドの扇情的な雰囲気が苦手で、職場だからこそそれなりの距離感にいるものの出会い方があまり良くなかったと聞いた事があった。笑い話にしていたが、それでも未だにヴォイドのオフの時の格好は苦手だと。
ネビロスがヴォイドの様な格好が苦手なのは分かっている。だから格好や雰囲気の事を指しているならそれは誤解で、自分は医療従事者としての技量の目標をヴォイドに設定したのだ。ミアはこくりと頷くと、「なりたいです…」と口にした。
「守られている状況で、それで良いじゃないですか……」
「…いいえ、私も…誰かを守れる様に助けられる様に、前に進みたいんです…」
「何も別に…今すぐ変わる事無いじゃないですか…」
「大人になりたいんです…！」
青白い顔で壁を見つめていたネビロスは「大人……」とうわごとの様に呟く。ミアがその後に続けて何かを言ったが、最早彼の目はミアを見ていなかった。
「ミア……そんなに大人になりたいんですか。私は、貴女を俗物的なやり方で大人に出来てしまいますよ」
そして焦点の定まらない目をしながら冷たくそう言い放つ。ネビロスから放たれた言葉の意味を理解出来ない程ミアも子供では無かった。しかし、「彼ならそんな風に言わないだろう」「そんな事はしないだろう」と言う大人らしくない楽観さは確かにあった。
良く言えば安心していた、信頼していた。
悪く言えば侮っていた、見くびっていた。
ネビロスの手がミアの目の前に伸びてきた時、ミアはこの状況がどれほど良くないか理解した。そしてネビロスの手がミアの胸に触れた時、何かが崩れ落ちる様な音が聞こえた気がした。
イスクゥシェーニイ・コシュマール
彼等 はそんな事関係無しに動き回っている。
ネビロスはまるで見学する様に廊下を進む。すると、角を曲がった瞬間目の前にスキンヘッドで痩せこけた入院着の男が飛び出してきた。この男は、ネビロスが此処に来て定義付けた彼等 の中でも一般的な男だった。
「………」
特に驚きもなく黙って彼と見つめ合う。男は、何を言うでもなければネビロスに目もくれず再び歩き始めた。
廊下には、同じ様な格好の男達が何人かいた。
手前にいる男はひたすら壁に手を這わせひたひたと触りながら壁に沿って廊下の端から端まで歩くのを繰り返している。
かと思えば、奥の男は柱に一定の感覚で頭をぶつけている。打ちつけすぎて額の皮膚が破れたのか柱には血が滲み、ゴンゴンと打ち鳴らす無機質な音が響き渡るのみだ。
ネビロスはそんな彼等を無視する様にすり抜けると病室に入った。病室では真っ暗な部屋の中、同じ様なスキンヘッドで入院着の男達が一台だけあるテレビに釘付けになっている。
異様なことがあるとすれば、そのテレビは先ほどから砂嵐しか写しておらず、ザーザーと耳障りな音を響かせているだけだ。
ネビロスも近くにあった椅子に座ると、しばらく無言で彼等に混じって一緒にテレビを眺めていたが、しばらくして「違う」と言わんばかりに小さく首を振り立ち上がった。しかし、この異様な彼等は誰もネビロスの事など気に留めない。テレビが映しているのは砂嵐と言う異様さはあれど、テレビを観ている彼等は至って落ち着いていて穏やかで、そんな彼等はネビロスを認識すらしていないかの様に静かだった。
声を掛けても彼等は喋らない。此処に居たらいずれ人の言葉を忘れそうだとネビロスは少し笑う。
しかし、この異様な空間の中に更に異様な人間がいる事もネビロスは知っていた。
「おいブラザー。見ろよ、俺のマフィンちゃんの絹の様な髪」
「おいブラザー。俺のハニーがもっとも綺麗なのは陶器の様な肌だ」
「違う、俺のマフィンちゃんの目を見ろ」
「違う、俺のハニーの唇を見ろ」
他の彼等と同じくスキンヘッド。しかし、彼等と違い服を着ていないのがこの二人だ。全裸で異様な程に病的なのに何故か筋骨隆々でネビロスは彼等が視界に入ると嫌悪の顔を見せた。
「見ろよ、俺のマフィンちゃんは俺が欲しくて堪らない様だ」
「見ろよ、俺のハニーは俺が欲しくて堪らない様だ」
「馬鹿言うな。お前であるわけない。俺のマフィンちゃんが俺以外咥えたがるものか」
「馬鹿言うな。お前である筈がない。俺のハニーが俺以外挿れたがるものか」
ネビロスは二人と距離を置く様にそっと歩き出す。すると、後ろから互いに文句を言いながら二人も愚鈍な足取りでついてきた。
「俺のマフィンちゃんをしゃぶりたくてうずうずしてる」
「俺のハニーをハメたくてうずうずしてる」
「俺だ」
「俺だ」
どっちもごめん被る。そんな事を考えながら後ろで繰り広げられる下劣な会話に耳を塞ぎたくなる。今目の前に広がる世界は全て異様で、彼はいったいどこから現れた何なのか、ネビロスはあまりにも住む世界の違う彼等と言う存在にくらくらした。そして安寧を求めようと記憶の中を探る。ふわりとした茶色の髪の毛を思い出した。
──ルミエル…？
彼女の名前を思い出した瞬間、頭が割れる様に痛む。足を止め、廊下に蹲って動けなくなってしまった。背後からは鈍足ながら全裸の双子が迫って来る。双子は動けなくなったネビロスの両脇を固める様に座り込むとどちらかはネビロスの髪を、どちらかはネビロスの手を取り愛おしむ様に入念にキスをする。
「可哀想に、マフィンちゃん」
「可哀想に、ハニー」
振り解く気力も体力も無く動けずにいると、双子は更にネビロスに身を寄せる。そしてどちらかはネビロスの目に、どちらかはネビロスの耳に舌を這わせると愛おしむ様に舐めた。
「愛してあげよう、マフィンちゃん」
「愛してあげよう、ハニー」
体を這う舌の感触にネビロスは身震いする。思わず声を上げたネビロスはそんな己を恥じた。しかし彼等はお構い無しにネビロスの体にも手を這わす。頬を伝い首を撫で、胸を通り腹を触る。太ももに指がするりと通り内腿を通過し、徐々に徐々に体の中心に向かって這いながら指は進む。すりすりと撫でる様に触られるところから電流が走った様に快感が溢れたネビロスは頭の痛みも忘れいっそ身を委ねたくなった。
いや、だめだ、だめだ、それではだめだ。
不意にまた茶色のふわりとした髪が風に揺られた気がした。
「あんな女忘れて、マフィンちゃん」
「あんな女忘れて、ハニー」
「「俺の方があの時巧く上手にやれてた」」
その言葉にネビロスはカッと目を見開く。やめろ！と声を荒げ様とした瞬間、びくんと大袈裟に身を反らしたネビロスはそのまま気絶し床に沈んだ。
「馬鹿なマフィンちゃん、気持ち良いままいれば良いのに」
「馬鹿なハニー、何も考えずにいれば良いのに」
「これじゃあせっかくここに来た意味がない」
「これじゃあせっかく逃げた意味がない」
* * *
「お目覚めかな？スウィーティー」
夕日の差し込む部屋の中、ネビロスは目を覚ました。警戒する様に周りを見回すと、雑多に置かれた工具や段ボールの奥に男が居る。男は目線は手元にやったままネビロスに声を掛けて来ていた。
「おっと、怖い顔をしないでおくれ。まだ君に手は出していないさ」
スキンヘッドに上品な服を着込んでいるその男は、服でも作っているのか裁ち鋏をジョキジョキ音を立てて動かしていた。ネビロスがじろりと睨み付けると、男は肩を竦めて何が面白いのかふふふと笑った。
「僕をそんな不躾な男とお思いかい？見くびらないでくれスウィーティー。僕は愛した人には選択肢をあげる事にしているんだ。素直に僕を愛すると言う選択肢、そして僕から逃げると言う選択肢。何故って？僕から逃げる様を見るのも、それを追って捕まえるのも快感でね」
ぐしっ、と鋏が貫通する音が響く。男は手に持った巾着の様な小さな袋ごと鋏で貫いていた。男の手の中の、鋏を貫通させられたそれ はビクビクと一際激しく動くと血の様な赤い色の液体を流した。
「これかい？これは…見覚えがあるだろう？」
袋をひっくり返すとぼとぼとぼとっ！と音を立てて灰色の中身が飛び出す。ネビロスはその光景を目にした瞬間頭を押さえて痛みに声を上げた。
「おやおやスウィーティー。可愛い僕のダーリン。まあ、落ち着きたまえよ」
男は席を立つと蓄音機の傍に立ち、針を下ろす。プツッと音を立てキュルキュルとレコードの回る音が響く。その内、ムーディーなトランペットのメロディーが流れ始め、部屋に音楽が広がった。
「君が来たら一緒に聞こうと思っていた曲さ。ここには君の好きな曲、君の好きな『彼女』の服、君の好きな『彼女』の匂いのするもの、全部あるんだ。え？辛い？その為の僕なのだから当たり前だろう？」
男はふらっとネビロスに近付くと、愛おしむ様にネビロスの体に指を這わせた。
「僕のスウィーティー。それ でどうやって《彼女》を抱いたか僕に教えておくれ。大丈夫、僕は君を愛しているよ。君を優しく包む事を約束するよ。君が下手でも、僕は咎めないさ」
ぐっと指を押し込まれネビロスは思わず体を震わせた。あの日何があったのか、誘惑に負けて口にしようとしてしかし既のところで耐える。
「強情だな、僕のスウィーティー。身を委ね楽になってしまえば良いのに。待っているよ、スウィーティー。僕が君を締め上げるその時を…」
* * *
高い位置にある太陽から暖かな陽射しが部屋に射し込まれている。ネビロスはぼんやりする頭で少し考えたが、やがて勢いよく起き上がると大きく溜息を吐いた。
埃まみれの廃墟と化した病棟は、昼の陽射しに当てられ現実離れした雰囲気を纏っていた。
「私は……寝ていたのか…こんなところで」
枕代わりにしてしまっていたのは病人のカルテや闘病記録だ。こんなものを枕にするなんて悪夢を見そうだ。
「ふむ……」
ここはレイレント精神病院。洋館の様な趣のある棟と、白を基調にした先進医療を彷彿とさせる棟が敷地内に並んでいる廃病院だ。人体実験や薬物実験の噂がまことしやかに流れており、そんな噂が横行する最中に閉院してしまった為に今でも一部でホラースポットとして人気があった。最も機械人形が暴徒と化した今、そんなスリルは誰も求めておらずこう言った場所は潜伏するのに都合が良かった。
ネビロスは、過去に結社の資料室でこの病院に関する本を読んだ事があった。火のないところに煙は立たぬと言うが、一体病院の何がそんな噂の出火元になったか興味があった。そしていざ足を踏み入れて置き去りにされたファイルを読むに、話は単純なものだと気が付いた。
入院施設もあるこの病棟に連れ込まれるのは基本的に病状の重い患者。他者と自分の世界の境界が曖昧な者達。時に奇声は上げるし、時に暴力行為に勤しむ事もある。意味も無く自傷行為に走る事も。
しかし、スタッフはそれ程多いわけでもなく、柵の付いた中庭で患者は自由にさせられている事も多かった。その患者と運悪く間に柵一つな状態で鉢合わせてしまった人がどうも噂の大元らしい。患者の中には妄言を繰り返す者もおり、そんな彼等の発言を面白がった者もいただろう。更に運が悪い事に、この病院を慈善事業として運営していた企業が倒産したのも正に噂が激化したタイミングで、彼等は特に噂の火消しをする事なく手を引いたと言うのが真相らしい。
ネビロスはファイルを開くと患者の情報を読み上げる。
同じ治療を受けた二人の男が居て、この二人は血の繋がりも何もないにも関わらず似た様な事を口にする上によく顔を合わせるからか仲も良かったと言うので医師達から「ブラザー」と言う愛称で呼ばれて居たらしい。しかし、衛生面の観点から髪を失くし、スキンヘッドでいる様子を見るに精神を病んで似た様な格好をすれば同じ様な病状を抱えている人間同士、瓜二つにも見えて来る事もある様だ。
そして度重なる性犯罪から捕まり、その後精神病の診断を受け此処に来た患者も数多居た様だ。彼等は大まかに言うならば「依存症」として扱われた様だが内一人が特徴的で、男性への性犯罪を繰り返し捕まった男ではあるのだが、病的なまでに自己の作る世界と他者との境界が曖昧であるにも関わらず何故か他者に敬意を持って一定の感覚を空けていると言う男だった。
彼は自分に与えられたスペースで常にラジオや蓄音機から音楽を奏で、優雅に紅茶を飲んでいたらしい。看護師が食事を運べば礼儀正しくお礼を言う為、日常生活ではあまり彼に対して『病人』と言う認識を持っているスタッフは多く無かった様だ。
しかし、やはり彼も患者である事には変わりなく、男性への性的欲求と残虐性が抑え切れない時もあった。ある時、施設が停電になり空いた柵から逃げ出した彼はとうとう行きずりの男と体を重ねた末に彼を殺してしまう。現行犯で見付かり、錯乱して軍警に襲い掛かった為射殺されたと言う痛ましい事件だ。
おそらくこの病院で一番スキャンダラスな事案だったに違いない。ただし、これ以降後にも先にも事件らしい事件がない。完全に建物の雰囲気と「精神病院」と言う属性で噂に尾鰭がついたもの。
パラパラと流す様に、しかしきちんとファイルを読み込んでいたネビロスは納得した様な拍子抜けした様な気持ちでそれを閉じた。
──さてと、知りたい事は全部知れた。
ネビロスは手帳とペンを取り出すとさらさらと書いていく。そして椅子にゆっくりと乗る様に立ち上がると梁から垂らしたロープを確認する。強度を確認し、二、三回深呼吸。輪っかの部分を首に当て、ネビロスは目を瞑った。
『僕のスウィーティー。大丈夫、僕は君を愛しているよ。君を優しく包む事を約束するよ。君が下手でも、僕は咎めないさ』
この時、ネビロスは見た夢を思い出していた。夢の彼にぐっと指を押し込まれたのは、確か喉だ。
『僕のスウィーティー。身を委ね楽になってしまえば良いのに。待っているよ、スウィーティー。僕が君を締め上げるその時を…』
そうか、今がその時か。
ロープが首に軋んだその時、ネビロスは何故あんな夢を立て続けに見たのか思い出した。そして一言掠れた声で呟いた。
「ごめんなさい…」
エレジー
ミアから電話を取り、ネビロスは落ち着く様に促したのは確かだが、それでも本心から言っているに他ならなかった。
「ヴォイドが…部屋に居ない？」
『そうなんです…！お部屋の鍵が掛かってなくて…！中を覗いたら誰も居なくて…！』
「…ミア、大丈夫です。落ち着いてください。きっとヴォイドなら平気ですよ。あのヴォイドですよ？」
──ヴォイドなら平気です。ヴォイドは強い女性です。だから大丈夫。
岸壁街の最下層を生き抜いた女性。そんな彼女が何かに巻き込まれるだなんてネビロスには信じられる話でなく、聞き込みの為にユウヤミが医療班に足を運んだ時も訝しんだほどだった。
急遽発足したと言う「マルフィ結社特別捜査班」と言う名前と、連絡の取れないヴォイドとミサキ。それを掲げてやって来たユウヤミの姿にネビロスは酷く動揺した。
安否不明。それも『ただ居なくなった』と言うよりかは『事件や事故に巻き込まれた』線が濃厚だと踏んでいると言うユウヤミの言葉。ネビロスが静かに思考を巡らせていると、ボトボトボトッ！と嫌な音が脳裏に響いた。
『ネビ…ロス……ネビ…』
喉を締めたような、若い女性とも老婆とも判断のつかぬ声。
脳に直接届く音と声にネビロスが硬直していると、視界の端に足が見えた。細い細い女性の素足はゆっくりゆっくり近付いてくる。ネビロスは額に脂汗を滲ませながら瞬きもせず、かと言ってそちらを直視する事も出来ず立ち尽くした。ぴちょん、ぴちょんと何かの滴る様な音も聞こえる。
『こっちを…見て……私を…見て……』
血の滴り落ちる、腹の裂けた亡き妻の姿。それが視界の端に写った気がしてネビロスは動けなくなった。
「……大丈夫かい？」
いつの間にか近くまで来ていたユウヤミに心配されるくらいにネビロスは動揺していた。
汗の滲んだ、いつもよりも血の気の少ない青い顔でネビロスは震える様に歯をカチカチ鳴らせる。実はミアもそれに気付いてしまっていたのだが、この時のネビロスは誰に顔色の悪さを気付かれて誰に気付かれずにいたのか、そんな事はどうでも良かったし気にしていられる程の心持ちでもなかった。心の奥底から湧き上がる不安と恐怖を打ち消そうと必死だった。
ネビロスはケンズでテロの起きたあの日、亡き妻であるルミエルを直視した。
「二人とも…何だか外の様子が──っ！」
そう言って振り返った時、ルミエルは腹を裂かれ一目で致命傷と分かる血溜まりを作っていた。そして可愛い我が子は──機械人形のルーチェはついさっきまで「お母さん」と呼んで慕っていた彼女の腹を貫いていた。
「お…前……。どうし──？」
そう声を掛けるもルーチェは真っ赤に発光したその目を、あの子の持っていた無邪気さが欠片も見えなくなった目を、無機質にネビロスに向けるだけだった。たった今攻撃したルミエルの事も足で蹴って退けようとする。さっきまで母と慕った女性をゴミの様な扱いで。
「ルーチェ……お前……」
夢から醒めるにしても、なんて嫌な夢の終わりだろう。
この子は機械人形で、子宝に恵まれなかった自分達に必要だった子だ。家族を欲しがるルミエルにとって二人でしか居られない日々と言うのはきっと地獄だから。そんな日々の生活の中、少しでも自分達を慰めて欲しくて買った機械人形だ。
そんな事をしても意味が無いのも分かっている。何の生産性も無い事くらい、分かっている。
自己決定出来るだけの意思の無い機械人形を子供にだなんて、薄々分かっていた。自分達のエゴでしか無いと。プログラム上の個性と言うだけで本当は感情の無い機械人形に親の様に振る舞うだなんて、ただのままごとの延長に過ぎないと。
だけど、だけどそれでも自分達は確かに家族でいたかった。そしてそれでも自分達は確かに家族だった。例えそれが虚構であっても。
エゴの塊であってもプログラムされた自我との暮らしであっても何でも良い。家族の暮らしを夢見ていた。
そしてあたたかい夢を見た。
あんまりじゃないか。その夢の終わりがこんな光景だなんて。
女性の気配がする。ネビロスは視線をそちらに向けられない程に怯えていた。ずっとずっと呼ばれている気がする。振り返って、もしも腹から臓物を垂らした彼女だとしたらどうしたら良いのだろう？
意を決して足元にだけ視線を向ける。女性の足だ。だが、可愛らしいスニーカーを履いている足だった。
「ミア……」
ネビロスは、あからさまにホッとした様にミアの名前を呼んだ。そこに居たのはミアだった。
「ネビロスさん…？」
「…何でもないです。ところで、どうしましたか？」
「あ、いえ…作業終わったんですけど…一人だと変な事考えちゃいそうで…お話に来ちゃいました」
「…そうですか。ミアは甘えん坊ですね」
悟られない様にしないと。
余裕な顔を見せていないと。
変わらない様にしないと。
父も母も早くに亡くし、祖父母に育てられた。しかし祖父母との別れは早く、独りになったネビロスは同じ様な境遇のルミエルを愛した。だがそのルミエルは時に気性の穏やかで無い女性だった。
自分も、ルミエルも、おそらく人を愛するには不完全。機能不全と言うべきか。ネビロスは抱え込む性質であったし、ルミエルはたまに無性にネビロスを責めた。傍目に『愛はあるのか？』と思われる程に激しく憎悪の顔を見せる時がある。
それもこれも、子供を授かりにくい体が余計にそんな二人を助長している気がした。それでも、互いに愛していたし世界にたった二人だけでも良いと言うくらいには互いを想っていた。
そんな最中、機械人形を家族として迎え入れようとどちらからともなく提案した。まだ不妊治療は続ける。けれど、それとはまた別で家族を受け入れるのも良いじゃ無いかと。
そしてその夢の、最悪の終わりは──……。
「……貴方」
「…何か？クイン先生」
日頃ただでさえ目線を合わせないのに、何故かそう言う時に彼女は目敏い。ネビロスは自分の今の焦りや不安を彼女に悟られそうで必死に目を背けていた。
クイン・エリーズの、あの眠そうでいて見透かす様な目が嫌いだ。あの目に見られて内側を暴かれたら、立っていられなくなりそうだ。
やっとの思いで、糸の上に乗る様に危うい自己の保ち方をしているのに。あの目に見透かされたらそれも出来なくなりそうだ。
そんな彼女に情報をもらい、ミアと二人車でソナルトの病院に向かう。そう言えばネビロスが人前で運転をするのは結社に来て初めてだったか、運転中ミアが嬉しそうな顔でチラチラ見てくるのが少しこそばゆかった。
しかし、そんな喜びとは裏腹に頭の中で一度膨れ上がった思いはどんどん大きくなっていく。
ネビロスは今までずっとそこから視線を逸らしてきた。
それは自分の頭が作り出した幻覚か、それとも本当に死者の霊魂なのかは分からない。だが、どちらが理由であれルミエルが形作られ、前を向こうと環境を変えようと決心した時にその決意を揺るがせる様に現れる。
目を覚まし、リハビリに励んだ頃はほぼ毎日黒い影を見ていた。その後結社に就く事にし、少しずつ仕事を覚えているその間もずっと視界の端に影はいた。ネビロスはそれを最初死神の類だと信じていた。思えば、結社に来てしばらくの間顔を合わせた人は覇気の無いネビロスの姿しか見ていなかっただろう。まるで彼自身が幽霊かと思う程に正気のないネビロスの姿だ。
しかし、ミアからの好意に明確に気付いてからほんの少しだけその影の見える回数が減った事にネビロスは気が付いた。
文字通り、恋する乙女の様な目を向けるミア。
それに気付いていて少し気を持たせるではないけれど、他のメンバー以上に優しい同僚でいる時ネビロスは満ち足りていた。
ルミエルの居ない寂しさを彼女で埋めようとしたつもりは断じてない。ルミエルの代わりにとミアを見ていたつもりはない。だからきっと、本当に新たな恋としてミアを好きになってしまったのだろう。
そう気付いた頃、影の形も出現もまばらになっていた。仕事を頑張っている時にふと現れたり、頭痛として症状が現れ動けなくなったり。そうこうしている内に影はルミエルの形を取った。そしてそれはよりにもよって死の間際の彼女の姿だった。
それが霊的なもので無いと考えるなら一番分かりやすいのはストレスだ。
そうなるとどう言う時にストレスを感じるか？頭の中で考えたネビロスは、自分が前に進もうとした時だと気が付いた。
ミアの事は愛しいと思う。しかしそれを素直に表に出すと言う事は、ルミエルを忘れて新たな幸せを掴もうとしている行為に他ならないのでは無いか？そんな自分を見つめ直そうとした瞬間、ネビロスの頭は痛み、視界の端に女性の血塗れの足が見え臓物の落ちる音がした。
押し寄せる罪悪感。ルミエルの時間はもう止まってしまったのに、彼女には叶えられなかった夢があったのに、あの時一緒に死んでやれなかったばかりか自分は新たな夢の続きを見ようとしている。
裏切り者。卑劣な卑劣な裏切り行為。
狂人のフリをしていなければ保てなかったもの。それがミアからの想いによって溶けていた事には気が付いていた。ミアが自分を癒してくれる。けれど、それをルミエルへの裏切りだと認識してしまった頃からネビロスの過度な痛みは顕著に現れた。
ミアの想いを、ミアへの気持ちを受け入れ彼女に想いを告げようと思い始める少し前だ。
違う、そんなところに因果関係など無い。そう思おうとしても、実際にそう言う時に体に現れるのだ。まるで突き付けられる様に。
ミアと一緒に居ても罪悪感に駆られない時間があるとしたら、ネビロスが保護者の様にある時だ。つまり告白する前の、彼女に想われていた状態が一番安定していた。だからそれを恋人関係になった後も出来るだけキープしていた。それが誠意の無い行為であると分かっているのに。
彼女の一番隣に居られる居場所を勝ち取っておいて、ミアを保護者の様に慈しんでおきながら彼女を女性として愛する事をしない。それは大事な事だからと口でそう言い、理解のある大人を演じているだけに過ぎないとネビロスも分かっていた。ミアを想えば想う程はっきり見えてくるルミエル。そしてこんな状況を一年も二年も続けられないと言う事も分かっていた。
「ヴォイド…さん……」
病院に着くなり上擦った声をあげるミア。酸素マスクを装着し、点滴やパルスオキシメーター、心電図に繋がれて眠るヴォイドの姿は思ったよりも痛々しく、彼女の身に起きた事の重大さをより強く感じた。
聞き込みに来た時とうってかわって疲れた顔を見せているユウヤミ。彼はミアにヴォイドの事について「人工呼吸、胸骨圧迫、脱衣保温。延命の確率を上げる為に思い付くものは全部やった」と呟いた。つまり、そこまでやってやっとヴォイドはこの姿で帰って来たと言う事だ。ユウヤミの処置が一つでも欠けていたら。そう考えたネビロスの背中をゾッと恐ろしさが駆け巡る。
そして、ヴォイドの様な躊躇いのない強い女性ですら、岸壁街を生き抜いた彼女すらこんな風になってしまうのだ。見ず知らずの人の悪意が、もしもミアに向いたら？もしもミアに向いてしまったら──？
もう二度と、愛しい人を失いたくない。傷付く姿は見たくない。
目の前のヴォイドの姿をミアに置き換えてしまったネビロスから殊更血の気が引いていく。不意に耳の奥でボトボトボトッ！と何かが落ちる音が聞こえた。
幸せになればなるほど、まるで戒めの様に打ち消す何らかの行動を取らねばならない。それが自分の義務であると分かっていたじゃないか。幸せを感じたら、それを帳消しにするだけの何かを。自分が平穏な幸せを手にしてはいけないと思い知らなければならない。
そうでなくとももう自分は愛した人を失う様な目には遭いたくない。愛した人が夢を終える瞬間に立ち会いたくない。
父も母も死んだ。祖父も祖母も死んだ。ルミエルも死んだ。ルーチェも壊れた。自分が愛した人達はまるで魅入られた様に死に絡み取られてしまう。それが自分の『業』なのだと思い知っていた筈なのにまた人 を愛してしまった。
──ミアをこれ以上自分の受けるべき不幸に巻き込んでしまう前に、彼女を手放さねばならない。
それはまるで天啓の様にネビロスに降り注いだ言葉だった。
* * *
『──分かりましたぁ。ではー…明日ボロドゥリンさんが病院に向かう予定なのでぇ…その時についでに運転して帰って来てもらいますぅ。ボロドゥリンさん、免許お持ちですのでぇ。あ、車のキーは今日帰り次第総務部に出してって下さぁい』
「はい…分かりました…すみません、迷惑を掛けますが…」
ネビロスは頭を軽く抑えながらそう呟く様に口にした。電話の向こうで総務部のユリアはいつもの調子ではあったが、少しだけ怒った様な口調で続ける。
『いいえー。でもぉ…予算外に駐車料金も増しちゃうしぃ、どうでも免許持ちの人が行かなきゃいけないって形になっちゃうんでぇ…今後はこう言う事駄目ですよぉ？』
「はい……大丈夫です、二度とするつもりはありません……」
二度とやらない。ネビロスはそう言葉にしながらある決断に迷っていた。
『ふふ、まあどうしてもって時はしょうがないですけどねぇー。とりあえず今日はお大事にしてください、ファウストさん』
電話を切り、駅のホームに設置されたベンチに座る。すぐ横にミアも座った。
「ネビロスさん…あの……」
「…ついさっき、総務部に電話をして車を移動してもらう事にしました…。キーを渡して…明日ティーマが病院に赴くついでに運転して帰ってくれると…けれど、駐車場の延長料金も取られるし、そんな事はこれきりにしてくれと怒られてしまいました。言われなくとも、二度とやるつもりもありませんが」
ネビロスはそう言うとミアの方をチラリと見る。ミアは何か言いたげにネビロスの方を見たが、ネビロスはもう全てが悲しくて悲しくて仕方なかった。
だからそれを誤魔化す様に彼女を抱き寄せ口付けを交わす。
悟られない様にしないと。
余裕な顔を見せていないと。
変わらない様にしないと。
しかし、そんなネビロスの危うさにミアは既に気付いてしまっていた。一方でネビロスはそんな事にも気付かず、いつもの様に振る舞えたとすら思っている。
「あの、ネビロスさん！」
「はい？」
「今日は、今日は……今日は絶対絶対、泊まってってください！！」
「はい…？」
「私、今日はネビロスさんと一緒に居たいです！」
ヴォイドの痛々しい姿を見、ネビロスの様子のおかしさにも気付いたミアは前を向き、進んでいく決心を固めていた。きちんとネビロスの隣を歩ける恋人としていられる様に、大人になれる様に。
しかしネビロスは、その歪んだ現状維持を続けようとしていた。彼女が大きな一歩を踏みしめた事に気付かぬまま。
その後部屋に帰り、他愛のない会話をしながら夕飯を食べている間もネビロスの気持ちは晴れなかった。頭の中を色んな想いが渦巻いている。この問題は一朝一夕には解決しそうにない。ある一つの『やり方』を除いては。
はぁ、とミアの溜息が聞こえ、ネビロスは反射的に「どうしましたか？」と尋ねる。例え弱っていても、ミアの事に関してすぐに反応してしまう自分にネビロスは少しだけ頬を緩めた。そしてミアを甘えさせる様に撫でる。
「疲れたみたいですね…ヴォイドの姿にショックを受けていたみたいですし。もう寝ましょうか。先にシャワーいただきますね」
そうして、保護者としては百点の様な物言いをし、一人シャワールームに向かう。
「ネビロスさん…！一緒にお風呂入りましょう！！」
「駄目です」
この後、ネビロスはミアから「いつになったら一緒に背中流したり出来るんですかー？」とふにゃりと巫山戯た感じで問われ「もう少し大人になったら、ですね」と微笑み返すいつもの流れがあるだけだと思った。しかし、事態はネビロスの望まぬ方向に向かっていた。
現状維持に異様なまでに固執していたネビロス。恋人として、一大人として前に進みたいと思うミア。
「……いつになったらそう言う事も一緒に出来ますか…？」
同じ言葉ではあるが、深刻そうな声色は二人が違う方向を向いている事を表していた。
ミアには危険な目に遭って欲しくない。ルミエルはあっと言う間に奪われてしまった。幸せ、命、未来、夢。残されたのは絶望、虚無、夢の終わり、逃げ果せてしまった自分。
倫理的なものは加味せず、欲望のまま振る舞うのが許されるなら、ミアを何者とも接することの無いところに閉じ込めて安全を約束しておきたい。そんな事、叶えられない事も分かっているのだが。
しかしミアはネビロスが思っている以上に前に進みたがっている。それはネビロスが到底追い付けない様な速度に見えた。
「ミア、焦って前を向く事はありません。貴女はまだ 二ヶ月前にやっと大人になったばかりです」
「でも、それでも大人です…前線医療で仕事をする話も…慣れていこうねってもう言われ始めてます…」
「……貴女の仕事ぶりを見たスレイマンが言っていた話ですね。前線医療…過酷で責任もある仕事です。貴女はまだそんな事無理に急がなくて良いんです」
問答をする度にキリキリと頭が痛む。分かっている。彼女を人として敬っているから本当は押さえ付けるのも苦痛なのだ。でも、外に出てもしも彼女が取り返しのつかない目に遭ったら、そちらの方が苦痛でもある。
心配だと言う想い。愛していると言う想い。重過ぎて、重過ぎて、いつかミアの首を絞めてしまうのは自分なのかもしれない。
「ネビロスさん、ネビロスさんはどうして私に子供の様であって欲しい と思うんですか？」
その一言は、世界から音が消えたと錯覚する程の衝撃をネビロスに与え、感覚を遮断し奪っていった。
見抜かれていた。ミアには全て悟られていた。
自分が彼女を「守る対象」とする事で安心していた事を。そう言う目で見る事で、ギリギリの安寧を保っていた事を。
「……ネビロスさん、私は…ヴォイドさんの様になりたくて…」
ネビロスは、更に追い討ちを掛けられた気がしてしまった。ヴォイドの様になりたい。その意味が分からない筈は無いのにネビロスの脳裏に浮かんだのは普段の仕事をする彼女の姿では無く、病院で見た姿だった。
肌には所々汚れが見え、服も彼女の私服では無いだろう入院着。大掛かりな器具に繋がれ、口を覆うマスクからはシューシューと音が聞こえていた。あれを着せないといけない状態、それを着けないと生きていられない状態、そんなヴォイドの姿がミアと重なってしまう。
「ヴォイドの…様に…？ミア、貴女…ああ なりたいのですか？」
彼女の仕事面の話だと分かっているのに、頭は理解し切ってくれない。痛々しい、人の手を借りねば生きれなかった様なヴォイドの姿がどうしてもルミエルを彷彿とさせ、そして彼女は助からなかったのにと言うやるせ無さも今更湧いて出る。
あんな風に、恐ろしい思いをしたいのか。
そんな意味も込めて聞いてしまっていたかもしれない。
「なりたいです…」
ミアの返事にネビロスは酷く動揺した。
「大人になりたいんです…！」
「大人……」
ミアは、前に進みたいのだと言う。彼女を捕えてでも安全な場所に置いておきたいとすら願ってしまっていたネビロスにとって、それは突き放された様な感覚であった。
もう、このままで居られない。
ミアを止める事は出来ない。
いや、止めてはいけない。
彼女は前に進もうとしている。
自分とは違う。
ならばせめて、最後に君に恨まれたい。憎まれたい。時に前向きな気持ちや希望以上に生きる活力となるのは憎しみであり復讐心であると何かで読んだ──なんて、そんな事は後付けに他ならず。これは最期の自分の単なるわがままで、最低の押し付けだと分かっている。
「ミア……そんなに大人になりたいんですか。私は、貴女を俗物的なやり方で大人に出来てしまいますよ」
貴女に触れる最初の男が自分でありたかった。
貴女の初めての感覚を他の男にどうしても譲りたくなかった。
こんなやり方でも、貴女に自分と言う人間を記憶しておいてもらいたかった。
「ネビロス…さん…？」
初めて触れたミアの胸は温かくて柔らかかった。戸惑って、でも拒否をしないのを良い事に口を塞ぎ舌を捻じ込む。
片手は胸に這わせもう片方の手で太腿に触れると流石のミアも様子の違いに気付き明確な拒否を見せた。唇を、舌を噛んでも良かったのに。手で押し除けるくらいに留めるからこの子は優しい子だとネビロスは思う。
「ネ、ネビロスさん…！何で足、触ろうとして…！？」
「…足、じゃないですよ。私が本当に触れたいのはどこか。ミア、最近少し勉強してたみたいですよね。もう知らない筈、無いでしょう？」
「そんな…事…！」
体を使ってミアを逃がさない様に追い詰める。二十センチ近い体格差では容易だった。
耳元でそう囁いてやればより真っ赤になったミアは慌てた様にネビロスの肩を押した。
「で、でも…私…！」
「…今までだって散々煽って来たじゃないですか。大人になりたいのでしょう？」
「大人って…！こう言う事じゃないですよね…！？」
「こう言う事ですよ。ミア、貴女が思う程大人なんて綺麗な世界ではありません」
嘘。本当は汚いのは私だけ。
歪なのは私だけ。
ミア、ミア。貴女は綺麗な大人になれる。私はそう思う。
「で、でも…！初めてだから…大切にしたいって…！」
「ええ。だから、大切にし過ぎたかもしれません」
「ネビロスさん…本当にどうしちゃったんですか…！？何だかずっと…今日も様子が変でしたし…何かあるなら、私に出来る事ってないんですか…！」
やはり彼女には見抜かれていた。おまけにこの期に及んでまだ相手の心配をしてくれる、優しい子。
ネビロスは自分が最後まで余裕のある大人の様で居られなかった事に少し不服そうな顔を見せるも、むしろそれで良かったすらと思った。ミアに返事は返さず、その代わり彼女の服を剥ぎ取ると胸に舌を這わせた。ミアが驚いてしまったのは、ネビロスが下着まで剥ぎ取った事。今まで絶対にそんな事無かったのに。
ミアは初めての感覚に拒否とも取れない声を上げる。そして恥ずかしいのか口を手で塞いだ。
「おや…恥ずかしがらず、もっと聞かせてください」
「や…駄目です…！やっぱりこんな、駄目です…！」
「…何故？私達は恋人同士ですよ？それに、大人なんでしょう？」
体重を程々に掛けて覆い被さり、逃れられない様にしてから何度も何度も、執拗に舌で指で弄んでやれば段々とミアの声が色を纏った女のソレに変わってくる。真っ赤に染まった頬でネビロスを見るミアは美しく、もう子供では無かった。
止められない。
時は戻らない。
止める事も出来ない。
生きている限り進み続けるしか無い。
でも私には、もう進むだけの勇気が無い。
そう気付いてしまった。
「…濡れてますね」
「や、嫌…！ネビロスさん…！」
「…可愛らしいです…」
そこにも舌を這わせようと顔を近付けると今度こそミアの手は制止に掛かった。
「ネビロスさ…ん…！だめ…！」
「駄目？慣らそうかと思ってましたが…では、もう挿れてしまいましょうか…」
「え……？」
ミアの顔が青ざめた事に気が付いた。本当はそんな性急にするつもりは無かった。嫌な思いをさせたく無かったし、何度も慣らせて痛みを減らしてやるつもりだった。
でもそれではまるで『幸せな恋人』の様じゃ無いか。
自分が不幸になるべき人間だと思い出した瞬間から、それを夢見るか傍ら代償の事を考えていた。だってこんなの、幸せじゃないか。
見送ってきた彼等にはもう得られない生きている幸福を自分だけが味わって良い道理は無い。自分だけが幸せに逃げて良い道理は無い。
ぎゅうっ…と強く頭は痛み、ずっずっと足を引き摺るような音が聞こえる。
ありがとうルミエル。
君は俺にそれを気付かせてくれたんだね。
大丈夫。もう迷わない。
もう君を置いて何処かへ行かない。
「ほら…私を拒否しないで、ミア…変に暴れるとかえって痛くなりますよ…」
ネビロスはミアの拒否の手を掴むと近くにあったハンカチで動けない様に纏めてしまった。
『もしもミアに手を出したなら、私はその日の内に反射的に死に場所を決めるのだと思います』
不意にクインに言った事を思い出す。彼女はそれはそれは怒り、平手打ちすら喰らわせてきたが、今思うとやはりあれは間違いだった。
むしろそう思ったあの日の夜に決行しておけばよかった。
そうしたらミアの心に、体に傷を負わせる事も無かったのに。
「いっ……うぅっ……！」
指で慣らすこともしなければ、初めて触れてそのまま貫く様にしてしまった。
初めての痛みにミアは唇を噛んで涙を流す。ネビロスはその様子を見ていたが、その内ゆっくりと腰を動かし始める。
一回一回動く度、涙が出そうになってくる。自分の醜い醜いエゴの為にミアがこんなにも泣いている。それでも、ミアの体に自分を刻み付けたいと言う思いは止まらなかった。
貴女の心を、体を蹂躙した男をどうか恨んで欲しい。この先その男の不幸を喜べるくらいいっそ嫌いになって欲しい。
そうして、覚えていて欲しい。
愛しい愛しいミア。
「ミア……ミア…！！」
どうか覚えていて欲しい。こんなにも不誠実で最低な男の事を。
「ミア…！ミア、愛して…っ愛してます……！！」
そして、いつか他の誰かと幸せな人生を二人で歩んで行くその時まで。貴女の心を独占していたいと言う身勝手さをどうか許して欲しい。
貴女から貰えた物をこんな形でしか返せなくてごめんなさい。
ミア。貴女を、愛して──
世界が真っ白に包まれた様な感覚をネビロスは覚えている。
一瞬だけ何も無い白い世界に来た気がして周りを見ると、遠くの方で女性が立ってこちらを見ていた。ネビロスはその女性に微笑み返す。
「はぁっ……！はっ……！」
息を弾ませながらずるりと引き抜く。まるで横倒しにした瓶のコルクを抜いたみたいに、ネビロスと言う栓を失くしたミアからどろりと先程見えた世界の様な白が流れ出た。
医者が言うには限りなく子種が少ないのだと言う自分の体。なのに、出てくる物は一丁前に普通と同じ様な物で、当たり前に素人目には判断出来ない。
検査をしてやっと分かる事。
自分はこんなところまでまるで普通なフリをして平然とそこに在る。こんなにも出来損なっているのに。
「ミア……愛しています、ずっと…永遠に…」
ショックで放心状態であろうミアにそう声を掛け、念入りに唇を重ねる。彼女の体に布団を掛けるとネビロスは部屋を出て行った。
「ネビロス…さん…」
名前を呼ぶミアの声は、彼の耳には届かなかった。
* * *
「こんばんは」
残業していたクロードウィッグは突然の来訪者に眼鏡を外して目を擦った。見間違いでは無い様だ。何故か医療班のネビロス・ファストがここにいる。
「この部屋には貴方お一人ですか？」
ネビロスの問いにクロードウィッグはこくりと頷く。慣れない相手を前にするとクロードウィッグは口数が極端に減ってしまう。ネビロスはそれに気付いている様で、特に気にしない様子でクロードウィッグの机に近付くと封筒を置いた。
「それ、明日受理してほしい物です」
「……？」
「絶対に明日開けて下さい」
「え…？でも…これって…？」
「頼みますね」
有無を言わさぬ雰囲気で押し付ける様にしていくネビロス。クロードウィッグも片付けたい仕事が残っていたし、「明日開けて欲しい」と言われたので言われた通り明日開けようとそのまま机に残し、日付が変わる頃にやっと部屋に戻った。
それにしても、自分も人の事を言えた義理では無いがやけに幽霊の様な陰鬱な雰囲気の男だ。最近のネビロスは少しずつ明るくなっていた気がした。明るい朗らかそうな彼女がいた様だし、くそリア充め悔しく無いぞと涙で枕を濡らした記憶があったのでよく覚えている。その時の彼はこんなに暗く死んだ様な顔をしていなかった気がするのだが。
「……ま、いっか」
海上の青い星の映画版を鑑賞して眠りに落ちる。次の日、自分が休日だった事を昼頃思い出したクロードウィッグは急遽タイガに連絡を入れた。
昨日の夜遅く、医療班のネビロス・ファウストがやって来て「明日開けて欲しい」と茶封筒を置いて行ったから見ておいてくれと。
「……何で今頃言うかな…！？」
全くもう、本当にもう。タイガはブツブツ文句を言いながらクロードウィッグの『まるで綺麗に整頓されていないオタクの机』略して『マキオ』と呼んでいる机をガサガサと荒らす。意外にも分かるところに置いてあった目的の封筒はすぐに見つかった。
カッターを使わずとも剥がれる糊付けをされていたので手で開ける。中からネビロスの筆跡での手紙が見付かる。そこには、結社を辞める覚悟や理由が述べられていた。
「え…！？これって…辞表…！？」
タイガは顔を青くすると慌てて外へ飛び出す。ドアを開けた瞬間目の前に前線駆除班第三小隊のゼン・ファルクマンがおり、ぶつかった勢いで彼の帽子が宙を舞った。
無題
後編
Je ne sais pas quoi faire.
On n'a qu'une vie
La chance est avec moi
Vivez pleinement votre vie et mourez quand vous mourez.
Bonne nuit mon amour, Bonne nuit mon ange.
Après la pluie, le beau temps
エピローグ
この苦難を越えれば
──ねぇ、明日は君に会えるかな？
前編 
ヴィアリィ・フォビア
『永遠』なんて有りはしないと最初から分かっていたじゃないか。君だって俺の前から消えてしまったのに。
『幸福』なんて望んではいけないと最初から分かっていたじゃないか。君を、君達を失ってからは矢張り人並みの幸せなど望んではいけないのだと自分に言い聞かせていたのに。
『安寧』なんて私の人生にはないと言い聞かせて来たじゃないか。
『情愛』なんてもう抱いてはいけないと言い聞かせて来たじゃないか。
人を愛する資格も、自由も、幸せになる保証も何もかも持ち併せていないじゃないか。
僕が愛した人は皆不幸になるだけじゃないか。
だから俺はもう誰かを愛する事をやめようとして、こんな事があってもただギロクの作ったプログラムを解剖したいなんて好奇心を抱いた浅ましい俺に対する嫌悪だけを持って生きるのがお似合いで。
もう何も考えたくなくて、私はただ亡霊の様にそこに在る存在でいようと思っていたのに。
なのに何故、それなのに何故──？
* * *
「ヴォイドさんが……部屋にいません」
パニックに陥った様なミアから電話を取り、ネビロスはとりあえず落ち着く様に促した。すると今度落ち着いたミアから返ってきたのは、何とも思い詰めた様な声だった。そしてその声で、ヴォイドの危機に対する恐怖を伝えて来たのだった。
「ヴォイドが…部屋に居ない？」
『そうなんです…！お部屋の鍵が掛かってなくて…！中を覗いたら誰も居なくて…！』
「…ミア、大丈夫です。落ち着いてください。きっとヴォイドなら平気ですよ。あのヴォイドですよ？」
『でも…！でも…もし何かあったら…！』
「…ヴォイドは強い女性です。体術に自信のある私でも、彼女は相手にしたくないって思うくらいです。そうでなくとも岸壁街の出ですから、何かトラブルがあっても普通より冷静に対処出来ますよ。だから大丈夫。とりあえずこっちに戻って来てください、ミア」
しばらく電話向こうで黙っていたミアは、小さな声で一言『はい…』と力無く呟くとぶつりと電話を切った。
──ヴォイドなら平気です。ヴォイドは強い女性です。だから大丈夫。
ネビロスは、本当にそう思っていた。多少の不安はあれど、ここは結社であり岸壁街よりも質の良い暮らしを保証されている。ヴォイドの様に最底辺の場所からやって来た女性にとっては安全で何不自由なく暮らせる場所。ネビロスはそう認識していた。
しかし、自分の見立てが甘かったと、自分がいかに無責任で生温い事を想像していたかとネビロスが思い知ったのは、聞き込みの為にユウヤミが医療班に足を運んだ時だった。
「失礼するよ。少し聞きたい事があってね。連絡の取れないケルンティア君と…ホロウ君について」
急遽発足したと言う「マルフィ結社特別捜査班」と言う名前と、連絡の取れない二人。その二つが結ばれた瞬間、ネビロスはやっとただ事ではないと察した。
それを掲げてやって来たユウヤミがアキヒロとの話を終えたところでミアは彼に駆け寄った。
「え…！？ヴォイドさん…だけじゃなくて、ミサキちゃんも…！？」
「ああ。それで今順に回っているんだ。汚染駆除班はケルンティア君が、医療班はホロウ君が所属しているから念入りに聞こうと思ってね。ところで、アスラン先生はどこだい？」
「それが…ヴォイドさんが居ない分、ヴォイドさんが行くはずだった前線医療班の仕事に行ってくださって…だから多分、戻って来たら休憩所に向かうと思います」
「そうか。では後でそっちにも向かおう。ところでフローレス君、ホロウ君かケルンティア君について変わった事は無かったかい？」
「私も…ヴォイドさんが来られなくてエル先生が怒っちゃって……それで心配になって見に来ていないことに気付いたんです……。あの、ユウヤミさん…ヴォイドさんは本当に居なくなっちゃったんですか…？事故とか事件に…巻き込まれてませんよね…？」
「……私もそれを信じて探しているところだよ」
安否不明。そしておそらく、『ただ居なくなった』と言うよりかは『事件や事故に巻き込まれた』線が濃厚だと踏んでいる、そんな風にも聞こえるユウヤミの言葉。ネビロスが静かに思考を巡らせていると、ボトボトボトッ！と嫌な音が脳裏に響いた。
その脳に直接届く様な音には馴染みがある。ネビロスが硬直していると、視界の端に足が見えた。細い細い女性の素足だ。その女性の足はゆっくりゆっくり進ませながら近付いてくる。ネビロスは額に脂汗を滲ませながら瞬きもせず、かと言ってそちらを直視する事も出来ず立ち尽くした。ぴちょん、ぴちょんと何かの滴る様な音も聞こえる。
ゆらりゆらりとゆっくり歩みを進めて来ていた足は、その内フェードアウトする様に消えてしまうとしっかりした靴を履いた足に変わった。
「……大丈夫かい？」
いつの間に近くまで来ていたのか、ユウヤミがその闇の様な瞳に少々の不安を交えてネビロスを見ていた。
「……はい…大丈夫です…」
「どうしたんだい…？凄い汗だ…」
「…大丈夫ですから、お気になさらず…」
「…そうか…とにかく、私はそう言うわけで情報を求めているから、ほんの些細な事でも気付いた事があったら教えて欲しい」
「分かりました…」
汗の滲んだ、いつもよりも血の気の少ない青い顔。ネビロスは震える様に歯をカチカチ鳴らせる。ミアはそれに気付いてしまい、しかし声を掛ける前にアペルピシアに呼ばれたのでそちらに向かった。
アペルピシアは、少し複雑そうな顔で棚の整理をする。ミアが来ると彼女に作業を交代しようと説明を始めた。新しい薬品が届いたから、同じ種類で棚に分けてまとめて置いて欲しいと言う事だった。
作業を交代しようとした時、アペルピシアは少し表情を曇らせた。
「…失敗だったわね。私もカリカリしてたわ」
「え？」
「いや、ヴォイドの事よ。まさかこんな事件や事故の可能性もある大事になるなんて…無責任にサボったと見做して要らぬ怒り方しちゃったわ…」
「そんな…でも、エル先生が怒ったから見に行ってって話になって……それで…居ないってわかって」
「……気を遣わせてごめんなさい。それより、私も早く無事に帰ってくる事を祈ってるわ」
そう言って持ち場に戻ろうとするアペルピシア。ミアはハッとした顔になると彼女を呼び止めた。先程見たネビロスの青ざめた顔が気になってしまったのだ。
「あ、あの！エル先生！」
「何？」
「その…ネビロスさんって先生が診てるんですよね…？あの、ネビロスさんが今一番辛い事って何なんですか…？」
おずおずと窺う様な表情で自分を見るミア。アペルピシアは彼女が何をしたいのか気付いてしまい、やるせなさそうにフッと微笑んだ。
「……ネビロスは、確かに私が診てるけど、本来は彼が罹るべきは距離の遠い心理士だと思っているの。私はただ、近い内科医として彼の体を診ているに過ぎないわ。そりゃあ、たまにピアノの治療を試みてみる？って話はするけどね」
「え？じゃあ…ネビロスさんは…」
「少し前より良くなっているのは確かよ？薬によって落ち着いたり、眠るって言う行動や休むって言う行動を取れる様になってより良くなってる。でも一番は、貴女が居たからかな…ミアと一緒にいる時間が増えて、彼とっても穏やかになったみたいね」
「本当ですか…！？」
「ええ。だからもしミアが何かしたいと思うなら、それはネビロスの前で笑顔で居てあげる事、かしらね？」
「……はい！」
「本当は患者さんのプライバシーだからこれだって言っちゃいけないのよ？だから内緒にして、ミアだけの心に閉まっておいてね」
そう言って今度こそ持ち場に戻ったアペルピシア。ミアは彼女の背中を見送ると、作業を再開して一時間後には一度ネビロスの様子を見に戻った。
ネビロスは尚も暗い顔でノートにペンを走らせている。彼が暗い顔をしているのは割合多い方で、その暗さの中にも些細な変化があると気付けてしまうのは傍にいるミアくらいだ。そしてミアは、ネビロスの今の暗さがあまり見た事のない物であると気が付いた。
心配になって彼に近付くと、ネビロスは一度怯えた様にゆっくり目を見開き、そしていつもより遅い動作で首を此方に向けた。
「ミア……」
ネビロスは、あからさまにホッとした様にミアの名前を呼んだ。
「ネビロスさん…？」
「…何でもないです。ところで、どうしましたか？」
「あ、いえ…作業終わったんですけど…一人だと変な事考えちゃいそうで…お話に来ちゃいました」
「…そうですか」
ミアは甘えん坊ですね、と呟くといつも通りに微笑むネビロス。
まだ戻らないヴォイド。彼女の事を思うから心配になって、そしてその心配からいつもと皆様子が違くなっている。気持ちは落ち着いていられないけれど、人の健康を預かる仕事があるから心配してばかりもいられない。
──大丈夫。私もネビロスさんもヴォイドさんも、きっと大丈夫。
ミアは言い聞かせる様に頬を叩いて気合を入れ、出来るだけヴォイドの事を考えない様にしてやるべき事をやった。
* * *
「お、おいっ！ヴォイドとミサキが見つかったぞ！今ソナルトの軍警病院に運ばれたって！」
翌日、外に出ていた際に話を聞いたのか、スレイマンが慌てて医療班の部屋に飛び込んで来ると、肩で息をしながらヴォイドとミサキの無事を口にした。
「本当…！？エルは？今診察室？」
カウンセリングを終えてたまたま部屋から出て来たクインがスレイマンの元に駆け寄って話を聞くと、その勢いのまま今度は診察室に入り、アペルピシアと共に部屋から出て来た。
「スレイマン、ヴォイドもミサキも見付かったって本当？」
「ああ、エル。詳しい事は聞けなかったけど、二人とも病院に運ばれたみたいだ。後…リーシェルさんも…」
「……三人も…？と言う事は…もしかして…？」
「事件に巻き込まれた、と推測する方が妥当かもしれないわね…」
クインの眠たそうな目が少し鋭くなり、スレイマンもアペルピシアも頷いた。あの後人事部のロードも加わり、ヨダカを頭数としてもたった四人で動いていた特別捜査班。もしかしてと思っていたが、事件──つまり人の悪意の巻き込まれたと言うショッキングな事実を突き付けられ三人は言葉を失う。しかし、パンパンッ！と音を立てて手を叩いたアキヒロは、少し無理矢理にだが笑顔を見せていた。
「それでも、見つかったんですよ。ヴォイドさんもミサキさんも、無事見付かってくれたんです。ならせめて、明るい顔しましょう？」
ね？と首を傾げる様にそう言うアキヒロ。アペルピシアは瞳の奥に灯った不安を少しずつ落ち着かせると、安定した呼吸を取り戻した。
「……ロッシ先生の言う通り、ってやつね。精神科医がこんなに心乱してちゃまだまだだわ」
「仕方ありませんよ、人間ですから。まぁ、ここで暗い顔してても仕方ないですしねぇ。仕事が終わったら、行ける人はお見舞いに。そんな感じにしませんか？」
「私はそれで良いわよ。大所帯で行っても悪いから、個々で行きましょうか。エル、それで良い？」
「ええ…異論はないわ」
「じゃあ…おれは今日もう上がれるからこれから行こうかな…誰か、行きます？」
「私ももう上がれる…クインは？」
「私は明日で良いわ。今日は何だか疲れてしまって……ところで」
クインはツカツカと廊下を進むと曲がり角で覗き込む様に腰を折り、そして「ふぅ」と小さく溜息を吐いた。
「やっぱり…。気になるなら来ても良いのよ、あなた達」
「あの、す、すみません！クイン先生！」
「……聞き耳を立てるつもりはありませんでしたが…」
角にいたのはミアとネビロスだった。二人揃っていつ話に入って良いか分からずまるで聞き耳を立てる様に立っていた様だ。ミアはペコペコと頭を下げ平謝りするが、ネビロスはクインと目も合わさずにただただ虚な瞳で焦点の合わない場所を見つめていた。
「……貴方」
「…何か？クイン先生」
「いえ。何でもないわ…。それよりミア、ヴォイドの話だけど」
「は、はい！あの…見付かったって本当ですか…！？」
「そう。ソナルト軍警病院よ。お見舞いは行って大丈夫みたいだから、もし行くのなら道中気を付けてね」
「はいっ！」
焦点の合わない瞳。クインの方など見ないと言う態度はいつものネビロスの様な気がしたが、クインはネビロスのこの妙な視線が気になって仕方がなかった。
『幸福』なんて望んではいけないと最初から分かっていたじゃないか。君を、君達を失ってからは矢張り人並みの幸せなど望んではいけないのだと自分に言い聞かせていたのに。
『安寧』なんて私の人生にはないと言い聞かせて来たじゃないか。
『情愛』なんてもう抱いてはいけないと言い聞かせて来たじゃないか。
人を愛する資格も、自由も、幸せになる保証も何もかも持ち併せていないじゃないか。
僕が愛した人は皆不幸になるだけじゃないか。
だから俺はもう誰かを愛する事をやめようとして、こんな事があってもただギロクの作ったプログラムを解剖したいなんて好奇心を抱いた浅ましい俺に対する嫌悪だけを持って生きるのがお似合いで。
もう何も考えたくなくて、私はただ亡霊の様にそこに在る存在でいようと思っていたのに。
なのに何故、それなのに何故──？
* * *
「ヴォイドさんが……部屋にいません」
パニックに陥った様なミアから電話を取り、ネビロスはとりあえず落ち着く様に促した。すると今度落ち着いたミアから返ってきたのは、何とも思い詰めた様な声だった。そしてその声で、ヴォイドの危機に対する恐怖を伝えて来たのだった。
「ヴォイドが…部屋に居ない？」
『そうなんです…！お部屋の鍵が掛かってなくて…！中を覗いたら誰も居なくて…！』
「…ミア、大丈夫です。落ち着いてください。きっとヴォイドなら平気ですよ。あのヴォイドですよ？」
『でも…！でも…もし何かあったら…！』
「…ヴォイドは強い女性です。体術に自信のある私でも、彼女は相手にしたくないって思うくらいです。そうでなくとも岸壁街の出ですから、何かトラブルがあっても普通より冷静に対処出来ますよ。だから大丈夫。とりあえずこっちに戻って来てください、ミア」
しばらく電話向こうで黙っていたミアは、小さな声で一言『はい…』と力無く呟くとぶつりと電話を切った。
──ヴォイドなら平気です。ヴォイドは強い女性です。だから大丈夫。
ネビロスは、本当にそう思っていた。多少の不安はあれど、ここは結社であり岸壁街よりも質の良い暮らしを保証されている。ヴォイドの様に最底辺の場所からやって来た女性にとっては安全で何不自由なく暮らせる場所。ネビロスはそう認識していた。
しかし、自分の見立てが甘かったと、自分がいかに無責任で生温い事を想像していたかとネビロスが思い知ったのは、聞き込みの為にユウヤミが医療班に足を運んだ時だった。
「失礼するよ。少し聞きたい事があってね。連絡の取れないケルンティア君と…ホロウ君について」
急遽発足したと言う「マルフィ結社特別捜査班」と言う名前と、連絡の取れない二人。その二つが結ばれた瞬間、ネビロスはやっとただ事ではないと察した。
それを掲げてやって来たユウヤミがアキヒロとの話を終えたところでミアは彼に駆け寄った。
「え…！？ヴォイドさん…だけじゃなくて、ミサキちゃんも…！？」
「ああ。それで今順に回っているんだ。汚染駆除班はケルンティア君が、医療班はホロウ君が所属しているから念入りに聞こうと思ってね。ところで、アスラン先生はどこだい？」
「それが…ヴォイドさんが居ない分、ヴォイドさんが行くはずだった前線医療班の仕事に行ってくださって…だから多分、戻って来たら休憩所に向かうと思います」
「そうか。では後でそっちにも向かおう。ところでフローレス君、ホロウ君かケルンティア君について変わった事は無かったかい？」
「私も…ヴォイドさんが来られなくてエル先生が怒っちゃって……それで心配になって見に来ていないことに気付いたんです……。あの、ユウヤミさん…ヴォイドさんは本当に居なくなっちゃったんですか…？事故とか事件に…巻き込まれてませんよね…？」
「……私もそれを信じて探しているところだよ」
安否不明。そしておそらく、『ただ居なくなった』と言うよりかは『事件や事故に巻き込まれた』線が濃厚だと踏んでいる、そんな風にも聞こえるユウヤミの言葉。ネビロスが静かに思考を巡らせていると、ボトボトボトッ！と嫌な音が脳裏に響いた。
その脳に直接届く様な音には馴染みがある。ネビロスが硬直していると、視界の端に足が見えた。細い細い女性の素足だ。その女性の足はゆっくりゆっくり進ませながら近付いてくる。ネビロスは額に脂汗を滲ませながら瞬きもせず、かと言ってそちらを直視する事も出来ず立ち尽くした。ぴちょん、ぴちょんと何かの滴る様な音も聞こえる。
ゆらりゆらりとゆっくり歩みを進めて来ていた足は、その内フェードアウトする様に消えてしまうとしっかりした靴を履いた足に変わった。
「……大丈夫かい？」
いつの間に近くまで来ていたのか、ユウヤミがその闇の様な瞳に少々の不安を交えてネビロスを見ていた。
「……はい…大丈夫です…」
「どうしたんだい…？凄い汗だ…」
「…大丈夫ですから、お気になさらず…」
「…そうか…とにかく、私はそう言うわけで情報を求めているから、ほんの些細な事でも気付いた事があったら教えて欲しい」
「分かりました…」
汗の滲んだ、いつもよりも血の気の少ない青い顔。ネビロスは震える様に歯をカチカチ鳴らせる。ミアはそれに気付いてしまい、しかし声を掛ける前にアペルピシアに呼ばれたのでそちらに向かった。
アペルピシアは、少し複雑そうな顔で棚の整理をする。ミアが来ると彼女に作業を交代しようと説明を始めた。新しい薬品が届いたから、同じ種類で棚に分けてまとめて置いて欲しいと言う事だった。
作業を交代しようとした時、アペルピシアは少し表情を曇らせた。
「…失敗だったわね。私もカリカリしてたわ」
「え？」
「いや、ヴォイドの事よ。まさかこんな事件や事故の可能性もある大事になるなんて…無責任にサボったと見做して要らぬ怒り方しちゃったわ…」
「そんな…でも、エル先生が怒ったから見に行ってって話になって……それで…居ないってわかって」
「……気を遣わせてごめんなさい。それより、私も早く無事に帰ってくる事を祈ってるわ」
そう言って持ち場に戻ろうとするアペルピシア。ミアはハッとした顔になると彼女を呼び止めた。先程見たネビロスの青ざめた顔が気になってしまったのだ。
「あ、あの！エル先生！」
「何？」
「その…ネビロスさんって先生が診てるんですよね…？あの、ネビロスさんが今一番辛い事って何なんですか…？」
おずおずと窺う様な表情で自分を見るミア。アペルピシアは彼女が何をしたいのか気付いてしまい、やるせなさそうにフッと微笑んだ。
「……ネビロスは、確かに私が診てるけど、本来は彼が罹るべきは距離の遠い心理士だと思っているの。私はただ、近い内科医として彼の体を診ているに過ぎないわ。そりゃあ、たまにピアノの治療を試みてみる？って話はするけどね」
「え？じゃあ…ネビロスさんは…」
「少し前より良くなっているのは確かよ？薬によって落ち着いたり、眠るって言う行動や休むって言う行動を取れる様になってより良くなってる。でも一番は、貴女が居たからかな…ミアと一緒にいる時間が増えて、彼とっても穏やかになったみたいね」
「本当ですか…！？」
「ええ。だからもしミアが何かしたいと思うなら、それはネビロスの前で笑顔で居てあげる事、かしらね？」
「……はい！」
「本当は患者さんのプライバシーだからこれだって言っちゃいけないのよ？だから内緒にして、ミアだけの心に閉まっておいてね」
そう言って今度こそ持ち場に戻ったアペルピシア。ミアは彼女の背中を見送ると、作業を再開して一時間後には一度ネビロスの様子を見に戻った。
ネビロスは尚も暗い顔でノートにペンを走らせている。彼が暗い顔をしているのは割合多い方で、その暗さの中にも些細な変化があると気付けてしまうのは傍にいるミアくらいだ。そしてミアは、ネビロスの今の暗さがあまり見た事のない物であると気が付いた。
心配になって彼に近付くと、ネビロスは一度怯えた様にゆっくり目を見開き、そしていつもより遅い動作で首を此方に向けた。
「ミア……」
ネビロスは、あからさまにホッとした様にミアの名前を呼んだ。
「ネビロスさん…？」
「…何でもないです。ところで、どうしましたか？」
「あ、いえ…作業終わったんですけど…一人だと変な事考えちゃいそうで…お話に来ちゃいました」
「…そうですか」
ミアは甘えん坊ですね、と呟くといつも通りに微笑むネビロス。
まだ戻らないヴォイド。彼女の事を思うから心配になって、そしてその心配からいつもと皆様子が違くなっている。気持ちは落ち着いていられないけれど、人の健康を預かる仕事があるから心配してばかりもいられない。
──大丈夫。私もネビロスさんもヴォイドさんも、きっと大丈夫。
ミアは言い聞かせる様に頬を叩いて気合を入れ、出来るだけヴォイドの事を考えない様にしてやるべき事をやった。
* * *
「お、おいっ！ヴォイドとミサキが見つかったぞ！今ソナルトの軍警病院に運ばれたって！」
翌日、外に出ていた際に話を聞いたのか、スレイマンが慌てて医療班の部屋に飛び込んで来ると、肩で息をしながらヴォイドとミサキの無事を口にした。
「本当…！？エルは？今診察室？」
カウンセリングを終えてたまたま部屋から出て来たクインがスレイマンの元に駆け寄って話を聞くと、その勢いのまま今度は診察室に入り、アペルピシアと共に部屋から出て来た。
「スレイマン、ヴォイドもミサキも見付かったって本当？」
「ああ、エル。詳しい事は聞けなかったけど、二人とも病院に運ばれたみたいだ。後…リーシェルさんも…」
「……三人も…？と言う事は…もしかして…？」
「事件に巻き込まれた、と推測する方が妥当かもしれないわね…」
クインの眠たそうな目が少し鋭くなり、スレイマンもアペルピシアも頷いた。あの後人事部のロードも加わり、ヨダカを頭数としてもたった四人で動いていた特別捜査班。もしかしてと思っていたが、事件──つまり人の悪意の巻き込まれたと言うショッキングな事実を突き付けられ三人は言葉を失う。しかし、パンパンッ！と音を立てて手を叩いたアキヒロは、少し無理矢理にだが笑顔を見せていた。
「それでも、見つかったんですよ。ヴォイドさんもミサキさんも、無事見付かってくれたんです。ならせめて、明るい顔しましょう？」
ね？と首を傾げる様にそう言うアキヒロ。アペルピシアは瞳の奥に灯った不安を少しずつ落ち着かせると、安定した呼吸を取り戻した。
「……ロッシ先生の言う通り、ってやつね。精神科医がこんなに心乱してちゃまだまだだわ」
「仕方ありませんよ、人間ですから。まぁ、ここで暗い顔してても仕方ないですしねぇ。仕事が終わったら、行ける人はお見舞いに。そんな感じにしませんか？」
「私はそれで良いわよ。大所帯で行っても悪いから、個々で行きましょうか。エル、それで良い？」
「ええ…異論はないわ」
「じゃあ…おれは今日もう上がれるからこれから行こうかな…誰か、行きます？」
「私ももう上がれる…クインは？」
「私は明日で良いわ。今日は何だか疲れてしまって……ところで」
クインはツカツカと廊下を進むと曲がり角で覗き込む様に腰を折り、そして「ふぅ」と小さく溜息を吐いた。
「やっぱり…。気になるなら来ても良いのよ、あなた達」
「あの、す、すみません！クイン先生！」
「……聞き耳を立てるつもりはありませんでしたが…」
角にいたのはミアとネビロスだった。二人揃っていつ話に入って良いか分からずまるで聞き耳を立てる様に立っていた様だ。ミアはペコペコと頭を下げ平謝りするが、ネビロスはクインと目も合わさずにただただ虚な瞳で焦点の合わない場所を見つめていた。
「……貴方」
「…何か？クイン先生」
「いえ。何でもないわ…。それよりミア、ヴォイドの話だけど」
「は、はい！あの…見付かったって本当ですか…！？」
「そう。ソナルト軍警病院よ。お見舞いは行って大丈夫みたいだから、もし行くのなら道中気を付けてね」
「はいっ！」
焦点の合わない瞳。クインの方など見ないと言う態度はいつものネビロスの様な気がしたが、クインはネビロスのこの妙な視線が気になって仕方がなかった。
ユーシミア・ロスト
「ネビロスさん、良かったですね…！ヴォイドさんが無事で…！」
結社の社用車に乗り、ソナルトに向かうネビロスとミア。手に三人の見舞いにと買った花を持ち安堵の笑みを浮かべている彼女とは対照的に、ネビロスはいつも以上に生気のない顔で前を見つめていた。
「……ええ」
「ネビロスさん…？」
相槌すら一つ二つ空返事をするのがやっと。そんなネビロスにミアはどうしたものかと考えるが、運転中だし黙っておこうと思った。小さい頃、家族でお出掛けをした時に運転する父とどうしても話がしたかったミアは後部座席から延々話しかけ続け最終的に母に注意されてしまった事がある。その時に言われたのが「運転をしている人は乗ってる人皆の命を預かってるのよ？」と言う言葉であり、いざ塾に通う様になって自分が助手席に乗る様になった頃やっとその言葉を現実として受け止めたのだ。
だから、ネビロスにも極力声を掛けない方が良い。ハンドルを握り、車を走らせる彼の横顔をチラリと覗き見る。いつもながらとても格好良いと思ってしまうのは惚れた故の贔屓目だろうか。
「……あれ…？」
しかし、それでも何故か今日のネビロスの顔はとてもとても翳って見えた。
「ネ、ビ……」
駄目だ。どうしてもまだ子供が抜け切れないでいる自分には、こう言う時大人としての正しい声の掛け方が分からない。そう思ったミアはそのまま黙ってしまった。
ヴォイドとミサキが見付かった。ユウヤミも含めて三人とも入院する事にはなったが、それでも無事だった。誰かの悪意に巻き込まれたとは聞いたけれどそれでも誰も死ななかった。皆無事に帰って来た。
不意にもう会えない父と母と、どこにいるか分からない「お姉ちゃん」の顔が浮かんでは消えていく。羨んだりしてはいけないと思うのに、助かる事が出来なかった二人の事を思い出して少しだけ胸が苦しくなる。助かった二人と助からなかった二人を天秤にかけてはいけないのに。そんな事を考えてしまうから、だから私はまだ子供だと言うのだ。
ミアはネビロスに気付かれない様に頬を伝う涙をそっと拭った。
「……病院、着きますよ」
「あ、はい！！」
気付けば車は駐車場にゆっくりと停められるところだった。ミアは頬をぺちぺち叩き、涙なんて見せない様にしようと自分を鼓舞する。そして、ふと違和感に気付いた。変に期待し過ぎているわけではないが、いつもこう言う時どんなに隠そうとしてもネビロスは「どうしたんですか？」と目敏く自分の涙に気付いて声を掛けるのだが、今日はそれがない。
「行きましょうか」
「はい！」
入院に適した花を纏め、早く退院できます様にと思いを込めて。喜んでくれたら良いなとそう思ってここに来る前に買った小さな花束が一、二、三。大事に抱えるミアの手は塞がってしまうが、横に来たネビロスはそんなミアの肩をそっと抱いて自分のところへ引き寄せる。
ああ、良かった。いつものネビロスさんだ。
そんな彼の姿を見てミアは嬉しそうに目を細めた。
* * *
「ヴォイド…さん……」
病室に入ったミアは思わず上擦った声で名前を呼び、逆にネビロスは一言も発しなかった。同室のミサキは完全にカーテンを締め切っておりその様子は窺い知れない。ヴォイドのベッドの傍で座っていたユウヤミは、自分達に情報を聞きに来た時のいつもの余裕な姿がまるで夢の様に彼もまた満身創痍だった。
「ホロウ君…頑張ったんだよ」
パルスオキシメーターの付いた手にそっと触れると、ユウヤミは絞り出す様にそう口にした。
ミアとネビロスが来る直前、気配を察して少し目を開けたらしいヴォイド。岸壁街出身者の悲しき性か、人の気配を感じると体が反応する様だ。普段ならそこまで過敏に反応はしない。最近は誰かが近くに来ても寝ている事の方が多いヴォイドだが、流石に色々あった後で興奮状態になっている様だ。意識は薄い様なのに、誰かが来ると目だけをそっと開ける事は何度かあったらしい。
「とりあえず、もう病院だし命に別状は無いよ。後は、しっかり目を覚ますのを待つだけだ」
「ユウヤミさんが…処置を…？」
「人工呼吸、胸骨圧迫、脱衣保温……延命の確率を上げる為に思い付くものは全部やったよ」
「そっかぁ…！それでヴォイドさんは…！無事に──…！」
しかし、装着している酸素マスクが呼吸に合わせて曇る度、病院にいるから安全だと分かって居てもその痛々しい姿にミアは胸の詰まる思いがする。心なしかユウヤミの表情もあまり晴れていない様に見える。
「本当に、生きていてくれて良かった」
しかし、ユウヤミの顔には普段あまり見ない安堵の色が浮かんでいた。あのユウヤミがこんなにボロボロになるのは医療班に勤務していてもあまり見る姿ではなかった。だからよほど必死に彼女達を助けようとしたのだと窺える。
「ヴォイドさんを…ミサキちゃんを助けてくれて、いっぱいいっぱい…ありがとうございます…ユウヤミさんも、お疲れ様です」
ミアが絞り出した言葉にユウヤミは目を見開くと、少しはにかみながらミアから花を受け取り「ありがとうね」と呟いた。
「まあ…そんなわけで今日は流石に皆疲れているんじゃ無いかなぁ？ケルンティア君も残念ながら起きる気配無いしねぇ。どうせ私も入院だし、花は私が責任を持って渡しておくからね」
「はい！お願いします！ヴォイドさんもミサキちゃんも、明日以降とかの方が体調的にも良いかもですよね！じゃあ…また顔見に来ます！」
そう言ってぺこりと頭を下げるミアの後ろで何も言う事なくネビロスは踵を返すと彼女を置いて行く様に歩きだしてしまう。ユウヤミはそんな珍しい姿のネビロスに少しだけ妙な気分になった。
「って言うか…ファウスト君、居たのだねぇ」
自分が存在に気付けない程に気配を隠していたネビロス。おそらくそれは意図的にやったのでは無く、きっと彼の心持ちが今『そう言うもの』なのだろう。周りが彼の気配に気付けない程に彼は覇気を無くしていた。
「………」
何だろう。何か妙だ。
初めて見た時に彼に感じた矛盾とざらつき。それは「愛の日」までは特に顕著であり、しかしその日を境にぱたりと薄れてしまった様に見えたもの。おそらく、何らかの理由で狂人の様な或いは幽霊の様な、そんな「普通では無い」素振りを見せていないと保てない部分があって、そしてそれを埋めてくれたのがミア・フローレス──つまりは愛情と言う事だったのだろう。
正直、興味は薄れた。結局のところ『愛が全てでした』なんて結末だったのだから興醒めだ。そんなありきたりな童話の様な彼に少し落胆してしまった記憶は確かにあった。
しかしそれはあくまで自分の面白いと感じるか否かの価値観であって、ネビロスにとって幸せが何たるかを思えばそんな彼に「面白く無くなった」と文句を言うのはお門違いだと言う事も勿論ユウヤミは理解している。
しかし今、現実は童話の様なハッピーエンドで終わってくれるものでも無いのかもしれないとも思ってしまった。彼のあの覇気の無さは、ただ「元気がない」で片付けて良いものでは無い様に見える。
もしもミアが居たから今のネビロスがあるのだとしたら、このイレギュラーに覇気の無い彼によるトラブルは決して彼だけの問題では無い。いずれミアを巻き込むのでは無いか。
「杞憂…だと良いけれどね」
何か起きても自分は今動きづらい身。そうで無くとも短い期間になかなか疲れた。
ユウヤミはあまり二人の事を考えない様にしながらただただ目の前のヴォイドと、彼女に繋がれた心電図を見ながら花を生ける為の花瓶の用意を始めた。そして未だ眠り続けたままのヴォイドの寝顔を見ながら、彼もそのまま彼女の足元の空いた隙間に突っ伏したのだった。
* * *
確かミアは『今日はネビロスさんに泊まって行ってもらう日』だと言っていた気がする。
クロエはそう記憶していた。ヴォイドやミサキの話があったからどうなるかは分からないが、それも込みで互いに慰め合えるならそれに越した事もない。現にミアに送ったメッセージに既読が付かないので、まあ仲良くやってはいるのだろう。
そう考えながら、クロエはぐいっと牛乳瓶を煽った。
「バートンちゃんや。珍しいねー、お姉さんを食事に誘ってくれるなんて」
「ふん。早めの慰労会みたいなもんスよ」
カチャカチャとナイフとフォークを使って上品にリブアイステーキを口に運ぶフィオナに対し、クロエは相も変わらず牛乳を片手に真っ赤なラーメンをずるずると口に運んでいた。
フィオナとクロエは普段あまり一緒に食事は摂らないが今日は違った。この数日あまりにも色々あり、互いに馬車馬の如く働いたので文字通り「早めの慰労会」としてクロエが誘ったのだ。
しかし、フィオナは一口大に切ったステーキを口に運ぶと、「で？悩み事は何なのかな？」と口にした。見抜かれていた様でバツの悪いクロエはそれを隠す様に箸でフィオナの切った肉を一口、強引に刺すと口に放り込んだ。フィオナから「ああっ！私のお肉！」と悲鳴が飛んだところでクロエはゆっくり口を開いた。
「……悩みなんて無いですが。フィオナ氏の意見を聞きたかっただけです」
「ふんふん、何なに？」
「……兄さんが…」
「マーシュさんがどうかしたの？」
「あの……」
ロードの様子がどこかおかしい。愛しの彼女も推しの彼女も渦中の人になったし、そりゃあ冷静でいられないのも分かるのだが、どうにもそれだけでは無いような気がして。あんなに慌てた姿を見せていたのに喉元過ぎれば何とやらとでも言うのだろうか、毎日でも見舞いに通いそうなのにあくまで「職場の同僚」の枠から出ない様に我慢している様な様が気になった。しかし上手く聞こうにも子供扱いしてはぐらかすのでよく分からない。だから友人としてフィオナの意見が欲しい。そう思った。
フィオナはひとしきりクロエの話を聞くと、再び肉を切って口に運ぶ。そしてワインをちびりと飲むと頭に指を当て何やら考え込む動作をした。
「んー…ごめん！分からない！」
「は？」
「いやー…言うて私もここのところあまりお話してなくてさー」
「…そうスか」
「うん、でも…バートンちゃんが気付くって事は今よっぽど下手な隠し方になってんだね、マーシュさん。身近にいる大事な人程悟らせない様に色々隠す様な気がするし、それが出来てないって事はそう言う事じゃない？」
そう言うところ本当マテオ、と眼鏡を曇らす勢いで興奮気味にフィオナは口にした。
「…それで？バートンちゃんはどうしたいの？様子がおかしい理由って言うか、悩みがあるのかちゃんとマーシュさんの口から聞きたい？」
「いいえ…それはどっちでも良いんです、ぶっちゃけ。ただ…あの人がもし弱音を吐いたら…その時受け入れてもらえたらなって思っただけです」
「あらま」
「兄さんには人には言えない様な、それこそ墓場まで持って行きたい思い出があるんじゃ無いかと思ってるんです。そりゃあ人間ですし、人には言えない過去の一つ二つあるでしょう。でもそのせいか、兄さんはやたらと普通の人っぽくあろうとする。でもそれって演技でもあるから、こう言う非常時にまでそう振舞おうとするとどうしても無理が生じて元気を無くすスピードが早い気がするんです。それを見せた時に色々吐けたら、そしたら楽になる気がしただけです」
「んー…つまり、マーシュさんが心許して弱音吐ける様な人間であれって事ね？責任重大だなぁ。…なーんて、勿論良いよ。そうあれたら私もちゃんと受け止めて聞くし」
「お願いします…」
兄と慕っていても、妹と可愛がられていても、触れて良いものや適切な距離と言うのはある気がする。だからクロエが出来るのは今はここまで。後は友人たる人にその事だけ伝えておいてもしもの時は助けてもらえたらとそう祈る。
会計を済ませ二人で外に出る。ふと端末に目を向けたが、この時間になってもまだミアから返事はおろか既読すら付いていなかった。
一瞬の内にクロエは頭の中で色々と整理する。ネビロスと一緒にいる筈だ。でも、そうであってもミアは返事は基本返してくれる。それが出来ない時も、既読は付けてくれる。端末に全く触れていないかの様な状況は初めての事で、クロエは少しだけ眉を顰めた。
「バートンちゃん？」
「………はい？」
「大丈夫？何か…おっかない顔してたけど…」
「いいえ…大丈夫です」
フィオナと別れたクロエはとりあえず自室に帰る。本当はミアが心配で彼女のところに行きたいが、まあ恋人が部屋に居るから端末を触るのを遠慮していると言うのもあるのかもしれない。それに、何となく突入してもし甘い時間の最中だったりしたら気まずい事この上ない。以前何も考えず無遠慮にロードの部屋を訪ね、彼が見知らぬ女と居るところに鉢合わせした気まずさを思い出す。あの悲劇を二度と繰り返してはいけない。
自室に戻り、寝る準備を終えて布団に入る。クロエは端末でメッセージを見ようとしたが、本を読み込んでいる内に眠ってしまった。
翌朝、目を覚ましたクロエは端末を操作し、目を丸くした。ミアからの返事を待っていたが、まだ既読にならない。
いくらネビロスと二人でいるからと言ってそんなに端末を見る事が出来ないなんて事があるだろうか。クロエは急いで制服に着替えると、身支度を整え荷物を纏めて部屋を飛び出す。
そして一目散にミアの部屋に向かった。ドアの前で少し迷ったクロエだが、インターホンを押す。ここでネビロスが出て来てもそれはそれで良かった。
しかし、待てど暮らせど誰も出てこない。クロエは段々と心配になり、インターホンを更に押した。そしてふとノブに手を置くと、ガチャリと回してみる。予想に反してドアが開いてしまい、クロエは息を飲んだ。
「……お邪魔しますよ」
ゆっくりゆっくり足を進めていく。途中、洗面所を覗き込んだものの人の気配は無く、本当にここはミアの部屋か？とクロエは疑問を浮かべた。ぎしぎしと足音が響くだけで誰の気配も感じない。クロエは落ち着かない心臓を鎮ませながら呼吸を大きくし、とうとうミアの部屋のリビングまで来た。カーテンも開けられておらず、薄暗いリビングの中ふとベッドに目をやる。
「ミア…？」
ベッドはこんもりと膨らんでいた。しかしこの膨らみはどう見ても人一人分だ。布団から茶色の髪の毛が覗いているからミアなのだろうが、だとしたら一緒に居たはずのネビロスはどこに行ったのか。
とは言え彼女が居た安心からクロエはやっと体の力を抜き、ベッドに近付いた。
「ミア、ミア起きてください。全く、いつまでもメッセージに既読も付けないしどうしたかと思いましたよ」
そう言って布団の膨らみをぽんと叩く。しかし、それ以上の反応がないのでクロエは布団を掴むと剥ぎ取った。
「全く…ミア、心配しますからせめて既読だけでも──」
そして、布団の中に居たミアの様子を見て目を大きく見開いた。
「クロエ…ちゃん…、クロエちゃん…っ！」
顔を見るなり泣きじゃくるミアにクロエは掴み掛かる。そして手を縛る様に掛けられていた布を外してやるとそっとミアを抱きしめた。
「ミア、何があったんですか！？どうしたんですか！？」
「クロエちゃん…！！」
「まさか…！？ネビロス氏…！？」
腕を拘束され、一糸纏わぬ姿でベッドに居たミア。部屋に荒れた様子は無く、唯一荒れているのはこのベッドの上だ。普段のミアは確かに無防備ではある。しかし、いくら距離の近い結社の男性とは言え無配慮に部屋に入れたりましてやベッドのある位置まで接近を許す様な女では無い。
ただ一人を除いては。
でも、信じたく無い。彼がこんな事をするなどと。クロエは一瞬で思考を切り替え、誰かに伝えようと部屋を飛び出さんばかりにベッドに背を向ける。しかし、そんなクロエをミアは止めた。
「ミア…！？」
「クロエちゃん…！クロエちゃん…！」
「居ますよ…ここに居ますから…」
「ねぇ、ねぇクロエちゃん…！私、おかしいのかなぁ…！？」
「え…？」
「とっても怖かったのに…！とっても…痛かったのに…！ミア、ミアってあんな、あんなに切なそうな泣きそうな声で呼ばれただけで…！それだけで私…！嬉しくもあって…！！変なのかなぁ！？ネビロスさんにされた事、全部受け入れられちゃうっておかしいのかなぁ！？こんなに切ないのっておかしいのかなぁ！？」
「…ミア……」
大丈夫、大丈夫ですよ。クロエがやっと言葉を絞り出すと、ミアは彼女に抱き着いた。支えきれずクロエはミアと共にベッドに沈む。自分の胸元に縋り付く様に顔を埋めたミアは、普段見せない様な顔で、声を張り上げて泣いた。
「ネビロスさん…！ネビロスさん！！会いたい！……会いたいよぅ…！！」
何があったか。聞かないと殆ど分からない様な状況ではある。しかしクロエは今何をすべきかは知っている。
おそらくこの状況を引き起こしたのはネビロスだ。ミアを傷付けたのもネビロスだ。しかし、そんなネビロスを今尚こんなにも愛おしく求めているのはミアだ。
そんなミアにすべき事。それは、彼女が落ち着くまでただ受け止め、慰める事だとクロエは知っている。
結社の社用車に乗り、ソナルトに向かうネビロスとミア。手に三人の見舞いにと買った花を持ち安堵の笑みを浮かべている彼女とは対照的に、ネビロスはいつも以上に生気のない顔で前を見つめていた。
「……ええ」
「ネビロスさん…？」
相槌すら一つ二つ空返事をするのがやっと。そんなネビロスにミアはどうしたものかと考えるが、運転中だし黙っておこうと思った。小さい頃、家族でお出掛けをした時に運転する父とどうしても話がしたかったミアは後部座席から延々話しかけ続け最終的に母に注意されてしまった事がある。その時に言われたのが「運転をしている人は乗ってる人皆の命を預かってるのよ？」と言う言葉であり、いざ塾に通う様になって自分が助手席に乗る様になった頃やっとその言葉を現実として受け止めたのだ。
だから、ネビロスにも極力声を掛けない方が良い。ハンドルを握り、車を走らせる彼の横顔をチラリと覗き見る。いつもながらとても格好良いと思ってしまうのは惚れた故の贔屓目だろうか。
「……あれ…？」
しかし、それでも何故か今日のネビロスの顔はとてもとても翳って見えた。
「ネ、ビ……」
駄目だ。どうしてもまだ子供が抜け切れないでいる自分には、こう言う時大人としての正しい声の掛け方が分からない。そう思ったミアはそのまま黙ってしまった。
ヴォイドとミサキが見付かった。ユウヤミも含めて三人とも入院する事にはなったが、それでも無事だった。誰かの悪意に巻き込まれたとは聞いたけれどそれでも誰も死ななかった。皆無事に帰って来た。
不意にもう会えない父と母と、どこにいるか分からない「お姉ちゃん」の顔が浮かんでは消えていく。羨んだりしてはいけないと思うのに、助かる事が出来なかった二人の事を思い出して少しだけ胸が苦しくなる。助かった二人と助からなかった二人を天秤にかけてはいけないのに。そんな事を考えてしまうから、だから私はまだ子供だと言うのだ。
ミアはネビロスに気付かれない様に頬を伝う涙をそっと拭った。
「……病院、着きますよ」
「あ、はい！！」
気付けば車は駐車場にゆっくりと停められるところだった。ミアは頬をぺちぺち叩き、涙なんて見せない様にしようと自分を鼓舞する。そして、ふと違和感に気付いた。変に期待し過ぎているわけではないが、いつもこう言う時どんなに隠そうとしてもネビロスは「どうしたんですか？」と目敏く自分の涙に気付いて声を掛けるのだが、今日はそれがない。
「行きましょうか」
「はい！」
入院に適した花を纏め、早く退院できます様にと思いを込めて。喜んでくれたら良いなとそう思ってここに来る前に買った小さな花束が一、二、三。大事に抱えるミアの手は塞がってしまうが、横に来たネビロスはそんなミアの肩をそっと抱いて自分のところへ引き寄せる。
ああ、良かった。いつものネビロスさんだ。
そんな彼の姿を見てミアは嬉しそうに目を細めた。
* * *
「ヴォイド…さん……」
病室に入ったミアは思わず上擦った声で名前を呼び、逆にネビロスは一言も発しなかった。同室のミサキは完全にカーテンを締め切っておりその様子は窺い知れない。ヴォイドのベッドの傍で座っていたユウヤミは、自分達に情報を聞きに来た時のいつもの余裕な姿がまるで夢の様に彼もまた満身創痍だった。
「ホロウ君…頑張ったんだよ」
パルスオキシメーターの付いた手にそっと触れると、ユウヤミは絞り出す様にそう口にした。
ミアとネビロスが来る直前、気配を察して少し目を開けたらしいヴォイド。岸壁街出身者の悲しき性か、人の気配を感じると体が反応する様だ。普段ならそこまで過敏に反応はしない。最近は誰かが近くに来ても寝ている事の方が多いヴォイドだが、流石に色々あった後で興奮状態になっている様だ。意識は薄い様なのに、誰かが来ると目だけをそっと開ける事は何度かあったらしい。
「とりあえず、もう病院だし命に別状は無いよ。後は、しっかり目を覚ますのを待つだけだ」
「ユウヤミさんが…処置を…？」
「人工呼吸、胸骨圧迫、脱衣保温……延命の確率を上げる為に思い付くものは全部やったよ」
「そっかぁ…！それでヴォイドさんは…！無事に──…！」
しかし、装着している酸素マスクが呼吸に合わせて曇る度、病院にいるから安全だと分かって居てもその痛々しい姿にミアは胸の詰まる思いがする。心なしかユウヤミの表情もあまり晴れていない様に見える。
「本当に、生きていてくれて良かった」
しかし、ユウヤミの顔には普段あまり見ない安堵の色が浮かんでいた。あのユウヤミがこんなにボロボロになるのは医療班に勤務していてもあまり見る姿ではなかった。だからよほど必死に彼女達を助けようとしたのだと窺える。
「ヴォイドさんを…ミサキちゃんを助けてくれて、いっぱいいっぱい…ありがとうございます…ユウヤミさんも、お疲れ様です」
ミアが絞り出した言葉にユウヤミは目を見開くと、少しはにかみながらミアから花を受け取り「ありがとうね」と呟いた。
「まあ…そんなわけで今日は流石に皆疲れているんじゃ無いかなぁ？ケルンティア君も残念ながら起きる気配無いしねぇ。どうせ私も入院だし、花は私が責任を持って渡しておくからね」
「はい！お願いします！ヴォイドさんもミサキちゃんも、明日以降とかの方が体調的にも良いかもですよね！じゃあ…また顔見に来ます！」
そう言ってぺこりと頭を下げるミアの後ろで何も言う事なくネビロスは踵を返すと彼女を置いて行く様に歩きだしてしまう。ユウヤミはそんな珍しい姿のネビロスに少しだけ妙な気分になった。
「って言うか…ファウスト君、居たのだねぇ」
自分が存在に気付けない程に気配を隠していたネビロス。おそらくそれは意図的にやったのでは無く、きっと彼の心持ちが今『そう言うもの』なのだろう。周りが彼の気配に気付けない程に彼は覇気を無くしていた。
「………」
何だろう。何か妙だ。
初めて見た時に彼に感じた矛盾とざらつき。それは「愛の日」までは特に顕著であり、しかしその日を境にぱたりと薄れてしまった様に見えたもの。おそらく、何らかの理由で狂人の様な或いは幽霊の様な、そんな「普通では無い」素振りを見せていないと保てない部分があって、そしてそれを埋めてくれたのがミア・フローレス──つまりは愛情と言う事だったのだろう。
正直、興味は薄れた。結局のところ『愛が全てでした』なんて結末だったのだから興醒めだ。そんなありきたりな童話の様な彼に少し落胆してしまった記憶は確かにあった。
しかしそれはあくまで自分の面白いと感じるか否かの価値観であって、ネビロスにとって幸せが何たるかを思えばそんな彼に「面白く無くなった」と文句を言うのはお門違いだと言う事も勿論ユウヤミは理解している。
しかし今、現実は童話の様なハッピーエンドで終わってくれるものでも無いのかもしれないとも思ってしまった。彼のあの覇気の無さは、ただ「元気がない」で片付けて良いものでは無い様に見える。
もしもミアが居たから今のネビロスがあるのだとしたら、このイレギュラーに覇気の無い彼によるトラブルは決して彼だけの問題では無い。いずれミアを巻き込むのでは無いか。
「杞憂…だと良いけれどね」
何か起きても自分は今動きづらい身。そうで無くとも短い期間になかなか疲れた。
ユウヤミはあまり二人の事を考えない様にしながらただただ目の前のヴォイドと、彼女に繋がれた心電図を見ながら花を生ける為の花瓶の用意を始めた。そして未だ眠り続けたままのヴォイドの寝顔を見ながら、彼もそのまま彼女の足元の空いた隙間に突っ伏したのだった。
* * *
確かミアは『今日はネビロスさんに泊まって行ってもらう日』だと言っていた気がする。
クロエはそう記憶していた。ヴォイドやミサキの話があったからどうなるかは分からないが、それも込みで互いに慰め合えるならそれに越した事もない。現にミアに送ったメッセージに既読が付かないので、まあ仲良くやってはいるのだろう。
そう考えながら、クロエはぐいっと牛乳瓶を煽った。
「バートンちゃんや。珍しいねー、お姉さんを食事に誘ってくれるなんて」
「ふん。早めの慰労会みたいなもんスよ」
カチャカチャとナイフとフォークを使って上品にリブアイステーキを口に運ぶフィオナに対し、クロエは相も変わらず牛乳を片手に真っ赤なラーメンをずるずると口に運んでいた。
フィオナとクロエは普段あまり一緒に食事は摂らないが今日は違った。この数日あまりにも色々あり、互いに馬車馬の如く働いたので文字通り「早めの慰労会」としてクロエが誘ったのだ。
しかし、フィオナは一口大に切ったステーキを口に運ぶと、「で？悩み事は何なのかな？」と口にした。見抜かれていた様でバツの悪いクロエはそれを隠す様に箸でフィオナの切った肉を一口、強引に刺すと口に放り込んだ。フィオナから「ああっ！私のお肉！」と悲鳴が飛んだところでクロエはゆっくり口を開いた。
「……悩みなんて無いですが。フィオナ氏の意見を聞きたかっただけです」
「ふんふん、何なに？」
「……兄さんが…」
「マーシュさんがどうかしたの？」
「あの……」
ロードの様子がどこかおかしい。愛しの彼女も推しの彼女も渦中の人になったし、そりゃあ冷静でいられないのも分かるのだが、どうにもそれだけでは無いような気がして。あんなに慌てた姿を見せていたのに喉元過ぎれば何とやらとでも言うのだろうか、毎日でも見舞いに通いそうなのにあくまで「職場の同僚」の枠から出ない様に我慢している様な様が気になった。しかし上手く聞こうにも子供扱いしてはぐらかすのでよく分からない。だから友人としてフィオナの意見が欲しい。そう思った。
フィオナはひとしきりクロエの話を聞くと、再び肉を切って口に運ぶ。そしてワインをちびりと飲むと頭に指を当て何やら考え込む動作をした。
「んー…ごめん！分からない！」
「は？」
「いやー…言うて私もここのところあまりお話してなくてさー」
「…そうスか」
「うん、でも…バートンちゃんが気付くって事は今よっぽど下手な隠し方になってんだね、マーシュさん。身近にいる大事な人程悟らせない様に色々隠す様な気がするし、それが出来てないって事はそう言う事じゃない？」
そう言うところ本当マテオ、と眼鏡を曇らす勢いで興奮気味にフィオナは口にした。
「…それで？バートンちゃんはどうしたいの？様子がおかしい理由って言うか、悩みがあるのかちゃんとマーシュさんの口から聞きたい？」
「いいえ…それはどっちでも良いんです、ぶっちゃけ。ただ…あの人がもし弱音を吐いたら…その時受け入れてもらえたらなって思っただけです」
「あらま」
「兄さんには人には言えない様な、それこそ墓場まで持って行きたい思い出があるんじゃ無いかと思ってるんです。そりゃあ人間ですし、人には言えない過去の一つ二つあるでしょう。でもそのせいか、兄さんはやたらと普通の人っぽくあろうとする。でもそれって演技でもあるから、こう言う非常時にまでそう振舞おうとするとどうしても無理が生じて元気を無くすスピードが早い気がするんです。それを見せた時に色々吐けたら、そしたら楽になる気がしただけです」
「んー…つまり、マーシュさんが心許して弱音吐ける様な人間であれって事ね？責任重大だなぁ。…なーんて、勿論良いよ。そうあれたら私もちゃんと受け止めて聞くし」
「お願いします…」
兄と慕っていても、妹と可愛がられていても、触れて良いものや適切な距離と言うのはある気がする。だからクロエが出来るのは今はここまで。後は友人たる人にその事だけ伝えておいてもしもの時は助けてもらえたらとそう祈る。
会計を済ませ二人で外に出る。ふと端末に目を向けたが、この時間になってもまだミアから返事はおろか既読すら付いていなかった。
一瞬の内にクロエは頭の中で色々と整理する。ネビロスと一緒にいる筈だ。でも、そうであってもミアは返事は基本返してくれる。それが出来ない時も、既読は付けてくれる。端末に全く触れていないかの様な状況は初めての事で、クロエは少しだけ眉を顰めた。
「バートンちゃん？」
「………はい？」
「大丈夫？何か…おっかない顔してたけど…」
「いいえ…大丈夫です」
フィオナと別れたクロエはとりあえず自室に帰る。本当はミアが心配で彼女のところに行きたいが、まあ恋人が部屋に居るから端末を触るのを遠慮していると言うのもあるのかもしれない。それに、何となく突入してもし甘い時間の最中だったりしたら気まずい事この上ない。以前何も考えず無遠慮にロードの部屋を訪ね、彼が見知らぬ女と居るところに鉢合わせした気まずさを思い出す。あの悲劇を二度と繰り返してはいけない。
自室に戻り、寝る準備を終えて布団に入る。クロエは端末でメッセージを見ようとしたが、本を読み込んでいる内に眠ってしまった。
翌朝、目を覚ましたクロエは端末を操作し、目を丸くした。ミアからの返事を待っていたが、まだ既読にならない。
いくらネビロスと二人でいるからと言ってそんなに端末を見る事が出来ないなんて事があるだろうか。クロエは急いで制服に着替えると、身支度を整え荷物を纏めて部屋を飛び出す。
そして一目散にミアの部屋に向かった。ドアの前で少し迷ったクロエだが、インターホンを押す。ここでネビロスが出て来てもそれはそれで良かった。
しかし、待てど暮らせど誰も出てこない。クロエは段々と心配になり、インターホンを更に押した。そしてふとノブに手を置くと、ガチャリと回してみる。予想に反してドアが開いてしまい、クロエは息を飲んだ。
「……お邪魔しますよ」
ゆっくりゆっくり足を進めていく。途中、洗面所を覗き込んだものの人の気配は無く、本当にここはミアの部屋か？とクロエは疑問を浮かべた。ぎしぎしと足音が響くだけで誰の気配も感じない。クロエは落ち着かない心臓を鎮ませながら呼吸を大きくし、とうとうミアの部屋のリビングまで来た。カーテンも開けられておらず、薄暗いリビングの中ふとベッドに目をやる。
「ミア…？」
ベッドはこんもりと膨らんでいた。しかしこの膨らみはどう見ても人一人分だ。布団から茶色の髪の毛が覗いているからミアなのだろうが、だとしたら一緒に居たはずのネビロスはどこに行ったのか。
とは言え彼女が居た安心からクロエはやっと体の力を抜き、ベッドに近付いた。
「ミア、ミア起きてください。全く、いつまでもメッセージに既読も付けないしどうしたかと思いましたよ」
そう言って布団の膨らみをぽんと叩く。しかし、それ以上の反応がないのでクロエは布団を掴むと剥ぎ取った。
「全く…ミア、心配しますからせめて既読だけでも──」
そして、布団の中に居たミアの様子を見て目を大きく見開いた。
「クロエ…ちゃん…、クロエちゃん…っ！」
顔を見るなり泣きじゃくるミアにクロエは掴み掛かる。そして手を縛る様に掛けられていた布を外してやるとそっとミアを抱きしめた。
「ミア、何があったんですか！？どうしたんですか！？」
「クロエちゃん…！！」
「まさか…！？ネビロス氏…！？」
腕を拘束され、一糸纏わぬ姿でベッドに居たミア。部屋に荒れた様子は無く、唯一荒れているのはこのベッドの上だ。普段のミアは確かに無防備ではある。しかし、いくら距離の近い結社の男性とは言え無配慮に部屋に入れたりましてやベッドのある位置まで接近を許す様な女では無い。
ただ一人を除いては。
でも、信じたく無い。彼がこんな事をするなどと。クロエは一瞬で思考を切り替え、誰かに伝えようと部屋を飛び出さんばかりにベッドに背を向ける。しかし、そんなクロエをミアは止めた。
「ミア…！？」
「クロエちゃん…！クロエちゃん…！」
「居ますよ…ここに居ますから…」
「ねぇ、ねぇクロエちゃん…！私、おかしいのかなぁ…！？」
「え…？」
「とっても怖かったのに…！とっても…痛かったのに…！ミア、ミアってあんな、あんなに切なそうな泣きそうな声で呼ばれただけで…！それだけで私…！嬉しくもあって…！！変なのかなぁ！？ネビロスさんにされた事、全部受け入れられちゃうっておかしいのかなぁ！？こんなに切ないのっておかしいのかなぁ！？」
「…ミア……」
大丈夫、大丈夫ですよ。クロエがやっと言葉を絞り出すと、ミアは彼女に抱き着いた。支えきれずクロエはミアと共にベッドに沈む。自分の胸元に縋り付く様に顔を埋めたミアは、普段見せない様な顔で、声を張り上げて泣いた。
「ネビロスさん…！ネビロスさん！！会いたい！……会いたいよぅ…！！」
何があったか。聞かないと殆ど分からない様な状況ではある。しかしクロエは今何をすべきかは知っている。
おそらくこの状況を引き起こしたのはネビロスだ。ミアを傷付けたのもネビロスだ。しかし、そんなネビロスを今尚こんなにも愛おしく求めているのはミアだ。
そんなミアにすべき事。それは、彼女が落ち着くまでただ受け止め、慰める事だとクロエは知っている。
時限式カラミテ
※センシティブな内容が含まれます「ありがとうございました」
引き戸を開け、付き添いのアペルピシアが診察室から出て来る。続いて、診察を終えた虚ろな顔のミアも出て来て二人はソファに腰掛けた。
「ちょっと飲み物買ってくるわ。ミアは何が良い？」
ミアは小さく首を横に振るだけで何も言わない。アペルピシアが「何も要らないの？」と尋ねると、ミアは今度は縦にこくんと頷きそのまま動かなくなった。アペルピシアは席を立ち、自販機まで歩き出す。乳酸菌飲料があったので気付けばついついそれを買ってしまっていた。自販機と言えばコーヒーやお茶が定番だと思うが、パッと目についた乳酸菌飲料を選んだ辺り疲れているのかもしれない。
「先生」
「あら、貴女外で待っているんじゃなかったの？」
「車の中で待っててもする事が無いんで」
クロエがアペルピシアに駆け寄り、ついでに缶のいちごミルクを買う。そして病院の中で見るには不釣り合いな、腰に手を当て仰け反る様なポーズで一気に缶を煽るとゴッゴッと早飲みした。あっと言う間に一本空にすると、リサイクルボックスに缶をシュート、更にもう一本買い足したところでクロエはやっと口を開いた。
「…どうでした…？ミアは…」
「……診察室でも、殆ど口を開かなかったわ。どこが痛い？とかそう言う事には答えるけど……」
「どこが痛い、以外を伝える必要ってあるんですか？」
「ええ。誰にやられたか、とかは聞く事もあるわよ」
「婦人科の先生がそんな刑事みたいな事聞くんですか？」
「ん？ああ。婦人科に駆け込むのはね、何も病気や調子の悪さだけで来る人だけじゃ無いの。中には、襲われたとかそう言うので不安になってくる人もいる。つまり、そこで事件性が見えたら医者は解決に向けての動きも見せなきゃいけない。勿論、襲われた直後なんてショックで動けない事が多いから珍しいんだけど。そうで無くても、避妊に失敗したとかで来る人も勿論いるわね」
「何か患者って無責任っすね」
「逆よクロエ。責任を全うしようと思うからちゃんと医師の診断を煽ろうとするのよ。でもデリケートな問題だから善し悪しだけで片付けちゃいけないし、ただでさえマイナスイメージの多い科だからね。来れない人の方が一定数いるのも仕方ないわ。婦人科に限らず医療系全般に言えるけど、例えば何かを申請したり相手を訴える証拠にしたり用途は色々あるけど、診断書って重要なのよ。その為に医者が話を聞く事も勿論あるわ。外科なら『喧嘩した』で怪我して運ばれた人が多かったり、背景ってまちまちだけどトラブルがあるかもしれない。だから疑わしきはある程度聞かなきゃいけないのよね」
何にせよ、ここで大きい声で否定の言葉を言うもんじゃ無いわよ？とアペルピシアは若いクロエを一喝する。何だかんだ子供の抜け切らないクロエの若い子特有の判断と尖りには覚えがあるしそうなる気持ちも分かるが、大人になるにつれ時と場所と場合を見て「口に出して良いか否か」は学ばねばならない。「正しい事だと思うからいつでもどこでも声を大にして言って良いはず」と言う感覚はそろそろ次の段階へ昇華させねばならないのだ。
クロエの価値観としてそう思ってしまうのも普通ではあるのかもしれない。しかしそう言う意味では、婦人科の待合室で勇気を出して診察を受けに来た人もいるかもしれないのに十把一絡げに無責任なんて感想を抱く事こそあれ、口に出したのはいけなかった。
「ただでさえ病院に罹る人の中にはやっとの思いで一歩を踏み出した結果来れたって人もいるの。だからそんな人を更に尻込みさせる事を言うのは良く無いわ。病院は寄り掛かれる存在であるべきよ。そして医者さえ患者に寄り添えば、周りで見ている人間は何を言っても良いと言うわけでも無いわ」
「すみません…気を付けます」
精神科だからこそそう言う患者をよく見ているアペルピシアが言うのは説得力がある。精神科に居たアペルピシアは「まだ大丈夫」と言う根拠の無い根性論の下限界まで頑張って頑張って、治すのに時間の掛かる状態まで悪くなってしまった人をよく見ていた。
「それで…ミアに関しては何て？」
「ああ……やっぱり貴女の言った通り、暴行の形跡はあった…って。少し傷があったから雑菌の繁殖を防ぐ錠剤と、それから経口の緊急避妊薬も貰った。経口の薬は本当に体に不調として出てしまうから、その間は休ませた方が良いと思うわ。念の為二、三日はミアが休んでも良い様に私達も動くから。急だし、人事部に予定表として出しておくのは無理だわ。口伝てで良いから、社内人事課の誰かに伝えておいてくれる？私も後からメールはするつもりだけど」
「…ええ。私もその間、ミアの事ちょっと気を遣おうと思います。そう言えば、医療班は五月から新しい先生が入社されるとか何とか」
「ええ。履歴書はもう確認してあるから後は来てくれるのを待つだけよ。ただでさえヴォイドがあんな状態でミアもネビロスも……急に忙しくなっちゃったから早く来て欲しいわ…」
「……その人は災難っスね。来て早々この忙しさとは…アーメン」
同情する様な口ぶりのクロエにアペルピシアは「総務班も相当忙しいでしょう？」とお互い様と言わんばかりに呟いた。
「あの……」
その時、二人の後ろから声を掛けられ一瞬どきりとしながら振り返る。二人とも気付けない程気配を消して近付いて来て居たのはミアであり、その顔は普段の彼女とは正反対の暗く元気の無いものだった。
「あ、どうしたの？ミア」
「すみません。ちょっと…おトイレに行きたくて…」
「…ああ、お会計は私がやっておくから平気よ。もう診察も終わったし、席を外しても大丈夫。あ、でもそうね、トイレに行くならこれ…」
アペルピシアはナプキンを一つミアに渡すと「大丈夫だからね」と労る様に言う。ミアはこくんと頷くとそのままトイレに向かった。
トイレに着いたミアは、その広さと清潔さに少しだけわくわくした。産科も併設されている婦人科だとは聞いて居たが、やっぱり子供連れであったりお腹の大きい人だったりを考慮された作りになっているのだろう。個室は十分な広さで、むしろ広いくらいだった。子供一人くらいいても広さは足りる、そんな作り。
ここには希望がいっぱいで、待合室で待っている間お腹の大きいお母さんに寄り添い「赤ちゃんまだかなぁ？」と口にする子供の姿を見た時は込み上げるものがあった。
色々と思い出しながらスカートをたくし上げて下着を下ろす。下着の表面に体内から流れ出たのであろう薬剤の汚れの付着が見えた時、ミアの脳裏に先程の診察室での治療が過った。
『少し傷があるから、バイ菌に化膿しない様に今ちょっと中にお薬入れますね。変な感じするかもしれないけど、大丈夫だからね』
一通り性病の検査もした後、そう言って広げた足の間に硬い金属の器具が入り、ジュッと音を立てて何か薬剤が注入された。医師が『大丈夫そうかな？』と言った辺り、性行経験の無い子は痛がってしまいこの器具を入れての処置が難しい時もあるのでは無いかと少し痛む処置を受けながらミアはふと思った。まだそう言う病院に行くのもあまり縁が無く、今回が初めてだった。人の目に晒されるのも、ましてや触れられるのも。確かにこんな風に足を広げた格好で医者とは言え人に見られると言うのは抵抗がある。触った事なんてある筈ないから人に触れられるのも少し怖い。
そこに彼は、触れた。
彼が私に触れた初めての人。
ミアの目にじわりと涙が滲んだ。
そして二人で見舞いに行った昨日の事が、彼の居た昨日までがまるで夢の様に過ぎてしまったとそう思った。
* * *
ヴォイドとミサキの見舞いを終えたミアとネビロスは車に向かった。今日はこのまま真っ直ぐ帰って、そう言えばお泊りはどうしよう？
そう思いながら歩いていると、車を前にネビロスはぴたりと足を止めてしまった。不思議に思ったミアが彼の顔を覗き込むと、血の気がまるで無い様な白い顔をしたネビロスは目を泳がせて居た。
ただならぬ異様な状況。
ミアは一大事を感じ取り、ネビロスの手を取って力強く握った。
「ネビロスさん…！？大丈夫ですか！？どうしたんですか…！？」
「……ぁ……う……」
「ネビロスさん！？」
額に汗を滲ませて居たネビロス。そのまま動けなくなった彼の手を尚更強く握ると、ネビロスはフゥと荒く息を吐き、すみませんと絞り出す様に口にした。
「帰るのは…電車でも良いですか…？結社には連絡して、車を運んでもらいます…」
「大丈夫ですか…？ネビロスさん、どうしたんですか…？」
「大丈夫です…大丈夫ですから…」
運転も出来ない様な状態で大丈夫な筈がない。現にネビロスは頭を両手で押さえて痛みに耐えている様だった。
「ネビロスさん…！ここ病院ですよ…！？無理言ってでも診てもらいましょう！？」
「いいえ…いいえ…結構です…」
「ネビロスさん！」
「大丈夫です…！」
そう言ってパッとミアの手を離すと足早に駅に向かおうとするネビロス。ミアは急に素っ気なくなった彼の態度に少し泣きそうになりながら後を追った。
そこは病院なのに。診て貰えば良いのに。何で私の心配は受け止めてもらえないんだろう？
そんな理不尽さを感じながら一緒に駅に向かう。ホームのベンチに座って頭を抱えるネビロスが「いつも通り」だとはどうしても思えなかった。
「ネビロスさん…」
「………」
「あの……」
「…ついさっき、総務部に電話をして車を移動してもらう事にしました…。キーを渡して…明日ティーマが病院に赴くついでに運転して帰ってくれると…けれど、駐車場の延長料金も取られるし、そんな事はこれきりにしてくれと怒られてしまいました。言われなくとも、二度とやるつもりもありませんが」
「ネビロスさん…私、ネビロスさんの事…」
心配で心配で堪らない。そう言おうとしたミアの言葉を遮る様に彼女を抱き寄せキスで口を塞ぐネビロス。離さんと言わんばかりの力で抱き締められ、そして彼と想いが通じ合った時にした様な、咥内を蹂躙する様なキスをされる。普段のミアならそんな少女漫画の様なシチュエーションにときめくものだが、何だか誤魔化す様に強引に行われるそれにミアはくらくらしながらも不穏な違和感を感じた。
同時に別の事も考える。思えば、初めは驚いて恥ずかしくて気絶してしまったこのキスの仕方も随分慣れたものだ。まだドキドキはするけれど、もう気絶はしない。
酸素を求めて口を開けると執拗なネビロスの舌は逃すまいと追ってくる。思わず声すら漏らしながら酸欠で惚けているとようやくネビロスが唇を離した。
「あ…ネビロス、さん…」
自分の体を支える様に抱き抱えるネビロス。
こんな激しいキスを交わしたと言うのに、彼の目はいつに無く暗く闇を湛えて居て、思わずミアはぞくりと背中に妙な感覚が走ったのを感じた。
「ミア…私たちが乗る電車が来ますね」
「はい…」
裏腹に交わされるのは何気ない日常の会話。ミアはもう何も考えられずにネビロスの手に引かれるまま彼の後についた。
しかし、いつしか生まれて居たミアの疑問はこの時大きく膨らんでいた。ネビロスがミアに意見を言わせてくれないのは自分が子供だからだろうか？十歳以上年下だからだろうか？
ネビロスは優しい。いつだってミアの事を考え、いつだってミアを労ってくれる。ミアが変な事を口走っても、笑って訂正してくれる。馬鹿にしない。偉ぶらない。なのに、時折頑として意見を許さないかの様な、自分の進ませたい方向にどうしても進めたくて誘導されている様な、そんな気配を感じてしまう。
それはきっと
だけど、いつまで？どんなに大きくなっても、彼との年齢差は埋まらないのに。
この先自分が二十代になっても三十代になっても、いつまでも二人はこのままで、この関係のままその都度色々考えて、そして「自分が子供だから」と言う言い訳を思い出すのだろうか。もうそんな事通用しないと分かっているのに、そう思う事でネビロスとの時折納得いかないやり取りも「仕方がない」と思って飲み込むのだろうか。
もしこれが、相手が彼と同じくらいの年代であろうルミエルなら？ルミエルなら、「年が離れているから」とか「子供だから」とかそう言う理由もなく、納得いかない時は同年代の人間として彼にそう言えるのだろうか。
私はいつになったら本当の意味で彼の隣を歩けるのだろうか。
「あの、ネビロスさん！」
「はい？」
「今日は、今日は……今日は絶対絶対、泊まってってください！！」
「はい…？」
「私、今日はネビロスさんと一緒に居たいです！」
頓珍漢と思われても良い。とりあえず自分の主張を大きく相手に伝える事から始めようとミアは思った。恋人と言うのは意見の擦り寄りが一番大事で、それはこの次にすべき段階の話。でもまずは流されないくらいの勢いでしっかり伝えるところから始めようとそう思った。
私もちゃんと主張して、そしてネビロスさんの話も聞く。そうやって徐々に子供から抜けていくんだ。彼に対等に見てもらえる大人になるんだ。前に進むんだ。
ミアは少しだけ鼻息荒く、だけど確実に一歩を踏みしめて居た。
* * *
部屋に着き、他愛無い話をしながらご飯を食べ、二人でテレビを観ながらぼんやりする。安らぐ時間なのにネビロスの浮かない顔は相変わらずでミアは抱き締めて居たぬいぐるみにもっと強く力を込めた。
「………」
画面の中でお笑い芸人、ピーター・アナセンが得意のトークで会場の笑いを攫っている。カンテ国のコメディアンにしては珍しく東國の様にコンビとして活躍していた彼だが、最近は相方のエルッキが俳優として活動しているのも有り個々での活躍が多い。せっかく二人でデビューしたのだから個々でではなく二人で出て欲しいとミアは思いつつちらりとネビロスの方を見た。思い詰めた彼の横顔は相変わらずで、その表情から察するに自分と同じ様に「ラウル」でではなくピーター個人として出て来るのを憂いて…なんて単純なものであってはくれないのだろう。
「はぁ…」
ただでさえ笑いに疎い真面目な彼がお笑い芸人の在り方を憂う様な事は無い。自分と違う感性を持つ彼だから勿論惹かれた。だけど、今この瞬間だけは自分と同じ様な感性で、自分と同じ様な些細な理由で眉間に皺を寄せていてくれたら。そう思ったらミアは思わず大きな溜息を吐いてしまった。
「…どうかしましたか？」
しかしそんな見えない彼でも、こう言う風に些細な自分の態度の変化に気付いてくれるところは変わらない。ミアはそれだけでただただ嬉しかった。そして、やっぱり今のままでも十分幸せなのだと思った。
でも、それで無理矢理自分を納得させていたら結局この先もずっと変わらず定期的に同じ事でモヤモヤするのでは無いだろうか。
「疲れたみたいですね…ヴォイドの姿にショックを受けていたみたいですし。もう寝ましょうか。先にシャワーいただきますね」
いつもの様にそう言い、スッと立ち上がるネビロス。ミアはそんな彼の手をパッと掴むと、決意に満ちた目で見上げた。
「ネビロスさん…！一緒にお風呂入りましょう！！」
「駄目です」
間髪入れずきっぱりと力強めな『お断り』を入れて来るネビロス。いつもならその『お断り』の速さにしょんぼりしながら「いつになったら一緒に背中流したり出来るんですかー？」とふにゃりと巫山戯た感じでミアが問い、「もう少し大人になったら、ですね」とネビロスが微笑むまでがセット。これは二人の会話の定型文の様なものでもあった。
しかし、この日のミアは違っていた。
「……いつになったらそう言う事も一緒に出来ますか…？」
同じ言葉ではあるが、深刻そうな声音でミアは呟く。ネビロスもミアの様子の違いに気付いてか、いつもと違い微笑んだりせずに強張った顔で返した。
「ミアがもう少し大人になったら、ですよ」
「…大人っていつなれますか…？私、もう成人しました」
「ミア、焦って前を向く事はありません。貴女は
「でも、それでも大人です…前線医療で仕事をする話も…慣れていこうねってもう言われ始めてます…」
「……貴女の仕事ぶりを見たスレイマンが言っていた話ですね。前線医療…過酷で責任もある仕事です。貴女はまだそんな事無理に急がなくて良いんです」
危険を伴う責任の重い仕事だから。だから無理に急いでミアにその仕事を任せる事もせず、安全な職場に置いておいて欲しい。ネビロスが自分への心配と優しさから言った事だと言うのは痛い程分かっている。だけど、自分はいつまで子供扱いされるのだろう？忙しくしているスレイマンやアキヒロらの手伝いも指を咥えて見ているしか無いもどかしさをいつも以上に思い出し、何故か今日のミアには堪らなくなってしまった。
前線医療にも向かえる大人のヴォイド一人が居なくなった負担を、まだ子供と見做されているミアに賄えそうにない。そう考えたら、守られてばかりなのは嫌だと急に思ってしまったのだ。
「……私、何で子供で居なくちゃ駄目なんですか…？いつになったらネビロスさんも私の事大人って認めてくれますか？」
「ミア……」
「胸がもっと大きくなったらですか？字がもっと上手に書ける様になったらですか？背が伸びたら？足が大きくなったら？自分でも分かってます……そんな風に大人を求める時期はもう過ぎたって。私はもう、体は本当に大人なんです。ネビロスさん、ネビロスさんはどうして私に
ネビロスは自分を子供と見做すことで目を逸らそうとしているものがある。そう思ったミアの精一杯の主張だった。しかしミアは驚いてしまった。予想外にネビロスの目が泳ぎ、顔色が悪くなり、息が荒くなったから。
何だか、とても良く無いことを聞いてしまったのかもしれない。そう思いつつ、ずっと疑問に思っていた事でもあった。
「……ネビロスさん、私は…ヴォイドさんの様になりたくて…」
彼女の様に、一人前に業務をこなせる人間に。
ミアとヴォイドが『医療班には天使が何人かいて、内有名な一人はほんわかしててお花みたいで、もう一人有名な子は時々処置に凄く容赦が無い』とそう噂されている事も知っている。せめて医療班に癒しを求めた人がそんな風に話したくなる気持ちも分かるが、ミアはそこでヴォイドと並べられても足りない気持ちの方が強かった。
天使が何人かいる。その中に自分を入れてもらっても、実際の自分はまだ出来ない事の方が多い。前線駆除のメンバーみたく、危険と隣り合わせで任務に赴く人間も居る一方で、いつも安全なところで仕事をしている。前線駆除班で若い部類に入る友人のルーウィンは二十一歳、もっと年下のエドゥアルトは十九歳だと言うのに。仲の良い友人達も危険な任務に赴く時があるのに、自分は守られてばかりな気がしてしまった。
「ヴォイドの…様に…？ミア、貴女…
振り絞る様な小さな声で彼はそう言った。ネビロスはヴォイドの扇情的な雰囲気が苦手で、職場だからこそそれなりの距離感にいるものの出会い方があまり良くなかったと聞いた事があった。笑い話にしていたが、それでも未だにヴォイドのオフの時の格好は苦手だと。
ネビロスがヴォイドの様な格好が苦手なのは分かっている。だから格好や雰囲気の事を指しているならそれは誤解で、自分は医療従事者としての技量の目標をヴォイドに設定したのだ。ミアはこくりと頷くと、「なりたいです…」と口にした。
「守られている状況で、それで良いじゃないですか……」
「…いいえ、私も…誰かを守れる様に助けられる様に、前に進みたいんです…」
「何も別に…今すぐ変わる事無いじゃないですか…」
「大人になりたいんです…！」
青白い顔で壁を見つめていたネビロスは「大人……」とうわごとの様に呟く。ミアがその後に続けて何かを言ったが、最早彼の目はミアを見ていなかった。
「ミア……そんなに大人になりたいんですか。私は、貴女を俗物的なやり方で大人に出来てしまいますよ」
そして焦点の定まらない目をしながら冷たくそう言い放つ。ネビロスから放たれた言葉の意味を理解出来ない程ミアも子供では無かった。しかし、「彼ならそんな風に言わないだろう」「そんな事はしないだろう」と言う大人らしくない楽観さは確かにあった。
良く言えば安心していた、信頼していた。
悪く言えば侮っていた、見くびっていた。
ネビロスの手がミアの目の前に伸びてきた時、ミアはこの状況がどれほど良くないか理解した。そしてネビロスの手がミアの胸に触れた時、何かが崩れ落ちる様な音が聞こえた気がした。
イスクゥシェーニイ・コシュマール
※センシティブな内容が含まれますカツカツカツと革靴が音を立てる。日も落ち、薄暗い病院の廊下をネビロスは歩いていた。病院のスタッフからしてみればもう消灯時間のスケジュールだが、
ネビロスはまるで見学する様に廊下を進む。すると、角を曲がった瞬間目の前にスキンヘッドで痩せこけた入院着の男が飛び出してきた。この男は、ネビロスが此処に来て定義付けた
「………」
特に驚きもなく黙って彼と見つめ合う。男は、何を言うでもなければネビロスに目もくれず再び歩き始めた。
廊下には、同じ様な格好の男達が何人かいた。
手前にいる男はひたすら壁に手を這わせひたひたと触りながら壁に沿って廊下の端から端まで歩くのを繰り返している。
かと思えば、奥の男は柱に一定の感覚で頭をぶつけている。打ちつけすぎて額の皮膚が破れたのか柱には血が滲み、ゴンゴンと打ち鳴らす無機質な音が響き渡るのみだ。
ネビロスはそんな彼等を無視する様にすり抜けると病室に入った。病室では真っ暗な部屋の中、同じ様なスキンヘッドで入院着の男達が一台だけあるテレビに釘付けになっている。
異様なことがあるとすれば、そのテレビは先ほどから砂嵐しか写しておらず、ザーザーと耳障りな音を響かせているだけだ。
ネビロスも近くにあった椅子に座ると、しばらく無言で彼等に混じって一緒にテレビを眺めていたが、しばらくして「違う」と言わんばかりに小さく首を振り立ち上がった。しかし、この異様な彼等は誰もネビロスの事など気に留めない。テレビが映しているのは砂嵐と言う異様さはあれど、テレビを観ている彼等は至って落ち着いていて穏やかで、そんな彼等はネビロスを認識すらしていないかの様に静かだった。
声を掛けても彼等は喋らない。此処に居たらいずれ人の言葉を忘れそうだとネビロスは少し笑う。
しかし、この異様な空間の中に更に異様な人間がいる事もネビロスは知っていた。
「おいブラザー。見ろよ、俺のマフィンちゃんの絹の様な髪」
「おいブラザー。俺のハニーがもっとも綺麗なのは陶器の様な肌だ」
「違う、俺のマフィンちゃんの目を見ろ」
「違う、俺のハニーの唇を見ろ」
他の彼等と同じくスキンヘッド。しかし、彼等と違い服を着ていないのがこの二人だ。全裸で異様な程に病的なのに何故か筋骨隆々でネビロスは彼等が視界に入ると嫌悪の顔を見せた。
「見ろよ、俺のマフィンちゃんは俺が欲しくて堪らない様だ」
「見ろよ、俺のハニーは俺が欲しくて堪らない様だ」
「馬鹿言うな。お前であるわけない。俺のマフィンちゃんが俺以外咥えたがるものか」
「馬鹿言うな。お前である筈がない。俺のハニーが俺以外挿れたがるものか」
ネビロスは二人と距離を置く様にそっと歩き出す。すると、後ろから互いに文句を言いながら二人も愚鈍な足取りでついてきた。
「俺のマフィンちゃんをしゃぶりたくてうずうずしてる」
「俺のハニーをハメたくてうずうずしてる」
「俺だ」
「俺だ」
どっちもごめん被る。そんな事を考えながら後ろで繰り広げられる下劣な会話に耳を塞ぎたくなる。今目の前に広がる世界は全て異様で、彼はいったいどこから現れた何なのか、ネビロスはあまりにも住む世界の違う彼等と言う存在にくらくらした。そして安寧を求めようと記憶の中を探る。ふわりとした茶色の髪の毛を思い出した。
──ルミエル…？
彼女の名前を思い出した瞬間、頭が割れる様に痛む。足を止め、廊下に蹲って動けなくなってしまった。背後からは鈍足ながら全裸の双子が迫って来る。双子は動けなくなったネビロスの両脇を固める様に座り込むとどちらかはネビロスの髪を、どちらかはネビロスの手を取り愛おしむ様に入念にキスをする。
「可哀想に、マフィンちゃん」
「可哀想に、ハニー」
振り解く気力も体力も無く動けずにいると、双子は更にネビロスに身を寄せる。そしてどちらかはネビロスの目に、どちらかはネビロスの耳に舌を這わせると愛おしむ様に舐めた。
「愛してあげよう、マフィンちゃん」
「愛してあげよう、ハニー」
体を這う舌の感触にネビロスは身震いする。思わず声を上げたネビロスはそんな己を恥じた。しかし彼等はお構い無しにネビロスの体にも手を這わす。頬を伝い首を撫で、胸を通り腹を触る。太ももに指がするりと通り内腿を通過し、徐々に徐々に体の中心に向かって這いながら指は進む。すりすりと撫でる様に触られるところから電流が走った様に快感が溢れたネビロスは頭の痛みも忘れいっそ身を委ねたくなった。
いや、だめだ、だめだ、それではだめだ。
不意にまた茶色のふわりとした髪が風に揺られた気がした。
「あんな女忘れて、マフィンちゃん」
「あんな女忘れて、ハニー」
「「俺の方があの時巧く上手にやれてた」」
その言葉にネビロスはカッと目を見開く。やめろ！と声を荒げ様とした瞬間、びくんと大袈裟に身を反らしたネビロスはそのまま気絶し床に沈んだ。
「馬鹿なマフィンちゃん、気持ち良いままいれば良いのに」
「馬鹿なハニー、何も考えずにいれば良いのに」
「これじゃあせっかくここに来た意味がない」
「これじゃあせっかく逃げた意味がない」
* * *
「お目覚めかな？スウィーティー」
夕日の差し込む部屋の中、ネビロスは目を覚ました。警戒する様に周りを見回すと、雑多に置かれた工具や段ボールの奥に男が居る。男は目線は手元にやったままネビロスに声を掛けて来ていた。
「おっと、怖い顔をしないでおくれ。まだ君に手は出していないさ」
スキンヘッドに上品な服を着込んでいるその男は、服でも作っているのか裁ち鋏をジョキジョキ音を立てて動かしていた。ネビロスがじろりと睨み付けると、男は肩を竦めて何が面白いのかふふふと笑った。
「僕をそんな不躾な男とお思いかい？見くびらないでくれスウィーティー。僕は愛した人には選択肢をあげる事にしているんだ。素直に僕を愛すると言う選択肢、そして僕から逃げると言う選択肢。何故って？僕から逃げる様を見るのも、それを追って捕まえるのも快感でね」
ぐしっ、と鋏が貫通する音が響く。男は手に持った巾着の様な小さな袋ごと鋏で貫いていた。男の手の中の、鋏を貫通させられた
「これかい？これは…見覚えがあるだろう？」
袋をひっくり返すとぼとぼとぼとっ！と音を立てて灰色の中身が飛び出す。ネビロスはその光景を目にした瞬間頭を押さえて痛みに声を上げた。
「おやおやスウィーティー。可愛い僕のダーリン。まあ、落ち着きたまえよ」
男は席を立つと蓄音機の傍に立ち、針を下ろす。プツッと音を立てキュルキュルとレコードの回る音が響く。その内、ムーディーなトランペットのメロディーが流れ始め、部屋に音楽が広がった。
「君が来たら一緒に聞こうと思っていた曲さ。ここには君の好きな曲、君の好きな『彼女』の服、君の好きな『彼女』の匂いのするもの、全部あるんだ。え？辛い？その為の僕なのだから当たり前だろう？」
男はふらっとネビロスに近付くと、愛おしむ様にネビロスの体に指を這わせた。
「僕のスウィーティー。
ぐっと指を押し込まれネビロスは思わず体を震わせた。あの日何があったのか、誘惑に負けて口にしようとしてしかし既のところで耐える。
「強情だな、僕のスウィーティー。身を委ね楽になってしまえば良いのに。待っているよ、スウィーティー。僕が君を締め上げるその時を…」
* * *
高い位置にある太陽から暖かな陽射しが部屋に射し込まれている。ネビロスはぼんやりする頭で少し考えたが、やがて勢いよく起き上がると大きく溜息を吐いた。
埃まみれの廃墟と化した病棟は、昼の陽射しに当てられ現実離れした雰囲気を纏っていた。
「私は……寝ていたのか…こんなところで」
枕代わりにしてしまっていたのは病人のカルテや闘病記録だ。こんなものを枕にするなんて悪夢を見そうだ。
「ふむ……」
ここはレイレント精神病院。洋館の様な趣のある棟と、白を基調にした先進医療を彷彿とさせる棟が敷地内に並んでいる廃病院だ。人体実験や薬物実験の噂がまことしやかに流れており、そんな噂が横行する最中に閉院してしまった為に今でも一部でホラースポットとして人気があった。最も機械人形が暴徒と化した今、そんなスリルは誰も求めておらずこう言った場所は潜伏するのに都合が良かった。
ネビロスは、過去に結社の資料室でこの病院に関する本を読んだ事があった。火のないところに煙は立たぬと言うが、一体病院の何がそんな噂の出火元になったか興味があった。そしていざ足を踏み入れて置き去りにされたファイルを読むに、話は単純なものだと気が付いた。
入院施設もあるこの病棟に連れ込まれるのは基本的に病状の重い患者。他者と自分の世界の境界が曖昧な者達。時に奇声は上げるし、時に暴力行為に勤しむ事もある。意味も無く自傷行為に走る事も。
しかし、スタッフはそれ程多いわけでもなく、柵の付いた中庭で患者は自由にさせられている事も多かった。その患者と運悪く間に柵一つな状態で鉢合わせてしまった人がどうも噂の大元らしい。患者の中には妄言を繰り返す者もおり、そんな彼等の発言を面白がった者もいただろう。更に運が悪い事に、この病院を慈善事業として運営していた企業が倒産したのも正に噂が激化したタイミングで、彼等は特に噂の火消しをする事なく手を引いたと言うのが真相らしい。
ネビロスはファイルを開くと患者の情報を読み上げる。
同じ治療を受けた二人の男が居て、この二人は血の繋がりも何もないにも関わらず似た様な事を口にする上によく顔を合わせるからか仲も良かったと言うので医師達から「ブラザー」と言う愛称で呼ばれて居たらしい。しかし、衛生面の観点から髪を失くし、スキンヘッドでいる様子を見るに精神を病んで似た様な格好をすれば同じ様な病状を抱えている人間同士、瓜二つにも見えて来る事もある様だ。
そして度重なる性犯罪から捕まり、その後精神病の診断を受け此処に来た患者も数多居た様だ。彼等は大まかに言うならば「依存症」として扱われた様だが内一人が特徴的で、男性への性犯罪を繰り返し捕まった男ではあるのだが、病的なまでに自己の作る世界と他者との境界が曖昧であるにも関わらず何故か他者に敬意を持って一定の感覚を空けていると言う男だった。
彼は自分に与えられたスペースで常にラジオや蓄音機から音楽を奏で、優雅に紅茶を飲んでいたらしい。看護師が食事を運べば礼儀正しくお礼を言う為、日常生活ではあまり彼に対して『病人』と言う認識を持っているスタッフは多く無かった様だ。
しかし、やはり彼も患者である事には変わりなく、男性への性的欲求と残虐性が抑え切れない時もあった。ある時、施設が停電になり空いた柵から逃げ出した彼はとうとう行きずりの男と体を重ねた末に彼を殺してしまう。現行犯で見付かり、錯乱して軍警に襲い掛かった為射殺されたと言う痛ましい事件だ。
おそらくこの病院で一番スキャンダラスな事案だったに違いない。ただし、これ以降後にも先にも事件らしい事件がない。完全に建物の雰囲気と「精神病院」と言う属性で噂に尾鰭がついたもの。
パラパラと流す様に、しかしきちんとファイルを読み込んでいたネビロスは納得した様な拍子抜けした様な気持ちでそれを閉じた。
──さてと、知りたい事は全部知れた。
ネビロスは手帳とペンを取り出すとさらさらと書いていく。そして椅子にゆっくりと乗る様に立ち上がると梁から垂らしたロープを確認する。強度を確認し、二、三回深呼吸。輪っかの部分を首に当て、ネビロスは目を瞑った。
『僕のスウィーティー。大丈夫、僕は君を愛しているよ。君を優しく包む事を約束するよ。君が下手でも、僕は咎めないさ』
この時、ネビロスは見た夢を思い出していた。夢の彼にぐっと指を押し込まれたのは、確か喉だ。
『僕のスウィーティー。身を委ね楽になってしまえば良いのに。待っているよ、スウィーティー。僕が君を締め上げるその時を…』
そうか、今がその時か。
ロープが首に軋んだその時、ネビロスは何故あんな夢を立て続けに見たのか思い出した。そして一言掠れた声で呟いた。
「ごめんなさい…」
エレジー
※センシティブな内容が含まれます「ヴォイドさんが……部屋にいません」
ミアから電話を取り、ネビロスは落ち着く様に促したのは確かだが、それでも本心から言っているに他ならなかった。
「ヴォイドが…部屋に居ない？」
『そうなんです…！お部屋の鍵が掛かってなくて…！中を覗いたら誰も居なくて…！』
「…ミア、大丈夫です。落ち着いてください。きっとヴォイドなら平気ですよ。あのヴォイドですよ？」
──ヴォイドなら平気です。ヴォイドは強い女性です。だから大丈夫。
岸壁街の最下層を生き抜いた女性。そんな彼女が何かに巻き込まれるだなんてネビロスには信じられる話でなく、聞き込みの為にユウヤミが医療班に足を運んだ時も訝しんだほどだった。
急遽発足したと言う「マルフィ結社特別捜査班」と言う名前と、連絡の取れないヴォイドとミサキ。それを掲げてやって来たユウヤミの姿にネビロスは酷く動揺した。
安否不明。それも『ただ居なくなった』と言うよりかは『事件や事故に巻き込まれた』線が濃厚だと踏んでいると言うユウヤミの言葉。ネビロスが静かに思考を巡らせていると、ボトボトボトッ！と嫌な音が脳裏に響いた。
『ネビ…ロス……ネビ…』
喉を締めたような、若い女性とも老婆とも判断のつかぬ声。
脳に直接届く音と声にネビロスが硬直していると、視界の端に足が見えた。細い細い女性の素足はゆっくりゆっくり近付いてくる。ネビロスは額に脂汗を滲ませながら瞬きもせず、かと言ってそちらを直視する事も出来ず立ち尽くした。ぴちょん、ぴちょんと何かの滴る様な音も聞こえる。
『こっちを…見て……私を…見て……』
血の滴り落ちる、腹の裂けた亡き妻の姿。それが視界の端に写った気がしてネビロスは動けなくなった。
「……大丈夫かい？」
いつの間にか近くまで来ていたユウヤミに心配されるくらいにネビロスは動揺していた。
汗の滲んだ、いつもよりも血の気の少ない青い顔でネビロスは震える様に歯をカチカチ鳴らせる。実はミアもそれに気付いてしまっていたのだが、この時のネビロスは誰に顔色の悪さを気付かれて誰に気付かれずにいたのか、そんな事はどうでも良かったし気にしていられる程の心持ちでもなかった。心の奥底から湧き上がる不安と恐怖を打ち消そうと必死だった。
ネビロスはケンズでテロの起きたあの日、亡き妻であるルミエルを直視した。
「二人とも…何だか外の様子が──っ！」
そう言って振り返った時、ルミエルは腹を裂かれ一目で致命傷と分かる血溜まりを作っていた。そして可愛い我が子は──機械人形のルーチェはついさっきまで「お母さん」と呼んで慕っていた彼女の腹を貫いていた。
「お…前……。どうし──？」
そう声を掛けるもルーチェは真っ赤に発光したその目を、あの子の持っていた無邪気さが欠片も見えなくなった目を、無機質にネビロスに向けるだけだった。たった今攻撃したルミエルの事も足で蹴って退けようとする。さっきまで母と慕った女性をゴミの様な扱いで。
「ルーチェ……お前……」
夢から醒めるにしても、なんて嫌な夢の終わりだろう。
この子は機械人形で、子宝に恵まれなかった自分達に必要だった子だ。家族を欲しがるルミエルにとって二人でしか居られない日々と言うのはきっと地獄だから。そんな日々の生活の中、少しでも自分達を慰めて欲しくて買った機械人形だ。
そんな事をしても意味が無いのも分かっている。何の生産性も無い事くらい、分かっている。
自己決定出来るだけの意思の無い機械人形を子供にだなんて、薄々分かっていた。自分達のエゴでしか無いと。プログラム上の個性と言うだけで本当は感情の無い機械人形に親の様に振る舞うだなんて、ただのままごとの延長に過ぎないと。
だけど、だけどそれでも自分達は確かに家族でいたかった。そしてそれでも自分達は確かに家族だった。例えそれが虚構であっても。
エゴの塊であってもプログラムされた自我との暮らしであっても何でも良い。家族の暮らしを夢見ていた。
そしてあたたかい夢を見た。
あんまりじゃないか。その夢の終わりがこんな光景だなんて。
女性の気配がする。ネビロスは視線をそちらに向けられない程に怯えていた。ずっとずっと呼ばれている気がする。振り返って、もしも腹から臓物を垂らした彼女だとしたらどうしたら良いのだろう？
意を決して足元にだけ視線を向ける。女性の足だ。だが、可愛らしいスニーカーを履いている足だった。
「ミア……」
ネビロスは、あからさまにホッとした様にミアの名前を呼んだ。そこに居たのはミアだった。
「ネビロスさん…？」
「…何でもないです。ところで、どうしましたか？」
「あ、いえ…作業終わったんですけど…一人だと変な事考えちゃいそうで…お話に来ちゃいました」
「…そうですか。ミアは甘えん坊ですね」
悟られない様にしないと。
余裕な顔を見せていないと。
変わらない様にしないと。
父も母も早くに亡くし、祖父母に育てられた。しかし祖父母との別れは早く、独りになったネビロスは同じ様な境遇のルミエルを愛した。だがそのルミエルは時に気性の穏やかで無い女性だった。
自分も、ルミエルも、おそらく人を愛するには不完全。機能不全と言うべきか。ネビロスは抱え込む性質であったし、ルミエルはたまに無性にネビロスを責めた。傍目に『愛はあるのか？』と思われる程に激しく憎悪の顔を見せる時がある。
それもこれも、子供を授かりにくい体が余計にそんな二人を助長している気がした。それでも、互いに愛していたし世界にたった二人だけでも良いと言うくらいには互いを想っていた。
そんな最中、機械人形を家族として迎え入れようとどちらからともなく提案した。まだ不妊治療は続ける。けれど、それとはまた別で家族を受け入れるのも良いじゃ無いかと。
そしてその夢の、最悪の終わりは──……。
「……貴方」
「…何か？クイン先生」
日頃ただでさえ目線を合わせないのに、何故かそう言う時に彼女は目敏い。ネビロスは自分の今の焦りや不安を彼女に悟られそうで必死に目を背けていた。
クイン・エリーズの、あの眠そうでいて見透かす様な目が嫌いだ。あの目に見られて内側を暴かれたら、立っていられなくなりそうだ。
やっとの思いで、糸の上に乗る様に危うい自己の保ち方をしているのに。あの目に見透かされたらそれも出来なくなりそうだ。
そんな彼女に情報をもらい、ミアと二人車でソナルトの病院に向かう。そう言えばネビロスが人前で運転をするのは結社に来て初めてだったか、運転中ミアが嬉しそうな顔でチラチラ見てくるのが少しこそばゆかった。
しかし、そんな喜びとは裏腹に頭の中で一度膨れ上がった思いはどんどん大きくなっていく。
ネビロスは今までずっとそこから視線を逸らしてきた。
それは自分の頭が作り出した幻覚か、それとも本当に死者の霊魂なのかは分からない。だが、どちらが理由であれルミエルが形作られ、前を向こうと環境を変えようと決心した時にその決意を揺るがせる様に現れる。
目を覚まし、リハビリに励んだ頃はほぼ毎日黒い影を見ていた。その後結社に就く事にし、少しずつ仕事を覚えているその間もずっと視界の端に影はいた。ネビロスはそれを最初死神の類だと信じていた。思えば、結社に来てしばらくの間顔を合わせた人は覇気の無いネビロスの姿しか見ていなかっただろう。まるで彼自身が幽霊かと思う程に正気のないネビロスの姿だ。
しかし、ミアからの好意に明確に気付いてからほんの少しだけその影の見える回数が減った事にネビロスは気が付いた。
文字通り、恋する乙女の様な目を向けるミア。
それに気付いていて少し気を持たせるではないけれど、他のメンバー以上に優しい同僚でいる時ネビロスは満ち足りていた。
ルミエルの居ない寂しさを彼女で埋めようとしたつもりは断じてない。ルミエルの代わりにとミアを見ていたつもりはない。だからきっと、本当に新たな恋としてミアを好きになってしまったのだろう。
そう気付いた頃、影の形も出現もまばらになっていた。仕事を頑張っている時にふと現れたり、頭痛として症状が現れ動けなくなったり。そうこうしている内に影はルミエルの形を取った。そしてそれはよりにもよって死の間際の彼女の姿だった。
それが霊的なもので無いと考えるなら一番分かりやすいのはストレスだ。
そうなるとどう言う時にストレスを感じるか？頭の中で考えたネビロスは、自分が前に進もうとした時だと気が付いた。
ミアの事は愛しいと思う。しかしそれを素直に表に出すと言う事は、ルミエルを忘れて新たな幸せを掴もうとしている行為に他ならないのでは無いか？そんな自分を見つめ直そうとした瞬間、ネビロスの頭は痛み、視界の端に女性の血塗れの足が見え臓物の落ちる音がした。
押し寄せる罪悪感。ルミエルの時間はもう止まってしまったのに、彼女には叶えられなかった夢があったのに、あの時一緒に死んでやれなかったばかりか自分は新たな夢の続きを見ようとしている。
裏切り者。卑劣な卑劣な裏切り行為。
狂人のフリをしていなければ保てなかったもの。それがミアからの想いによって溶けていた事には気が付いていた。ミアが自分を癒してくれる。けれど、それをルミエルへの裏切りだと認識してしまった頃からネビロスの過度な痛みは顕著に現れた。
ミアの想いを、ミアへの気持ちを受け入れ彼女に想いを告げようと思い始める少し前だ。
違う、そんなところに因果関係など無い。そう思おうとしても、実際にそう言う時に体に現れるのだ。まるで突き付けられる様に。
ミアと一緒に居ても罪悪感に駆られない時間があるとしたら、ネビロスが保護者の様にある時だ。つまり告白する前の、彼女に想われていた状態が一番安定していた。だからそれを恋人関係になった後も出来るだけキープしていた。それが誠意の無い行為であると分かっているのに。
彼女の一番隣に居られる居場所を勝ち取っておいて、ミアを保護者の様に慈しんでおきながら彼女を女性として愛する事をしない。それは大事な事だからと口でそう言い、理解のある大人を演じているだけに過ぎないとネビロスも分かっていた。ミアを想えば想う程はっきり見えてくるルミエル。そしてこんな状況を一年も二年も続けられないと言う事も分かっていた。
「ヴォイド…さん……」
病院に着くなり上擦った声をあげるミア。酸素マスクを装着し、点滴やパルスオキシメーター、心電図に繋がれて眠るヴォイドの姿は思ったよりも痛々しく、彼女の身に起きた事の重大さをより強く感じた。
聞き込みに来た時とうってかわって疲れた顔を見せているユウヤミ。彼はミアにヴォイドの事について「人工呼吸、胸骨圧迫、脱衣保温。延命の確率を上げる為に思い付くものは全部やった」と呟いた。つまり、そこまでやってやっとヴォイドはこの姿で帰って来たと言う事だ。ユウヤミの処置が一つでも欠けていたら。そう考えたネビロスの背中をゾッと恐ろしさが駆け巡る。
そして、ヴォイドの様な躊躇いのない強い女性ですら、岸壁街を生き抜いた彼女すらこんな風になってしまうのだ。見ず知らずの人の悪意が、もしもミアに向いたら？もしもミアに向いてしまったら──？
もう二度と、愛しい人を失いたくない。傷付く姿は見たくない。
目の前のヴォイドの姿をミアに置き換えてしまったネビロスから殊更血の気が引いていく。不意に耳の奥でボトボトボトッ！と何かが落ちる音が聞こえた。
幸せになればなるほど、まるで戒めの様に打ち消す何らかの行動を取らねばならない。それが自分の義務であると分かっていたじゃないか。幸せを感じたら、それを帳消しにするだけの何かを。自分が平穏な幸せを手にしてはいけないと思い知らなければならない。
そうでなくとももう自分は愛した人を失う様な目には遭いたくない。愛した人が夢を終える瞬間に立ち会いたくない。
父も母も死んだ。祖父も祖母も死んだ。ルミエルも死んだ。ルーチェも壊れた。自分が愛した人達はまるで魅入られた様に死に絡み取られてしまう。それが自分の『業』なのだと思い知っていた筈なのにまた
──ミアをこれ以上自分の受けるべき不幸に巻き込んでしまう前に、彼女を手放さねばならない。
それはまるで天啓の様にネビロスに降り注いだ言葉だった。
* * *
『──分かりましたぁ。ではー…明日ボロドゥリンさんが病院に向かう予定なのでぇ…その時についでに運転して帰って来てもらいますぅ。ボロドゥリンさん、免許お持ちですのでぇ。あ、車のキーは今日帰り次第総務部に出してって下さぁい』
「はい…分かりました…すみません、迷惑を掛けますが…」
ネビロスは頭を軽く抑えながらそう呟く様に口にした。電話の向こうで総務部のユリアはいつもの調子ではあったが、少しだけ怒った様な口調で続ける。
『いいえー。でもぉ…予算外に駐車料金も増しちゃうしぃ、どうでも免許持ちの人が行かなきゃいけないって形になっちゃうんでぇ…今後はこう言う事駄目ですよぉ？』
「はい……大丈夫です、二度とするつもりはありません……」
二度とやらない。ネビロスはそう言葉にしながらある決断に迷っていた。
『ふふ、まあどうしてもって時はしょうがないですけどねぇー。とりあえず今日はお大事にしてください、ファウストさん』
電話を切り、駅のホームに設置されたベンチに座る。すぐ横にミアも座った。
「ネビロスさん…あの……」
「…ついさっき、総務部に電話をして車を移動してもらう事にしました…。キーを渡して…明日ティーマが病院に赴くついでに運転して帰ってくれると…けれど、駐車場の延長料金も取られるし、そんな事はこれきりにしてくれと怒られてしまいました。言われなくとも、二度とやるつもりもありませんが」
ネビロスはそう言うとミアの方をチラリと見る。ミアは何か言いたげにネビロスの方を見たが、ネビロスはもう全てが悲しくて悲しくて仕方なかった。
だからそれを誤魔化す様に彼女を抱き寄せ口付けを交わす。
悟られない様にしないと。
余裕な顔を見せていないと。
変わらない様にしないと。
しかし、そんなネビロスの危うさにミアは既に気付いてしまっていた。一方でネビロスはそんな事にも気付かず、いつもの様に振る舞えたとすら思っている。
「あの、ネビロスさん！」
「はい？」
「今日は、今日は……今日は絶対絶対、泊まってってください！！」
「はい…？」
「私、今日はネビロスさんと一緒に居たいです！」
ヴォイドの痛々しい姿を見、ネビロスの様子のおかしさにも気付いたミアは前を向き、進んでいく決心を固めていた。きちんとネビロスの隣を歩ける恋人としていられる様に、大人になれる様に。
しかしネビロスは、その歪んだ現状維持を続けようとしていた。彼女が大きな一歩を踏みしめた事に気付かぬまま。
その後部屋に帰り、他愛のない会話をしながら夕飯を食べている間もネビロスの気持ちは晴れなかった。頭の中を色んな想いが渦巻いている。この問題は一朝一夕には解決しそうにない。ある一つの『やり方』を除いては。
はぁ、とミアの溜息が聞こえ、ネビロスは反射的に「どうしましたか？」と尋ねる。例え弱っていても、ミアの事に関してすぐに反応してしまう自分にネビロスは少しだけ頬を緩めた。そしてミアを甘えさせる様に撫でる。
「疲れたみたいですね…ヴォイドの姿にショックを受けていたみたいですし。もう寝ましょうか。先にシャワーいただきますね」
そうして、保護者としては百点の様な物言いをし、一人シャワールームに向かう。
「ネビロスさん…！一緒にお風呂入りましょう！！」
「駄目です」
この後、ネビロスはミアから「いつになったら一緒に背中流したり出来るんですかー？」とふにゃりと巫山戯た感じで問われ「もう少し大人になったら、ですね」と微笑み返すいつもの流れがあるだけだと思った。しかし、事態はネビロスの望まぬ方向に向かっていた。
現状維持に異様なまでに固執していたネビロス。恋人として、一大人として前に進みたいと思うミア。
「……いつになったらそう言う事も一緒に出来ますか…？」
同じ言葉ではあるが、深刻そうな声色は二人が違う方向を向いている事を表していた。
ミアには危険な目に遭って欲しくない。ルミエルはあっと言う間に奪われてしまった。幸せ、命、未来、夢。残されたのは絶望、虚無、夢の終わり、逃げ果せてしまった自分。
倫理的なものは加味せず、欲望のまま振る舞うのが許されるなら、ミアを何者とも接することの無いところに閉じ込めて安全を約束しておきたい。そんな事、叶えられない事も分かっているのだが。
しかしミアはネビロスが思っている以上に前に進みたがっている。それはネビロスが到底追い付けない様な速度に見えた。
「ミア、焦って前を向く事はありません。貴女は
「でも、それでも大人です…前線医療で仕事をする話も…慣れていこうねってもう言われ始めてます…」
「……貴女の仕事ぶりを見たスレイマンが言っていた話ですね。前線医療…過酷で責任もある仕事です。貴女はまだそんな事無理に急がなくて良いんです」
問答をする度にキリキリと頭が痛む。分かっている。彼女を人として敬っているから本当は押さえ付けるのも苦痛なのだ。でも、外に出てもしも彼女が取り返しのつかない目に遭ったら、そちらの方が苦痛でもある。
心配だと言う想い。愛していると言う想い。重過ぎて、重過ぎて、いつかミアの首を絞めてしまうのは自分なのかもしれない。
「ネビロスさん、ネビロスさんはどうして私に
その一言は、世界から音が消えたと錯覚する程の衝撃をネビロスに与え、感覚を遮断し奪っていった。
見抜かれていた。ミアには全て悟られていた。
自分が彼女を「守る対象」とする事で安心していた事を。そう言う目で見る事で、ギリギリの安寧を保っていた事を。
「……ネビロスさん、私は…ヴォイドさんの様になりたくて…」
ネビロスは、更に追い討ちを掛けられた気がしてしまった。ヴォイドの様になりたい。その意味が分からない筈は無いのにネビロスの脳裏に浮かんだのは普段の仕事をする彼女の姿では無く、病院で見た姿だった。
肌には所々汚れが見え、服も彼女の私服では無いだろう入院着。大掛かりな器具に繋がれ、口を覆うマスクからはシューシューと音が聞こえていた。あれを着せないといけない状態、それを着けないと生きていられない状態、そんなヴォイドの姿がミアと重なってしまう。
「ヴォイドの…様に…？ミア、貴女…
彼女の仕事面の話だと分かっているのに、頭は理解し切ってくれない。痛々しい、人の手を借りねば生きれなかった様なヴォイドの姿がどうしてもルミエルを彷彿とさせ、そして彼女は助からなかったのにと言うやるせ無さも今更湧いて出る。
あんな風に、恐ろしい思いをしたいのか。
そんな意味も込めて聞いてしまっていたかもしれない。
「なりたいです…」
ミアの返事にネビロスは酷く動揺した。
「大人になりたいんです…！」
「大人……」
ミアは、前に進みたいのだと言う。彼女を捕えてでも安全な場所に置いておきたいとすら願ってしまっていたネビロスにとって、それは突き放された様な感覚であった。
もう、このままで居られない。
ミアを止める事は出来ない。
いや、止めてはいけない。
彼女は前に進もうとしている。
自分とは違う。
ならばせめて、最後に君に恨まれたい。憎まれたい。時に前向きな気持ちや希望以上に生きる活力となるのは憎しみであり復讐心であると何かで読んだ──なんて、そんな事は後付けに他ならず。これは最期の自分の単なるわがままで、最低の押し付けだと分かっている。
「ミア……そんなに大人になりたいんですか。私は、貴女を俗物的なやり方で大人に出来てしまいますよ」
貴女に触れる最初の男が自分でありたかった。
貴女の初めての感覚を他の男にどうしても譲りたくなかった。
こんなやり方でも、貴女に自分と言う人間を記憶しておいてもらいたかった。
「ネビロス…さん…？」
初めて触れたミアの胸は温かくて柔らかかった。戸惑って、でも拒否をしないのを良い事に口を塞ぎ舌を捻じ込む。
片手は胸に這わせもう片方の手で太腿に触れると流石のミアも様子の違いに気付き明確な拒否を見せた。唇を、舌を噛んでも良かったのに。手で押し除けるくらいに留めるからこの子は優しい子だとネビロスは思う。
「ネ、ネビロスさん…！何で足、触ろうとして…！？」
「…足、じゃないですよ。私が本当に触れたいのはどこか。ミア、最近少し勉強してたみたいですよね。もう知らない筈、無いでしょう？」
「そんな…事…！」
体を使ってミアを逃がさない様に追い詰める。二十センチ近い体格差では容易だった。
耳元でそう囁いてやればより真っ赤になったミアは慌てた様にネビロスの肩を押した。
「で、でも…私…！」
「…今までだって散々煽って来たじゃないですか。大人になりたいのでしょう？」
「大人って…！こう言う事じゃないですよね…！？」
「こう言う事ですよ。ミア、貴女が思う程大人なんて綺麗な世界ではありません」
嘘。本当は汚いのは私だけ。
歪なのは私だけ。
ミア、ミア。貴女は綺麗な大人になれる。私はそう思う。
「で、でも…！初めてだから…大切にしたいって…！」
「ええ。だから、大切にし過ぎたかもしれません」
「ネビロスさん…本当にどうしちゃったんですか…！？何だかずっと…今日も様子が変でしたし…何かあるなら、私に出来る事ってないんですか…！」
やはり彼女には見抜かれていた。おまけにこの期に及んでまだ相手の心配をしてくれる、優しい子。
ネビロスは自分が最後まで余裕のある大人の様で居られなかった事に少し不服そうな顔を見せるも、むしろそれで良かったすらと思った。ミアに返事は返さず、その代わり彼女の服を剥ぎ取ると胸に舌を這わせた。ミアが驚いてしまったのは、ネビロスが下着まで剥ぎ取った事。今まで絶対にそんな事無かったのに。
ミアは初めての感覚に拒否とも取れない声を上げる。そして恥ずかしいのか口を手で塞いだ。
「おや…恥ずかしがらず、もっと聞かせてください」
「や…駄目です…！やっぱりこんな、駄目です…！」
「…何故？私達は恋人同士ですよ？それに、大人なんでしょう？」
体重を程々に掛けて覆い被さり、逃れられない様にしてから何度も何度も、執拗に舌で指で弄んでやれば段々とミアの声が色を纏った女のソレに変わってくる。真っ赤に染まった頬でネビロスを見るミアは美しく、もう子供では無かった。
止められない。
時は戻らない。
止める事も出来ない。
生きている限り進み続けるしか無い。
でも私には、もう進むだけの勇気が無い。
そう気付いてしまった。
「…濡れてますね」
「や、嫌…！ネビロスさん…！」
「…可愛らしいです…」
そこにも舌を這わせようと顔を近付けると今度こそミアの手は制止に掛かった。
「ネビロスさ…ん…！だめ…！」
「駄目？慣らそうかと思ってましたが…では、もう挿れてしまいましょうか…」
「え……？」
ミアの顔が青ざめた事に気が付いた。本当はそんな性急にするつもりは無かった。嫌な思いをさせたく無かったし、何度も慣らせて痛みを減らしてやるつもりだった。
でもそれではまるで『幸せな恋人』の様じゃ無いか。
自分が不幸になるべき人間だと思い出した瞬間から、それを夢見るか傍ら代償の事を考えていた。だってこんなの、幸せじゃないか。
見送ってきた彼等にはもう得られない生きている幸福を自分だけが味わって良い道理は無い。自分だけが幸せに逃げて良い道理は無い。
ぎゅうっ…と強く頭は痛み、ずっずっと足を引き摺るような音が聞こえる。
ありがとうルミエル。
君は俺にそれを気付かせてくれたんだね。
大丈夫。もう迷わない。
もう君を置いて何処かへ行かない。
「ほら…私を拒否しないで、ミア…変に暴れるとかえって痛くなりますよ…」
ネビロスはミアの拒否の手を掴むと近くにあったハンカチで動けない様に纏めてしまった。
『もしもミアに手を出したなら、私はその日の内に反射的に死に場所を決めるのだと思います』
不意にクインに言った事を思い出す。彼女はそれはそれは怒り、平手打ちすら喰らわせてきたが、今思うとやはりあれは間違いだった。
むしろそう思ったあの日の夜に決行しておけばよかった。
そうしたらミアの心に、体に傷を負わせる事も無かったのに。
「いっ……うぅっ……！」
指で慣らすこともしなければ、初めて触れてそのまま貫く様にしてしまった。
初めての痛みにミアは唇を噛んで涙を流す。ネビロスはその様子を見ていたが、その内ゆっくりと腰を動かし始める。
一回一回動く度、涙が出そうになってくる。自分の醜い醜いエゴの為にミアがこんなにも泣いている。それでも、ミアの体に自分を刻み付けたいと言う思いは止まらなかった。
貴女の心を、体を蹂躙した男をどうか恨んで欲しい。この先その男の不幸を喜べるくらいいっそ嫌いになって欲しい。
そうして、覚えていて欲しい。
愛しい愛しいミア。
「ミア……ミア…！！」
どうか覚えていて欲しい。こんなにも不誠実で最低な男の事を。
「ミア…！ミア、愛して…っ愛してます……！！」
そして、いつか他の誰かと幸せな人生を二人で歩んで行くその時まで。貴女の心を独占していたいと言う身勝手さをどうか許して欲しい。
貴女から貰えた物をこんな形でしか返せなくてごめんなさい。
ミア。貴女を、愛して──
世界が真っ白に包まれた様な感覚をネビロスは覚えている。
一瞬だけ何も無い白い世界に来た気がして周りを見ると、遠くの方で女性が立ってこちらを見ていた。ネビロスはその女性に微笑み返す。
「はぁっ……！はっ……！」
息を弾ませながらずるりと引き抜く。まるで横倒しにした瓶のコルクを抜いたみたいに、ネビロスと言う栓を失くしたミアからどろりと先程見えた世界の様な白が流れ出た。
医者が言うには限りなく子種が少ないのだと言う自分の体。なのに、出てくる物は一丁前に普通と同じ様な物で、当たり前に素人目には判断出来ない。
検査をしてやっと分かる事。
自分はこんなところまでまるで普通なフリをして平然とそこに在る。こんなにも出来損なっているのに。
「ミア……愛しています、ずっと…永遠に…」
ショックで放心状態であろうミアにそう声を掛け、念入りに唇を重ねる。彼女の体に布団を掛けるとネビロスは部屋を出て行った。
「ネビロス…さん…」
名前を呼ぶミアの声は、彼の耳には届かなかった。
* * *
「こんばんは」
残業していたクロードウィッグは突然の来訪者に眼鏡を外して目を擦った。見間違いでは無い様だ。何故か医療班のネビロス・ファストがここにいる。
「この部屋には貴方お一人ですか？」
ネビロスの問いにクロードウィッグはこくりと頷く。慣れない相手を前にするとクロードウィッグは口数が極端に減ってしまう。ネビロスはそれに気付いている様で、特に気にしない様子でクロードウィッグの机に近付くと封筒を置いた。
「それ、明日受理してほしい物です」
「……？」
「絶対に明日開けて下さい」
「え…？でも…これって…？」
「頼みますね」
有無を言わさぬ雰囲気で押し付ける様にしていくネビロス。クロードウィッグも片付けたい仕事が残っていたし、「明日開けて欲しい」と言われたので言われた通り明日開けようとそのまま机に残し、日付が変わる頃にやっと部屋に戻った。
それにしても、自分も人の事を言えた義理では無いがやけに幽霊の様な陰鬱な雰囲気の男だ。最近のネビロスは少しずつ明るくなっていた気がした。明るい朗らかそうな彼女がいた様だし、くそリア充め悔しく無いぞと涙で枕を濡らした記憶があったのでよく覚えている。その時の彼はこんなに暗く死んだ様な顔をしていなかった気がするのだが。
「……ま、いっか」
海上の青い星の映画版を鑑賞して眠りに落ちる。次の日、自分が休日だった事を昼頃思い出したクロードウィッグは急遽タイガに連絡を入れた。
昨日の夜遅く、医療班のネビロス・ファウストがやって来て「明日開けて欲しい」と茶封筒を置いて行ったから見ておいてくれと。
「……何で今頃言うかな…！？」
全くもう、本当にもう。タイガはブツブツ文句を言いながらクロードウィッグの『まるで綺麗に整頓されていないオタクの机』略して『マキオ』と呼んでいる机をガサガサと荒らす。意外にも分かるところに置いてあった目的の封筒はすぐに見つかった。
カッターを使わずとも剥がれる糊付けをされていたので手で開ける。中からネビロスの筆跡での手紙が見付かる。そこには、結社を辞める覚悟や理由が述べられていた。
「え…！？これって…辞表…！？」
タイガは顔を青くすると慌てて外へ飛び出す。ドアを開けた瞬間目の前に前線駆除班第三小隊のゼン・ファルクマンがおり、ぶつかった勢いで彼の帽子が宙を舞った。
無題
ずっと悩んでいました。
妻を目の前で失った悲しみ。
そんな状況を目の当たりにして笑みを浮かべていた異常性。
思えば幼い頃から死を見つめた人生でした。父も母も祖父も祖母も、妻や娘まで。私の愛した人は皆私より早くに逝ってしまう。
先の己の異常性とどうしても折り合いを付けたくて出した結論が『打ち消す行動を無意識に取る事』でした。
物事にバランスを付ける事で自己を保とうとしました。思えばこれは、躁と鬱が交互に起きている状態とも言えます。
良い事があれば、バランスを取る様に悪い事を求める。
私はそうしてやっと安寧を得られると。
しかしそれは違いました。全ては私の弱さでした。私は幸せになりたい。でも、なってはいけない。
彼女が見て来るのです。
彼女が私に存在をアピールしてくるのです。
ここにいるよと言う様なのです。
きっと私を恨んでいるのです。
私だけが生き残るのは、やはり間違いだったのです。
ミア。ミア。愛していました。
最後に傷付けてごめんなさい。
貴女の幸せを誰よりも祈っています。
貴女には誰よりも幸せになって欲しい。
隣に居れなくてごめんなさい。私は弱い弱い人間でしたし、逃れられない人間でした。
でも貴女の事は本当に愛していました。
会いたい、会いたい。
ミアに会いたい。
ミア 会いたい。
何故！？どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだ！？
本当に、本当にありがとうございました
妻を目の前で失った悲しみ。
そんな状況を目の当たりにして笑みを浮かべていた異常性。
思えば幼い頃から死を見つめた人生でした。父も母も祖父も祖母も、妻や娘まで。私の愛した人は皆私より早くに逝ってしまう。
先の己の異常性とどうしても折り合いを付けたくて出した結論が『打ち消す行動を無意識に取る事』でした。
物事にバランスを付ける事で自己を保とうとしました。思えばこれは、躁と鬱が交互に起きている状態とも言えます。
良い事があれば、バランスを取る様に悪い事を求める。
私はそうしてやっと安寧を得られると。
しかしそれは違いました。全ては私の弱さでした。私は幸せになりたい。でも、なってはいけない。
彼女が見て来るのです。
彼女が私に存在をアピールしてくるのです。
ここにいるよと言う様なのです。
きっと私を恨んでいるのです。
私だけが生き残るのは、やはり間違いだったのです。
ミア。ミア。愛していました。
最後に傷付けてごめんなさい。
貴女の幸せを誰よりも祈っています。
貴女には誰よりも幸せになって欲しい。
隣に居れなくてごめんなさい。私は弱い弱い人間でしたし、逃れられない人間でした。
でも貴女の事は本当に愛していました。
会いたい、会いたい。
ミアに会いたい。
ミア 会いたい。
何故！？どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだ！？
本当に、本当にありがとうございました
後編
Je ne sais pas quoi faire.
初恋は保育園の先生だった。その人個人に恋焦がれ…と言うよりかは、当たり前の様に「大人」に憧れ、本当にただ一方的に憧れを募らせた憧憬だった。
中学で初めて彼氏が出来た。それは本当に初々しい恋だった。教室で喋るのは少し恥ずかしいから端末で連絡を取り合う。でも、中学生の恋愛と言うのは得てしてクラスメイトの延長の様な恋。学校と言う日常の淡い思い出になった。
高校では年上の彼氏が出来た。皆が恋愛において色々な経験を積む中、過保護な友達と存外真面目な彼に守られる様に恋する気持ちを育んだ。キスを夢見る様なまだまだ発展途上な恋愛を経て、彼の卒業と同時に恋は溶ける様に終わりを迎えた。
そして成人を控えた今、彼 に出会って愛を知る。
彼 は恋をした誰よりも大人だった。
彼 は過去に愛した人が居た。
それでも彼 を好きになった。
初めはただただ恋する気持ちが強かった。けれど、彼に恋焦がれ抱いた気持ちは今までの何よりも違っていた。
恋しい、愛しい。それは夢を見る様に心躍らせる時間であり、同時に苦しい時間でもあった。
彼を好きになって初めて愛を知った。
そして初めて知った愛は、恋の様にただキラキラしたものではない。時に息が出来ない程苦しいものだと知った。
だけど、だけどそれでも私は、彼を愛する事をやめられないの。
* * *
「ミーアー！！」
「みーあー！！」
どんどんどん！とドアを鳴らす二人のカラフルな髪。この二人は機械人形であり、一体は調達班のミーナで彼女はひき肉の卵包みとスープを乗せたプレートを手に持っている。
もう一体はメモとペンを持ったオルカであり、ミーナの後ろで待機していた。
「あれ…？いないね？」
「いない筈ないよね？」
再度どんどんどん！と叩くと、キィと音を立てゆっくりドアが開きそこからミアが現れた。
「ミーナちゃん…オルカちゃん」
「ミア！来たよ！」
「ご飯だよ！」
カンテ国はテロの一件から機械人形の一人歩きは危険視されてしまい、元々推奨されていないものではあったが今は人間が一緒であっても外歩きをしている機械人形すらなかなか見ない。
しかし、マルフィ結社は機械人形推進派であり敷地内ならば好きに歩き回れる為ミーナとオルカの二人は機械人形だけでミアの部屋に来ていた。
「ありがとう、二人とも」
少し元気無さげにミアが会釈する。機械人形にそう言う人の見方があるかは分からないが、オルカもミーナも二人揃ってそんな彼女をじっと見ると顔を見合わせる。そしてミーナが口を開いた。
「…ミア、どうしたの？」
「え？」
「いつものミアじゃ無いみたい」
ネビロスとのトラブルから二日。ミアは仕事を休んで部屋に引きこもっていた。
明日は医療班に新しいメンバーが加わるとも聞いていた。本当は明日には元気な顔を出して自己紹介をして、その人が早く慣れる様に一緒に仕事をしたら良いと思うのに。
仕事をする自分の姿を思い浮かべる。仕事をする部屋を思い浮かべる。そこにはアキヒロやアペルピシアら医師達が居て、その周りには自分達の様な一般職のメンバーが居て。
しかし、現実に今そこにヴォイドが居ない。彼女はまだ入院していて、あの痛ましい姿は記憶に新しい。
そして、ネビロスが居ない。
ミアの瞳から生気が無くなる。そんな彼女の目を無遠慮に覗き込んだオルカは、ミーナに向き直ると「僕分かんない」と呟いた。
「人間って何を見て元気かそうで無いかとか判断するの？瞳孔の開き具合？そこで判断するの？」
「総合的に、だよ。でも、人間にしか気付けない『空気』って言うのもあるってボク聞いた事あるよ」
「えー？僕はそんなの知らないよー？」
「それはオルカがアップデート不足なんだよ」
そんな話をしてる間に、ミアは食事のプレートを受け取るとオルカとミーナの頭を撫でた。
「二人とも、ありがとう」
「…ミア」
「何かミア、本当にミアじゃ無いみたい」
「そ、そうかな？私はいつも通りに──…」
いつも通り、なんてあるわけない。愛しい人が居なくなって、なのに誰も動いてくれる様子も無くて。何で？どうして？ミサキちゃんとヴォイドさんの時にはすぐに動いてくれたのに？ミサキちゃんが未成年だったから？そう比較してしまう自分が嫌だ。今日、これで何回、ネビロスと二人を比較して自分を責めただろうか。
ミアはふっと暗い顔を見せる。しかし瞬時に笑顔を作るとミーナとオルカを見送った。
部屋から出ない間、調達班が食事を届けてくれる。しかも、必ず女性か機械人形が。おそらく気を遣ってもらっている。
ミアは込み上げてくる涙を止められず、その場でしゃくり上げて泣いた。どうしたら良いか分からない。今どう言う状況になっているのかも分からない。何より、彼がどこに行ってしまったのかも分からない。彼が何を考えていたのかも分からない。彼が今どうしているのかも分からない。あんなに悲しそうな顔をしていたのに、もしかしたら今もまだ一人で悩んでいるの？傍に居たいのに。
── ミア…！ミア、愛して…っ愛してます……！！
「…ネビロスさん…！！」
私も、好きです。
苦しくて喋る余裕が無くて、言えなかった気持ち。
苦痛に顔を歪め苦悶の声を上げながら彼を見た時、彼が不思議な表情をしていたのをミアは思い出していた。
泣きそうな、嬉しそうな、苦しそうな、気持ち良さそうな。
でも、一つ覚えているのは、真っ直ぐ自分だけを見つめていた事。そしてその目は、何かを訴えたくても言えない様な、抱えているものがある様な目だった。
嫌な予感がする。だけど、置いて行かれた自分に果たしてこれ以上何が出来ると言うのか。ネビロスの話を聞いて彼の事を助けてあげたいと思う反面、これ以上どうする事も出来ないだろうと言う諦めの気持ちもある。
「……はぁ…」
ミアはカチャリと音を立ててスプーンでスープを掬った。自分以外誰も居ない部屋にスプーンの無機質な音はよく響いた。
「失礼します。ミア、食べてます？」
クロエの声が響き、ミアは少しだけ顔色の明るくなった顔で彼女を見た。あの日一緒に病院に同行し今回の件を全部把握しているであろうクロエだが相も変わらず彼女はいつも通りだった。
「クロエちゃん！食べてるよ！」
「そうですか…薬が出てますしちゃんと食べれてるか心配してましたが」
「本当？ありがとう！大丈夫！私、こんな時でも食欲は止まらないみたいなんだよねー」
少し無理をしながらミアは明るく振る舞う。しかし、クロエにそれを隠し通すのは難しい。そんな事ミアも分かっていた。
「ミア…これからの事ですが…」
「あ、ごめんごめん！大丈夫！もう明日からはお仕事復帰します！心配掛けてごめんね！大丈夫！今まで通り、何も変わらないよ！私はちゃんと結社のメンバーとしてお仕事するから！」
「え？ミア…あの…」
「大丈夫大丈夫！ただでさえヴォイドさんが入院しちゃって医療班のメンバー足りないもんね！前線はユウヤミさんが第六の指示出しててそれが的確で怪我人が少なかったって聞いたけど、そのユウヤミさんも今お休みしてるし怪我人増えちゃうかもしれないもんね！」
「ミア…」
クロエの言葉を遮る様に、ネビロスの事に触れない様に。世界からネビロスを切り抜く様にしながらミアは言葉を選びつつ口にした。
しかし悲しいかな、クロエはそのネビロスの事を話したかった様であり、ミアの努力は泡と消える。
「ネビロス氏の事です」
「………え？」
「ネビロス氏の事です」
「ネビ、ロス……さん」
「はい…ネビロス氏は、エル先生にメールで医療班から去る旨を伝えたそうです。と言うか、結社自体を。もう人事部にも辞表を出したとそこには書かれていたみたいです。まだ確認は取れてませんが」
「辞表……」
「…ネビロス氏は、ヴォイド氏やミサキ氏と違い男性で大人です。それに何より、居なくなった経緯に事件性がまるで無い。自らの意思で辞めると言う証拠たる書類も提出してしまっていますし、今回の事はミアの名誉にも関わると言う理由から表沙汰にならない様皆が気を付けています。なので、色々照らし合わせてどんなに大事にしてもネビロス氏は『恋人とトラブルになり自ら結社を去った』と言う事にしかならないんです」
「………」
彼は、ここで出来た全てを捨てて違うところに行ったのだ。自分を置いてでも行きたかったところがあるのだと突き付けられたようで、ショックを受けたミアは黙ってしまう。そんな彼女にとっては今のクロエの言葉すらとても無慈悲なものに聞こえてしまった。
「ミア、ヴォイド氏やミサキ氏を救い出す為に動いた大人達は皆今動けません。入院や事情聴取もあって動ける状態ではありません。なので、その辺りの力を借りて彼を探すのは無理です。だからこの際、被害届を出しましょう」
「…被害届……？」
「乱暴されたのはミアです。病院で検査もして医師はネビロス氏の体液の確認もしています。こちらは証拠が揃ってるんです。だからネビロス氏を婦女暴行の容疑者として扱うんです。そう言う形なら、きっと警察が彼を探してくれます」
クロエの提案は、ネビロスを婦女暴行容疑の被疑者として追うと言うものだった。確かに、今の状況ではそうでもしないと彼には辿り着けないかもしれない。
置いて行かれたと言う事実を突きつけられ、打ちのめされて、彼が抱えていたものも分からず、癒してあげる事もできず、終いには此方の都合だけで色々確認したいから、彼に会いたいと言う要求の手段の為に彼を犯罪者に仕立て上げて探そうと言うのか。
ミアはふっと声を上げて笑う。それはミアらしからぬやさぐれた笑みだった。
「…ネビロスさんに、これ以上わがまま言いたくない…」
「ミア？」
「……ネビロスさんがそこまでして出て行ったんだよ？もう結社での何もかもが嫌になったのかも。誰か別の人と新しい人生を始めたくなったのかも。そんな事考えるのただでさえ嫌なのに、置いて行かれたって事実を受け止めるだけでも大変なのに、ネビロスさんの気持ちを聞きたいって私のわがままで更に彼を犯罪者にまで仕立て上げて追い掛けるの…？」
「ミア…でも、結果としてそうした方がおそらく、発見は早いですし──」
「──やめてよ…！！それで見付かってネビロスさんの隣にこれまでの事何も知らない誰かが居たら…！？その人ともしも新しい暮らしをしたがってたとしたら！？例えばそれが男の人でも女の人でも、保護者でも何でも、全て捨てたいと思ったネビロスさんの事を善意で受け止めた人が居たら！？その人の想いも無視して連れ帰るの！？ネビロスさんを悪い人みたく言いふらすのも嫌だし、もし本当にそんな人と新しく生活を始めてたらそんなの邪魔するみたいで嫌だよ！！」
目に涙を溜めてミアはそう口にする。およそ彼女らしくない、怒気を含んだ声だった。しかし、据わった目でしばらくそれを眺めていたクロエだったが、呆れた様に溜息を吐くと「前から言いたい事があったんですけど」と勿体ぶった様な前置きを口にした。
「……ネビロス氏と、本当はどうなりたかったんですか？ミアは。恋人って立場になってからも私には偶に二人が対等の存在には見えなくなる事がありました。本当に大人と子供、保護者と被保護者の様で。思えば今回も、ミアはネビロス氏の事は言いますが『自分がどうしたいか』を言っていない気がします。ミアはどうしたいんですか？」
「私…？」
「そうです。私はネビロス氏の事なんざこの際どうでも良いです。ミアがどうしたいんです？いつも『迷惑掛けたくない』とか、そうやって我慢してるじゃないですか」
ネビロスへの気遣いを、クロエから「対等じゃない」「我慢しているだけ」と言う言葉で捩じ伏せられた様でミアは悲しくなった。親友だと思うからクロエにはそんな突き放す様な事言って欲しくなかったのに。ミアの口は、気付けば自分でも嫌になるそんな言葉を紡いでいた。
「…クロエちゃんに何が分かるの？」
「は？」
「迷惑掛けたくないって言うのも、我慢してたのも確かだよ……だって、好きなんだもん！傷付けたくないんだもん！一緒にいて嫌な思いして欲しくないんだもん！ネビロスさんの事、私なりに気遣ってたの！お付き合いしてく中で頑張ってたの！それしか分からなかったの！それで上手くやれてたのに…何でクロエちゃん、それが『いけない』みたいに言うの！？」
「誰が『いけない』なんて言いましたか」
「そう聞こえるよ！クロエちゃん…今は責めないで欲しいよ…！！」
「じゃあ何ですか、このまま有耶無耶にしてヤリ逃げさせて、アンタそれで良いんスか！？」
「そんな言い方しないで！！」
きっと何かが、違う。
多分、ミアはクロエの言いたい事の半分も伝わっていないと気付いていたし、クロエもミアの気持ちが半分も見えていない事にも気付いていた。
焦って焦って、今は互いに互いを理解する気持ちが欠けている。その事には二人とも気が付いていた。
「………」
先に動いたのはクロエだった。何も言わずに踵を返すと、部屋を出て行ってしまう。ミアはそれを見届けて、でも何を言うのが正解か分からずただただ泣くしかなかった。
泣いて食べるご飯は美味しくない。
そのまま飲んだ薬も当然美味しくない。
「んっ……うぅっ……うわぁぁぁぁあんっ！！」
いつもこう言う時、ネビロスが胸を貸してくれて、優しく慰めてくれていた事を思い出した。悲しい時、辛い時、ネビロスは優しく抱き締めてくれて、話を聞いてくれた。
時にはクロエが傍に居てくれた事もあった。何も言わず、ただ黙って傍に居てくれる。
──ああ、二人がいなくなったら私は途端に弱くなってしまった。ミアは目に絶望の色を浮かべる。私は一人じゃ何も出来ない。ただただ貴方 が愛しいと泣き、ただただ貴女 に甘えたいと泣き。そんな事ではいけないと思うのに、前に進むと決めたのに。
ただただどうにも出来ない、何がしたいか上手く言えない、そんな自分を抱き締めてやる事も出来ず涙を流しているしかない。
ミアは一人残った部屋でしゃくりあげながらそんな事を考え、そしてまた大きく声を上げて泣いた。
* * *
「…はぁ……」
アペルピシアは今日何度目か分からない、やり切れない思いを溜息と共に吐いた。横で見ていたクインも同じ様な感情を目線に乗せて、そうして彼女の端末を盗み見る。
「あの男、用意周到だったわね」
「色々偶然はあるんでしょうけど…こればっかりはどうにも出来ないわ…」
アペルピシアに送った個人的なメッセージ。そこには、忙しい医療班を抜けて申し訳ないと言う謝罪と結社を辞める旨が記されていた。結社を辞めると言う事に関しては、人事部に辞表を出したとも。
ミアの事を考えれば、何よりネビロス自身の為にも彼をちゃんと治療せねばならない。そう思っていたのに、何が彼の引き金になったのか彼は一線を超え結社から出て行った。もしもユウヤミが、ロードが、テオフィルスがヴォイドやミサキの時の様に動ければすぐにでも彼を探してくれと個人的に お願いしていただろう。しかし、今彼らは動ける状態ではない。
結果として見ればこの状況は、成人した男性がただ結社から居なくなっただけ。
しかも辞表もちゃんと提出しているし、辞めると言う意味では段取りも踏んでいる。そんな彼を探してくれと言っても警察は動かないだろうし、かと言って「女性を暴行した」と言うのはミアの事を公にしなければならないし、何より彼女が彼を犯罪者の様に扱って探す事を良しとしないだろう。
手詰まり。一言で言うとそんな感じだ。
しかし、アペルピシアはそれで終わらせてはいけないと言う予感も感じていた。ただ、そう思ったとして、これ以上動きようがない。
「被害者って言うのがいるとしたら、ミアになるのね」
「なるけど、彼女の名誉の為にもこの件は伏せなければならないわ。何より本当にプライベートな恋人間のトラブルってだけだもの…現時点で」
「そしてあの朴念仁は結社を辞めた…分かりやすく『これ以上刺激してはならない』な事例ではあるわね」
「でも…これで終わらせちゃいけない気がするのよ…」
しかし、打つ手がない。
アペルピシアは患者が来た事で呼ばれ、部屋を出て行った。クインは現状を把握しようと状況を整理してみる。しかし、ネビロスが「痴情の絡れで出て行った」以上の何かを探し出せる筈もなく、彼女もその内考えるのを辞めてしまった。
事件性は無い。
カンテ国で他にも様々な事件が起きている日々の中、「悪い予感がするから」で自発的に出て行ったと言う以上疑わしいところのない男性を探してくれと頼むのは無理な話だった。
それを聞き届けてくれそうな探偵は、フットワークの軽い人間は、諸々の都合で今動ける状態に無い。そしてそれを頼むとしたら、彼等にミアの事も話さなければならない。
大人として手順を踏もうと思ったら、本当にこれ以上動く事が難しい話だと思った。
中学で初めて彼氏が出来た。それは本当に初々しい恋だった。教室で喋るのは少し恥ずかしいから端末で連絡を取り合う。でも、中学生の恋愛と言うのは得てしてクラスメイトの延長の様な恋。学校と言う日常の淡い思い出になった。
高校では年上の彼氏が出来た。皆が恋愛において色々な経験を積む中、過保護な友達と存外真面目な彼に守られる様に恋する気持ちを育んだ。キスを夢見る様なまだまだ発展途上な恋愛を経て、彼の卒業と同時に恋は溶ける様に終わりを迎えた。
そして成人を控えた今、
それでも
初めはただただ恋する気持ちが強かった。けれど、彼に恋焦がれ抱いた気持ちは今までの何よりも違っていた。
恋しい、愛しい。それは夢を見る様に心躍らせる時間であり、同時に苦しい時間でもあった。
彼を好きになって初めて愛を知った。
そして初めて知った愛は、恋の様にただキラキラしたものではない。時に息が出来ない程苦しいものだと知った。
だけど、だけどそれでも私は、彼を愛する事をやめられないの。
* * *
「ミーアー！！」
「みーあー！！」
どんどんどん！とドアを鳴らす二人のカラフルな髪。この二人は機械人形であり、一体は調達班のミーナで彼女はひき肉の卵包みとスープを乗せたプレートを手に持っている。
もう一体はメモとペンを持ったオルカであり、ミーナの後ろで待機していた。
「あれ…？いないね？」
「いない筈ないよね？」
再度どんどんどん！と叩くと、キィと音を立てゆっくりドアが開きそこからミアが現れた。
「ミーナちゃん…オルカちゃん」
「ミア！来たよ！」
「ご飯だよ！」
カンテ国はテロの一件から機械人形の一人歩きは危険視されてしまい、元々推奨されていないものではあったが今は人間が一緒であっても外歩きをしている機械人形すらなかなか見ない。
しかし、マルフィ結社は機械人形推進派であり敷地内ならば好きに歩き回れる為ミーナとオルカの二人は機械人形だけでミアの部屋に来ていた。
「ありがとう、二人とも」
少し元気無さげにミアが会釈する。機械人形にそう言う人の見方があるかは分からないが、オルカもミーナも二人揃ってそんな彼女をじっと見ると顔を見合わせる。そしてミーナが口を開いた。
「…ミア、どうしたの？」
「え？」
「いつものミアじゃ無いみたい」
ネビロスとのトラブルから二日。ミアは仕事を休んで部屋に引きこもっていた。
明日は医療班に新しいメンバーが加わるとも聞いていた。本当は明日には元気な顔を出して自己紹介をして、その人が早く慣れる様に一緒に仕事をしたら良いと思うのに。
仕事をする自分の姿を思い浮かべる。仕事をする部屋を思い浮かべる。そこにはアキヒロやアペルピシアら医師達が居て、その周りには自分達の様な一般職のメンバーが居て。
しかし、現実に今そこにヴォイドが居ない。彼女はまだ入院していて、あの痛ましい姿は記憶に新しい。
そして、ネビロスが居ない。
ミアの瞳から生気が無くなる。そんな彼女の目を無遠慮に覗き込んだオルカは、ミーナに向き直ると「僕分かんない」と呟いた。
「人間って何を見て元気かそうで無いかとか判断するの？瞳孔の開き具合？そこで判断するの？」
「総合的に、だよ。でも、人間にしか気付けない『空気』って言うのもあるってボク聞いた事あるよ」
「えー？僕はそんなの知らないよー？」
「それはオルカがアップデート不足なんだよ」
そんな話をしてる間に、ミアは食事のプレートを受け取るとオルカとミーナの頭を撫でた。
「二人とも、ありがとう」
「…ミア」
「何かミア、本当にミアじゃ無いみたい」
「そ、そうかな？私はいつも通りに──…」
いつも通り、なんてあるわけない。愛しい人が居なくなって、なのに誰も動いてくれる様子も無くて。何で？どうして？ミサキちゃんとヴォイドさんの時にはすぐに動いてくれたのに？ミサキちゃんが未成年だったから？そう比較してしまう自分が嫌だ。今日、これで何回、ネビロスと二人を比較して自分を責めただろうか。
ミアはふっと暗い顔を見せる。しかし瞬時に笑顔を作るとミーナとオルカを見送った。
部屋から出ない間、調達班が食事を届けてくれる。しかも、必ず女性か機械人形が。おそらく気を遣ってもらっている。
ミアは込み上げてくる涙を止められず、その場でしゃくり上げて泣いた。どうしたら良いか分からない。今どう言う状況になっているのかも分からない。何より、彼がどこに行ってしまったのかも分からない。彼が何を考えていたのかも分からない。彼が今どうしているのかも分からない。あんなに悲しそうな顔をしていたのに、もしかしたら今もまだ一人で悩んでいるの？傍に居たいのに。
── ミア…！ミア、愛して…っ愛してます……！！
「…ネビロスさん…！！」
私も、好きです。
苦しくて喋る余裕が無くて、言えなかった気持ち。
苦痛に顔を歪め苦悶の声を上げながら彼を見た時、彼が不思議な表情をしていたのをミアは思い出していた。
泣きそうな、嬉しそうな、苦しそうな、気持ち良さそうな。
でも、一つ覚えているのは、真っ直ぐ自分だけを見つめていた事。そしてその目は、何かを訴えたくても言えない様な、抱えているものがある様な目だった。
嫌な予感がする。だけど、置いて行かれた自分に果たしてこれ以上何が出来ると言うのか。ネビロスの話を聞いて彼の事を助けてあげたいと思う反面、これ以上どうする事も出来ないだろうと言う諦めの気持ちもある。
「……はぁ…」
ミアはカチャリと音を立ててスプーンでスープを掬った。自分以外誰も居ない部屋にスプーンの無機質な音はよく響いた。
「失礼します。ミア、食べてます？」
クロエの声が響き、ミアは少しだけ顔色の明るくなった顔で彼女を見た。あの日一緒に病院に同行し今回の件を全部把握しているであろうクロエだが相も変わらず彼女はいつも通りだった。
「クロエちゃん！食べてるよ！」
「そうですか…薬が出てますしちゃんと食べれてるか心配してましたが」
「本当？ありがとう！大丈夫！私、こんな時でも食欲は止まらないみたいなんだよねー」
少し無理をしながらミアは明るく振る舞う。しかし、クロエにそれを隠し通すのは難しい。そんな事ミアも分かっていた。
「ミア…これからの事ですが…」
「あ、ごめんごめん！大丈夫！もう明日からはお仕事復帰します！心配掛けてごめんね！大丈夫！今まで通り、何も変わらないよ！私はちゃんと結社のメンバーとしてお仕事するから！」
「え？ミア…あの…」
「大丈夫大丈夫！ただでさえヴォイドさんが入院しちゃって医療班のメンバー足りないもんね！前線はユウヤミさんが第六の指示出しててそれが的確で怪我人が少なかったって聞いたけど、そのユウヤミさんも今お休みしてるし怪我人増えちゃうかもしれないもんね！」
「ミア…」
クロエの言葉を遮る様に、ネビロスの事に触れない様に。世界からネビロスを切り抜く様にしながらミアは言葉を選びつつ口にした。
しかし悲しいかな、クロエはそのネビロスの事を話したかった様であり、ミアの努力は泡と消える。
「ネビロス氏の事です」
「………え？」
「ネビロス氏の事です」
「ネビ、ロス……さん」
「はい…ネビロス氏は、エル先生にメールで医療班から去る旨を伝えたそうです。と言うか、結社自体を。もう人事部にも辞表を出したとそこには書かれていたみたいです。まだ確認は取れてませんが」
「辞表……」
「…ネビロス氏は、ヴォイド氏やミサキ氏と違い男性で大人です。それに何より、居なくなった経緯に事件性がまるで無い。自らの意思で辞めると言う証拠たる書類も提出してしまっていますし、今回の事はミアの名誉にも関わると言う理由から表沙汰にならない様皆が気を付けています。なので、色々照らし合わせてどんなに大事にしてもネビロス氏は『恋人とトラブルになり自ら結社を去った』と言う事にしかならないんです」
「………」
彼は、ここで出来た全てを捨てて違うところに行ったのだ。自分を置いてでも行きたかったところがあるのだと突き付けられたようで、ショックを受けたミアは黙ってしまう。そんな彼女にとっては今のクロエの言葉すらとても無慈悲なものに聞こえてしまった。
「ミア、ヴォイド氏やミサキ氏を救い出す為に動いた大人達は皆今動けません。入院や事情聴取もあって動ける状態ではありません。なので、その辺りの力を借りて彼を探すのは無理です。だからこの際、被害届を出しましょう」
「…被害届……？」
「乱暴されたのはミアです。病院で検査もして医師はネビロス氏の体液の確認もしています。こちらは証拠が揃ってるんです。だからネビロス氏を婦女暴行の容疑者として扱うんです。そう言う形なら、きっと警察が彼を探してくれます」
クロエの提案は、ネビロスを婦女暴行容疑の被疑者として追うと言うものだった。確かに、今の状況ではそうでもしないと彼には辿り着けないかもしれない。
置いて行かれたと言う事実を突きつけられ、打ちのめされて、彼が抱えていたものも分からず、癒してあげる事もできず、終いには此方の都合だけで色々確認したいから、彼に会いたいと言う要求の手段の為に彼を犯罪者に仕立て上げて探そうと言うのか。
ミアはふっと声を上げて笑う。それはミアらしからぬやさぐれた笑みだった。
「…ネビロスさんに、これ以上わがまま言いたくない…」
「ミア？」
「……ネビロスさんがそこまでして出て行ったんだよ？もう結社での何もかもが嫌になったのかも。誰か別の人と新しい人生を始めたくなったのかも。そんな事考えるのただでさえ嫌なのに、置いて行かれたって事実を受け止めるだけでも大変なのに、ネビロスさんの気持ちを聞きたいって私のわがままで更に彼を犯罪者にまで仕立て上げて追い掛けるの…？」
「ミア…でも、結果としてそうした方がおそらく、発見は早いですし──」
「──やめてよ…！！それで見付かってネビロスさんの隣にこれまでの事何も知らない誰かが居たら…！？その人ともしも新しい暮らしをしたがってたとしたら！？例えばそれが男の人でも女の人でも、保護者でも何でも、全て捨てたいと思ったネビロスさんの事を善意で受け止めた人が居たら！？その人の想いも無視して連れ帰るの！？ネビロスさんを悪い人みたく言いふらすのも嫌だし、もし本当にそんな人と新しく生活を始めてたらそんなの邪魔するみたいで嫌だよ！！」
目に涙を溜めてミアはそう口にする。およそ彼女らしくない、怒気を含んだ声だった。しかし、据わった目でしばらくそれを眺めていたクロエだったが、呆れた様に溜息を吐くと「前から言いたい事があったんですけど」と勿体ぶった様な前置きを口にした。
「……ネビロス氏と、本当はどうなりたかったんですか？ミアは。恋人って立場になってからも私には偶に二人が対等の存在には見えなくなる事がありました。本当に大人と子供、保護者と被保護者の様で。思えば今回も、ミアはネビロス氏の事は言いますが『自分がどうしたいか』を言っていない気がします。ミアはどうしたいんですか？」
「私…？」
「そうです。私はネビロス氏の事なんざこの際どうでも良いです。ミアがどうしたいんです？いつも『迷惑掛けたくない』とか、そうやって我慢してるじゃないですか」
ネビロスへの気遣いを、クロエから「対等じゃない」「我慢しているだけ」と言う言葉で捩じ伏せられた様でミアは悲しくなった。親友だと思うからクロエにはそんな突き放す様な事言って欲しくなかったのに。ミアの口は、気付けば自分でも嫌になるそんな言葉を紡いでいた。
「…クロエちゃんに何が分かるの？」
「は？」
「迷惑掛けたくないって言うのも、我慢してたのも確かだよ……だって、好きなんだもん！傷付けたくないんだもん！一緒にいて嫌な思いして欲しくないんだもん！ネビロスさんの事、私なりに気遣ってたの！お付き合いしてく中で頑張ってたの！それしか分からなかったの！それで上手くやれてたのに…何でクロエちゃん、それが『いけない』みたいに言うの！？」
「誰が『いけない』なんて言いましたか」
「そう聞こえるよ！クロエちゃん…今は責めないで欲しいよ…！！」
「じゃあ何ですか、このまま有耶無耶にしてヤリ逃げさせて、アンタそれで良いんスか！？」
「そんな言い方しないで！！」
きっと何かが、違う。
多分、ミアはクロエの言いたい事の半分も伝わっていないと気付いていたし、クロエもミアの気持ちが半分も見えていない事にも気付いていた。
焦って焦って、今は互いに互いを理解する気持ちが欠けている。その事には二人とも気が付いていた。
「………」
先に動いたのはクロエだった。何も言わずに踵を返すと、部屋を出て行ってしまう。ミアはそれを見届けて、でも何を言うのが正解か分からずただただ泣くしかなかった。
泣いて食べるご飯は美味しくない。
そのまま飲んだ薬も当然美味しくない。
「んっ……うぅっ……うわぁぁぁぁあんっ！！」
いつもこう言う時、ネビロスが胸を貸してくれて、優しく慰めてくれていた事を思い出した。悲しい時、辛い時、ネビロスは優しく抱き締めてくれて、話を聞いてくれた。
時にはクロエが傍に居てくれた事もあった。何も言わず、ただ黙って傍に居てくれる。
──ああ、二人がいなくなったら私は途端に弱くなってしまった。ミアは目に絶望の色を浮かべる。私は一人じゃ何も出来ない。ただただ
ただただどうにも出来ない、何がしたいか上手く言えない、そんな自分を抱き締めてやる事も出来ず涙を流しているしかない。
ミアは一人残った部屋でしゃくりあげながらそんな事を考え、そしてまた大きく声を上げて泣いた。
* * *
「…はぁ……」
アペルピシアは今日何度目か分からない、やり切れない思いを溜息と共に吐いた。横で見ていたクインも同じ様な感情を目線に乗せて、そうして彼女の端末を盗み見る。
「あの男、用意周到だったわね」
「色々偶然はあるんでしょうけど…こればっかりはどうにも出来ないわ…」
アペルピシアに送った個人的なメッセージ。そこには、忙しい医療班を抜けて申し訳ないと言う謝罪と結社を辞める旨が記されていた。結社を辞めると言う事に関しては、人事部に辞表を出したとも。
ミアの事を考えれば、何よりネビロス自身の為にも彼をちゃんと治療せねばならない。そう思っていたのに、何が彼の引き金になったのか彼は一線を超え結社から出て行った。もしもユウヤミが、ロードが、テオフィルスがヴォイドやミサキの時の様に動ければすぐにでも彼を探してくれと
結果として見ればこの状況は、成人した男性がただ結社から居なくなっただけ。
しかも辞表もちゃんと提出しているし、辞めると言う意味では段取りも踏んでいる。そんな彼を探してくれと言っても警察は動かないだろうし、かと言って「女性を暴行した」と言うのはミアの事を公にしなければならないし、何より彼女が彼を犯罪者の様に扱って探す事を良しとしないだろう。
手詰まり。一言で言うとそんな感じだ。
しかし、アペルピシアはそれで終わらせてはいけないと言う予感も感じていた。ただ、そう思ったとして、これ以上動きようがない。
「被害者って言うのがいるとしたら、ミアになるのね」
「なるけど、彼女の名誉の為にもこの件は伏せなければならないわ。何より本当にプライベートな恋人間のトラブルってだけだもの…現時点で」
「そしてあの朴念仁は結社を辞めた…分かりやすく『これ以上刺激してはならない』な事例ではあるわね」
「でも…これで終わらせちゃいけない気がするのよ…」
しかし、打つ手がない。
アペルピシアは患者が来た事で呼ばれ、部屋を出て行った。クインは現状を把握しようと状況を整理してみる。しかし、ネビロスが「痴情の絡れで出て行った」以上の何かを探し出せる筈もなく、彼女もその内考えるのを辞めてしまった。
事件性は無い。
カンテ国で他にも様々な事件が起きている日々の中、「悪い予感がするから」で自発的に出て行ったと言う以上疑わしいところのない男性を探してくれと頼むのは無理な話だった。
それを聞き届けてくれそうな探偵は、フットワークの軽い人間は、諸々の都合で今動ける状態に無い。そしてそれを頼むとしたら、彼等にミアの事も話さなければならない。
大人として手順を踏もうと思ったら、本当にこれ以上動く事が難しい話だと思った。
On n'a qu'une vie
クロエが部屋を出てわずか数十分後、ミアの部屋のドアを誰かが叩く。涙と鼻水塗れの自分の顔に気付き、ミアは慌てて一度顔を洗いに行くと何事も無かったかの様に玄関に向かった。
「は、はーい…？」
「あ、ミア？ボクだよー」
「テディ？」
ガチャリとドアを開ければ一つに緩く三つ編みにした珍しくパンツルックなテディがそこに居た。彼の性別を考えればスカートで無くパンツと言うのはむしろ自然な気がするのだが、ミアは思わず「珍しいね！」と声を上げた。
「可愛い！テディ細いからパンツ履くと締まって見えるね！」
「ありがとー。まあ、ボク細いからさっ！」
おっと、こんな話をしに来たんじゃ無いや。テディは一言そう言うとミアの顔を見ながら少し考え、そしてにっこり笑った。
「ちょっとお話しない？」
「お話？」
「うん、ボクとお話」
そう言われたミアは部屋の中を見回して、そして思考を巡らせる。
部屋の中は綺麗。だからテディを部屋に入れても問題ない。しかし、テディは男の子。女の子みたいな格好をしているから気にしていなかったけど、テディは男の子。
「ねぇミア、外行こうよ」
「え？外？」
「うん、偶には外でお話しよー？別にサボってるわけじゃないし良いでしょ？お休みの日に外で友達とお喋りくらいさ」
「そ、それは…うん…」
「じゃあ決まり！」
ミアの手を優しく握るテディ。普段意識しないのに、彼の手はやはり何だかんだ男性の手でミアは一瞬どきりとした。
テディの手、やっぱり男の子だね。そう思ったが、もしもテディの好きな対象が男性だったら、彼自身の男性らしさを強調する様な事を言われたら何だか少しやりきれない気持ちにさせるのではないかと言葉を飲み込む。
もしもネビロスが居なくなった理由に考え無しの自分の言葉が気に障ったからと言うのがあったとしたら。今まで気にせず接して来たミアだったが、急に「気遣い」に対する答えが分からなくなり言葉少なになってしまった。
「はい！到着ー！」
中庭のベンチにミアを座らせると自分も横にすとんと腰を下ろすテディ。ミアが黙って表情だけでも笑顔を見せていると、テディは
「ぶっちゃけた話して良い？」
と呟いた。
「ネビロスってさ、どこ行っちゃったの？」
いきなりの直球過ぎる問いにミアは張り付いた笑顔のまま黙ってしまう。相槌すら返せずにいたが、テディはお構いなしに質問を続けた。
「…ネビロス、ずっと医療班に居ないみたいなんだけど…仕事で顔出しても部屋に居ないしさ」
「ああ…うん」
「ねぇ。ネビロス、休み取ってるだけってわけじゃないよね？」
「多分…ごめんね？私もよく分かってなくて…」
仮にも恋人だと言うのにこの返しはどうだろう？そう思いつつミアは分かる範囲で言葉を紡いだ。テディがどこまで知っているか分からないので、あくまで当たり障りなく。しかし、テディの心配そうな目を見ていたミアは中途半端に隠す事が出来ず、テディに伝えられる範囲で喋ってしまった。
ネビロスの様子が急におかしくなった事。
原因の一因が自分かもしれない事。
彼とトラブルがあった事。
その後の事はミアは分からないし、周りも把握しているか不明な事。
なんて情けない事だろう。ミアは話しながら涙が溢れてしまいテディの横で泣き出してしまった。テディは相変わらず心配そうな目をミアに向けていたが、その内溜息混じりに口を開いた。
「ミア…どうしたいの…？この後…」
「どうしたいって…私にも分からないよ…！」
「本当に？本当に分からない？」
「うん…ただ、ネビロスさんにわがままぶつけたり…重荷になったりしたくないとは思ってるけど…」
「…ふーん……。じゃあボクが提案して良い？」
キョトンとしたミアに顔を近付けるテディ。いつもの彼の感じでは無く、何だか妙な距離の近さを感じる。ともすると唇が触れそうな距離まで近付かれ、ミアは無意識に手で優しくテディを押し戻しいつもの距離を保とうとする。自分を男と認識し、距離を取ったミアに安心しつつ言葉を続けた。
「テディ……？」
「ねぇミア。ネビロスの事はもう忘れて、他の人と恋愛とかしないの？」
「え……？」
「ユーシン、ミアの具合が悪いって聞いてずっと心配してたよ。女性か機械人形だけが部屋に行って良いって言われたからって律儀に守ってさ、誰かがミアの部屋に行く度羨ましそうに見てた。今ミアがどんな顔色かちゃんと見に行けるから。すっごく心配してたんだよ？」
「ユーシン君が…？」
「うん。ユーシンは真面目で、ボクみたく狡くないから」
そう言ってテディはふっと目を伏せる。テディが狡い、と言う言葉にミアは疑問を浮かべた。
なるべく女性か機械人形だけ。そう言われてテディは何となく何が起きたか察した。しかし、察したところで自分に何も出来ない事には変わりない。だから彼はいつもの調子で、何も知らない子供のフリをした。
「えー？でもボク可愛いから良いでしょー？下手したらそこら辺の女の子より可愛いしー」
と明るい声音でそう言い、苦笑いを浮かべる大人達の目を盗んでこっそりミアのところに来たのだと言う。
いつもと違う、スカートでないパンツルックなスタイルは彼なりの罪悪感の現れだった。そして、ミアに拒否してもらいやすくする為のパフォーマンスでもあった。
彼女に、部屋に入れてもらえない様にする為。
今の弱った彼女を前にして、弱みに付け込んでしまいそうだったからだ。だってテディ はミアが好きだから。
�猖榲�に女性以外受け付けないほどの心持ちだったらどうしよう？�瓩箸覆蠅弔弔癲↓犲�分の見た目なら大丈夫な筈�瓩肇潺△竜せ�ちを確認せずに来てしまった。女性的な見た目なのを良い事に近い距離まで行けてしまう。
──でもそれって騙してるに等しいよね。
案の定、パンツルックに髪を纏めて化粧も薄く、いつもよりメンズ寄りな格好で行けばミアはテディを部屋へ上げるのを躊躇った。
テディはそんなミアを見、ネビロスとの間のトラブルがどう言う類いの物か確信を持ち、彼に怒りを覚えた。同時に、そうまでなってもおそらくミアの心にはネビロスしか居ないと言うある種のやるせなさも味わった。そして、ミアが自分の本当の気持ちを見失っている事に気が付いた。
「テディが狡い…って、どう言う事…？」
「そのまんまの意味だよ」
「…どう狡いの？」
「……ボクはね、何も知らない子供のフリしてここまで来たんだー」
テディの返答の意味が分からないミアの顔が更に疑問一色に染まる。テディはにっこり笑うとミアを再度見つめた。
「他の人との恋愛…ユーシンだけじゃ無い、ボクだってミアと恋愛出来るでしょー…？」
「え？テディと…？」
「うん。ボクだって男の子だし、ちゃんと女の子が好きだよ」
「そ、そうなの…？」
「うん。ボクは女の子 が好き」
そう言って真っ直ぐミアを見つめる。『女の子』と言う言葉の中に、『ミア』の名前を添えたつもりで。
でもこれは、気付かれなくても良いところであり、テディにとってはその後のミアの返事が重要だった。
「で、でも…でも私…私はネビロスさんが…！！」
「ネビロスが？」
「…ネビロスさんが…好きだよ…」
「今でも？」
「うん…今でも…！！」
テディは自分に入る隙が無いと言う事を悟り、少しだけ瞳に悲しみの色を浮かべる。しかし、すぐに気持ちを切り替えると、更にミアを詰問する。
「でも今、居ないじゃん」
「今は…確かに近くに居ないけど…諦めようと思ったけど、諦められないの…！」
「諦められないんだねー…でも近くに居ないじゃん」
「だ、だから今は居ないけど…！」
「じゃあさ、ミアが今 したい事って何？」
「今したい事…？」
「うん。ネビロスが好き、諦められない。だけどそのネビロスが居ない。じゃあ、今ミアがしたい事は？まさか帰ってくるかも分からないネビロスを想ってめそめそしてる事、じゃ無いよね？」
そう発した瞬間、ミアはカッと目を見開いた。それはまるでやるべき事を見付けた様な、目を覚ましたかの様な顔であった。
「私…私……」
「うん」
「私……ネビロスさんに、会いたい…！！会ってちゃんと話したい！！」
「うん」
「こんな風に会えなくなるの…嫌だ…！！」
「うん…そうだよね。やっぱミアは、そうだと思った。色んな人に遠慮してそれ言えなくなってただけで、最初からミアの心はそう決まってたんでしょ？ネビロスが良い、ネビロスに会いたいって」
そう言って溜息を吐くテディ。それは呆れから出た溜息では無く、それによって自分を納得させている様に見えた。
彼は彼で、諦めなければいけない事がここで出来たのだ。
「……じゃあさ、探そうよ。ネビロスの事。クロエならきっと良い案出してくれると思う」
「で、でも…私さっきクロエちゃんと喧嘩しちゃって…」
「あーそんなの気にしない気にしない！行き違いなんて誰にでもあるある！友達でしょ？そんなもんで壊れないって絶対！喧嘩とかそんな事でクロエがミアの事嫌いになるなんて無い無い！」
力強くそう言い切るテディ。ミアは一瞬キョトンとしたものの、彼の勢いに吹き出す様に笑うとまた涙を溢した。その涙には先程までの悲哀は無かった。
「クロエも頑固なお子ちゃまだし？口悪いからどうせいらん事言ったんでしょー？」
「そ、そうなのかなぁ…？うーん…？」
「だから、ミアがもう冷静に話せそうならクロエだって冷静に話せるよ。ボクも手伝うからさ」
「……ありがとう、テディ」
「良いの良いの！ボクミアの事だーい好きだもん！！」
そう言ってミアに抱き着くテディ。無警戒なミアにぎゅっと抱き締め返されると彼の中で色々な思いが渦巻いてしまう。このままネビロスの事なぞ忘れるくらい自分でいっぱいになれば良いのに。そう思って、それでは自分しか幸せにならないからとこの考えを追い出した。
だけど、それで良い。
初恋は実らないからこそ美しいのだと思うから。
* * *
「……クロエちゃん」
「……」
人通りの少ない資料室近くの休憩所でクロエは一人牛乳を飲んでいた。軽く瓶二本を空にして最早自棄飲みに等しい。名前を呼ばれたクロエは、一瞬チラリとミアを見る。そして少し考えて、覚悟を決めた様に体ごとミアに向き直った。
緊張感漂うクロエに対してミアはふわふわしていた。長いスカートを風に靡かせ、ゆっくりクロエに近付く。彼女の隣に腰を下ろすと、ミアはゆっくりと口を開いた。
「私、ネビロスさんが好き。痛い事、されてもね？嫌いになれないの…どうしても」
「……」
こくん、と喉が鳴る。牛乳の瓶がまた一本空になり、クロエは追加を取り出した。
「どんな事言われても、何されても多分、嫌いになれない。だから私、ネビロスさんの事悪く言う様な扱いされるの、嫌だった」
「……あぁ」
「私がされた事…人が聞いたらあまり良い思い出じゃないって言うかもしれないけど、それでもネビロスさんとする事は何でもかんでも私にとったら『良い思い出』なの…」
「………」
ぐいぐいと牛乳を飲んでいたクロエは更に一本空にして溜息を一つ。席を立ち、ミアに背中を向けるとゆっくり口を開く。
「…私は正しい事を言おうと思いますが、そう思うあまり正論だけではやり切れない人の気持ちを傷付けてしまう事がありますしそう言う人の事をまるで考えない話し方になる事が多いです」
まるで噛み締める様にそう言う。ミアは思わずうんうんと頷いた。
「でも正しいって大事な事じゃない？」
「ただただ正しさを求めればそこには優しさがない。自分でも分かっています。って言うか、最近骨身に沁みました」
「じゃあ、それが出来る様になったらクロエちゃんは最高って事だね！」
「『出来る様になったら』なんて普通はそんな待ちませんよ。だから言ってくれる人の存在を待たず自分で学ぶしかありません。やり方を間違えている人間が居たら、価値観の違う人間がいたら離れるのが一番良いですからね。そうして言った方は、そうやって人が居なくなるのを目の当たりにして失ったものから学ぶんです」
「でも私、『出来る様になったら』まで待っていられるよ？それに、価値観が違うから面白いって思うよ」
「その人間の持ってる価値観と年齢を考えたら互いに子供の時ならばぶつかるで良いでしょうが、それが歳を重ねていった人間ならば変える方が難しいですから、相手が変わる様に促したりなんてやらず離れるに限ります」
「…じゃあ私はその度クロエちゃんに言うよ。だって私達、まだこれから大人になろうとしてるんだもん」
ミアはそう言って背後からクロエを抱き締める。クロエは顔こそこちらに向けていないが、何となく普段と違う『人に見せたくない顔』をしているのだとミアは察した。
「クロエちゃんが私の事凄く思ってくれてるのは分かった。ありがとうクロエちゃん、大好きだよ。私はクロエちゃんの傍に居るよ」
「……言っときますが私はネビロス氏を加害者にする事、それが何より一番早いだろうって言う意見は曲げられません」
「もー……だからそれは実行出来ないってばー…でも、でもありがとう」
彼女から直接的な謝罪は無いが、セーラー服の袖で顔を拭う姿を見てミアは既に気持ちを落ち着けていた。撫でる様に彼女の肩をさすれば、強張っていた肩の力が抜けていくのが目に見えた。クロエはクロエで、一番現実的なやり方で早く彼を探してくれようとそう思っただけなのだろう。そして一番現実的なやり方であった為にミアの気持ちを無視してしまい、傷付けた彼女が離れてしまうのが怖かった。
しかしクロエと気持ちは分かり合えたとは言え、そのやり方をミアはどうしても実行出来ない。ネビロスとはこれから未来を生きて行きたいのだ。探す為とは言え彼に一度『悪い人』と言うレッテルを貼って彼の生きにくい世界を作るわけにいかない。
そのミアの想いを聞いてクロエは再び溜息を吐く。そして席に着くと今度は背を向けず真っ直ぐにミアを見た。
「状況を整理しましょうか…」
少し湿った睫毛を揺らし、しかしきりりとした目のままクロエは紙とペンを取り出す。そして少し気難しそうな角張った字でさらさらと紙を埋めていった。
「まず、私の最初の提案は呑めないと」
「うん。クロエちゃん、私に『どうしたいか』って聞いたよね？私の一番の希望はそこかも。ネビロスさんの未来を守って、そして一緒に生きて行きたい」
「……となると、軍警に頼る以外の別の方法を取らなければなりませんね」
クロエは少し考えると、目をキョロキョロ動かす。その内考えがまとまったのか、音を立ててガタンと席を立った。
「クロエちゃん？」
「…まず駒を集めますよ。テディ氏とユーシン氏を呼びます。良いですね？」
二人とも子供とは言え男性だからと気を遣っての一言だと気付いたミアは、それを容認する様に力強く頷く。クロエもこくりと頷くと気合を入れる様に指の関節をゴキゴキと鳴らした。
「……では、大人や機関に頼らない幼稚な探し方でやらせていただきましょうか」
ニヤリと笑うクロエの笑顔は、ミクリカの露天商仲間が見ると震え上がったと言われるあの「悪魔の笑み」そのものだった。
「は、はーい…？」
「あ、ミア？ボクだよー」
「テディ？」
ガチャリとドアを開ければ一つに緩く三つ編みにした珍しくパンツルックなテディがそこに居た。彼の性別を考えればスカートで無くパンツと言うのはむしろ自然な気がするのだが、ミアは思わず「珍しいね！」と声を上げた。
「可愛い！テディ細いからパンツ履くと締まって見えるね！」
「ありがとー。まあ、ボク細いからさっ！」
おっと、こんな話をしに来たんじゃ無いや。テディは一言そう言うとミアの顔を見ながら少し考え、そしてにっこり笑った。
「ちょっとお話しない？」
「お話？」
「うん、ボクとお話」
そう言われたミアは部屋の中を見回して、そして思考を巡らせる。
部屋の中は綺麗。だからテディを部屋に入れても問題ない。しかし、テディは男の子。女の子みたいな格好をしているから気にしていなかったけど、テディは男の子。
「ねぇミア、外行こうよ」
「え？外？」
「うん、偶には外でお話しよー？別にサボってるわけじゃないし良いでしょ？お休みの日に外で友達とお喋りくらいさ」
「そ、それは…うん…」
「じゃあ決まり！」
ミアの手を優しく握るテディ。普段意識しないのに、彼の手はやはり何だかんだ男性の手でミアは一瞬どきりとした。
テディの手、やっぱり男の子だね。そう思ったが、もしもテディの好きな対象が男性だったら、彼自身の男性らしさを強調する様な事を言われたら何だか少しやりきれない気持ちにさせるのではないかと言葉を飲み込む。
もしもネビロスが居なくなった理由に考え無しの自分の言葉が気に障ったからと言うのがあったとしたら。今まで気にせず接して来たミアだったが、急に「気遣い」に対する答えが分からなくなり言葉少なになってしまった。
「はい！到着ー！」
中庭のベンチにミアを座らせると自分も横にすとんと腰を下ろすテディ。ミアが黙って表情だけでも笑顔を見せていると、テディは
「ぶっちゃけた話して良い？」
と呟いた。
「ネビロスってさ、どこ行っちゃったの？」
いきなりの直球過ぎる問いにミアは張り付いた笑顔のまま黙ってしまう。相槌すら返せずにいたが、テディはお構いなしに質問を続けた。
「…ネビロス、ずっと医療班に居ないみたいなんだけど…仕事で顔出しても部屋に居ないしさ」
「ああ…うん」
「ねぇ。ネビロス、休み取ってるだけってわけじゃないよね？」
「多分…ごめんね？私もよく分かってなくて…」
仮にも恋人だと言うのにこの返しはどうだろう？そう思いつつミアは分かる範囲で言葉を紡いだ。テディがどこまで知っているか分からないので、あくまで当たり障りなく。しかし、テディの心配そうな目を見ていたミアは中途半端に隠す事が出来ず、テディに伝えられる範囲で喋ってしまった。
ネビロスの様子が急におかしくなった事。
原因の一因が自分かもしれない事。
彼とトラブルがあった事。
その後の事はミアは分からないし、周りも把握しているか不明な事。
なんて情けない事だろう。ミアは話しながら涙が溢れてしまいテディの横で泣き出してしまった。テディは相変わらず心配そうな目をミアに向けていたが、その内溜息混じりに口を開いた。
「ミア…どうしたいの…？この後…」
「どうしたいって…私にも分からないよ…！」
「本当に？本当に分からない？」
「うん…ただ、ネビロスさんにわがままぶつけたり…重荷になったりしたくないとは思ってるけど…」
「…ふーん……。じゃあボクが提案して良い？」
キョトンとしたミアに顔を近付けるテディ。いつもの彼の感じでは無く、何だか妙な距離の近さを感じる。ともすると唇が触れそうな距離まで近付かれ、ミアは無意識に手で優しくテディを押し戻しいつもの距離を保とうとする。自分を男と認識し、距離を取ったミアに安心しつつ言葉を続けた。
「テディ……？」
「ねぇミア。ネビロスの事はもう忘れて、他の人と恋愛とかしないの？」
「え……？」
「ユーシン、ミアの具合が悪いって聞いてずっと心配してたよ。女性か機械人形だけが部屋に行って良いって言われたからって律儀に守ってさ、誰かがミアの部屋に行く度羨ましそうに見てた。今ミアがどんな顔色かちゃんと見に行けるから。すっごく心配してたんだよ？」
「ユーシン君が…？」
「うん。ユーシンは真面目で、ボクみたく狡くないから」
そう言ってテディはふっと目を伏せる。テディが狡い、と言う言葉にミアは疑問を浮かべた。
なるべく女性か機械人形だけ。そう言われてテディは何となく何が起きたか察した。しかし、察したところで自分に何も出来ない事には変わりない。だから彼はいつもの調子で、何も知らない子供のフリをした。
「えー？でもボク可愛いから良いでしょー？下手したらそこら辺の女の子より可愛いしー」
と明るい声音でそう言い、苦笑いを浮かべる大人達の目を盗んでこっそりミアのところに来たのだと言う。
いつもと違う、スカートでないパンツルックなスタイルは彼なりの罪悪感の現れだった。そして、ミアに拒否してもらいやすくする為のパフォーマンスでもあった。
彼女に、部屋に入れてもらえない様にする為。
今の弱った彼女を前にして、弱みに付け込んでしまいそうだったからだ。だって
�猖榲�に女性以外受け付けないほどの心持ちだったらどうしよう？�瓩箸覆蠅弔弔癲↓犲�分の見た目なら大丈夫な筈�瓩肇潺△竜せ�ちを確認せずに来てしまった。女性的な見た目なのを良い事に近い距離まで行けてしまう。
──でもそれって騙してるに等しいよね。
案の定、パンツルックに髪を纏めて化粧も薄く、いつもよりメンズ寄りな格好で行けばミアはテディを部屋へ上げるのを躊躇った。
テディはそんなミアを見、ネビロスとの間のトラブルがどう言う類いの物か確信を持ち、彼に怒りを覚えた。同時に、そうまでなってもおそらくミアの心にはネビロスしか居ないと言うある種のやるせなさも味わった。そして、ミアが自分の本当の気持ちを見失っている事に気が付いた。
「テディが狡い…って、どう言う事…？」
「そのまんまの意味だよ」
「…どう狡いの？」
「……ボクはね、何も知らない子供のフリしてここまで来たんだー」
テディの返答の意味が分からないミアの顔が更に疑問一色に染まる。テディはにっこり笑うとミアを再度見つめた。
「他の人との恋愛…ユーシンだけじゃ無い、ボクだってミアと恋愛出来るでしょー…？」
「え？テディと…？」
「うん。ボクだって男の子だし、ちゃんと女の子が好きだよ」
「そ、そうなの…？」
「うん。ボクは
そう言って真っ直ぐミアを見つめる。『女の子』と言う言葉の中に、『ミア』の名前を添えたつもりで。
でもこれは、気付かれなくても良いところであり、テディにとってはその後のミアの返事が重要だった。
「で、でも…でも私…私はネビロスさんが…！！」
「ネビロスが？」
「…ネビロスさんが…好きだよ…」
「今でも？」
「うん…今でも…！！」
テディは自分に入る隙が無いと言う事を悟り、少しだけ瞳に悲しみの色を浮かべる。しかし、すぐに気持ちを切り替えると、更にミアを詰問する。
「でも今、居ないじゃん」
「今は…確かに近くに居ないけど…諦めようと思ったけど、諦められないの…！」
「諦められないんだねー…でも近くに居ないじゃん」
「だ、だから今は居ないけど…！」
「じゃあさ、ミアが
「今したい事…？」
「うん。ネビロスが好き、諦められない。だけどそのネビロスが居ない。じゃあ、今ミアがしたい事は？まさか帰ってくるかも分からないネビロスを想ってめそめそしてる事、じゃ無いよね？」
そう発した瞬間、ミアはカッと目を見開いた。それはまるでやるべき事を見付けた様な、目を覚ましたかの様な顔であった。
「私…私……」
「うん」
「私……ネビロスさんに、会いたい…！！会ってちゃんと話したい！！」
「うん」
「こんな風に会えなくなるの…嫌だ…！！」
「うん…そうだよね。やっぱミアは、そうだと思った。色んな人に遠慮してそれ言えなくなってただけで、最初からミアの心はそう決まってたんでしょ？ネビロスが良い、ネビロスに会いたいって」
そう言って溜息を吐くテディ。それは呆れから出た溜息では無く、それによって自分を納得させている様に見えた。
彼は彼で、諦めなければいけない事がここで出来たのだ。
「……じゃあさ、探そうよ。ネビロスの事。クロエならきっと良い案出してくれると思う」
「で、でも…私さっきクロエちゃんと喧嘩しちゃって…」
「あーそんなの気にしない気にしない！行き違いなんて誰にでもあるある！友達でしょ？そんなもんで壊れないって絶対！喧嘩とかそんな事でクロエがミアの事嫌いになるなんて無い無い！」
力強くそう言い切るテディ。ミアは一瞬キョトンとしたものの、彼の勢いに吹き出す様に笑うとまた涙を溢した。その涙には先程までの悲哀は無かった。
「クロエも頑固なお子ちゃまだし？口悪いからどうせいらん事言ったんでしょー？」
「そ、そうなのかなぁ…？うーん…？」
「だから、ミアがもう冷静に話せそうならクロエだって冷静に話せるよ。ボクも手伝うからさ」
「……ありがとう、テディ」
「良いの良いの！ボクミアの事だーい好きだもん！！」
そう言ってミアに抱き着くテディ。無警戒なミアにぎゅっと抱き締め返されると彼の中で色々な思いが渦巻いてしまう。このままネビロスの事なぞ忘れるくらい自分でいっぱいになれば良いのに。そう思って、それでは自分しか幸せにならないからとこの考えを追い出した。
だけど、それで良い。
初恋は実らないからこそ美しいのだと思うから。
* * *
「……クロエちゃん」
「……」
人通りの少ない資料室近くの休憩所でクロエは一人牛乳を飲んでいた。軽く瓶二本を空にして最早自棄飲みに等しい。名前を呼ばれたクロエは、一瞬チラリとミアを見る。そして少し考えて、覚悟を決めた様に体ごとミアに向き直った。
緊張感漂うクロエに対してミアはふわふわしていた。長いスカートを風に靡かせ、ゆっくりクロエに近付く。彼女の隣に腰を下ろすと、ミアはゆっくりと口を開いた。
「私、ネビロスさんが好き。痛い事、されてもね？嫌いになれないの…どうしても」
「……」
こくん、と喉が鳴る。牛乳の瓶がまた一本空になり、クロエは追加を取り出した。
「どんな事言われても、何されても多分、嫌いになれない。だから私、ネビロスさんの事悪く言う様な扱いされるの、嫌だった」
「……あぁ」
「私がされた事…人が聞いたらあまり良い思い出じゃないって言うかもしれないけど、それでもネビロスさんとする事は何でもかんでも私にとったら『良い思い出』なの…」
「………」
ぐいぐいと牛乳を飲んでいたクロエは更に一本空にして溜息を一つ。席を立ち、ミアに背中を向けるとゆっくり口を開く。
「…私は正しい事を言おうと思いますが、そう思うあまり正論だけではやり切れない人の気持ちを傷付けてしまう事がありますしそう言う人の事をまるで考えない話し方になる事が多いです」
まるで噛み締める様にそう言う。ミアは思わずうんうんと頷いた。
「でも正しいって大事な事じゃない？」
「ただただ正しさを求めればそこには優しさがない。自分でも分かっています。って言うか、最近骨身に沁みました」
「じゃあ、それが出来る様になったらクロエちゃんは最高って事だね！」
「『出来る様になったら』なんて普通はそんな待ちませんよ。だから言ってくれる人の存在を待たず自分で学ぶしかありません。やり方を間違えている人間が居たら、価値観の違う人間がいたら離れるのが一番良いですからね。そうして言った方は、そうやって人が居なくなるのを目の当たりにして失ったものから学ぶんです」
「でも私、『出来る様になったら』まで待っていられるよ？それに、価値観が違うから面白いって思うよ」
「その人間の持ってる価値観と年齢を考えたら互いに子供の時ならばぶつかるで良いでしょうが、それが歳を重ねていった人間ならば変える方が難しいですから、相手が変わる様に促したりなんてやらず離れるに限ります」
「…じゃあ私はその度クロエちゃんに言うよ。だって私達、まだこれから大人になろうとしてるんだもん」
ミアはそう言って背後からクロエを抱き締める。クロエは顔こそこちらに向けていないが、何となく普段と違う『人に見せたくない顔』をしているのだとミアは察した。
「クロエちゃんが私の事凄く思ってくれてるのは分かった。ありがとうクロエちゃん、大好きだよ。私はクロエちゃんの傍に居るよ」
「……言っときますが私はネビロス氏を加害者にする事、それが何より一番早いだろうって言う意見は曲げられません」
「もー……だからそれは実行出来ないってばー…でも、でもありがとう」
彼女から直接的な謝罪は無いが、セーラー服の袖で顔を拭う姿を見てミアは既に気持ちを落ち着けていた。撫でる様に彼女の肩をさすれば、強張っていた肩の力が抜けていくのが目に見えた。クロエはクロエで、一番現実的なやり方で早く彼を探してくれようとそう思っただけなのだろう。そして一番現実的なやり方であった為にミアの気持ちを無視してしまい、傷付けた彼女が離れてしまうのが怖かった。
しかしクロエと気持ちは分かり合えたとは言え、そのやり方をミアはどうしても実行出来ない。ネビロスとはこれから未来を生きて行きたいのだ。探す為とは言え彼に一度『悪い人』と言うレッテルを貼って彼の生きにくい世界を作るわけにいかない。
そのミアの想いを聞いてクロエは再び溜息を吐く。そして席に着くと今度は背を向けず真っ直ぐにミアを見た。
「状況を整理しましょうか…」
少し湿った睫毛を揺らし、しかしきりりとした目のままクロエは紙とペンを取り出す。そして少し気難しそうな角張った字でさらさらと紙を埋めていった。
「まず、私の最初の提案は呑めないと」
「うん。クロエちゃん、私に『どうしたいか』って聞いたよね？私の一番の希望はそこかも。ネビロスさんの未来を守って、そして一緒に生きて行きたい」
「……となると、軍警に頼る以外の別の方法を取らなければなりませんね」
クロエは少し考えると、目をキョロキョロ動かす。その内考えがまとまったのか、音を立ててガタンと席を立った。
「クロエちゃん？」
「…まず駒を集めますよ。テディ氏とユーシン氏を呼びます。良いですね？」
二人とも子供とは言え男性だからと気を遣っての一言だと気付いたミアは、それを容認する様に力強く頷く。クロエもこくりと頷くと気合を入れる様に指の関節をゴキゴキと鳴らした。
「……では、大人や機関に頼らない幼稚な探し方でやらせていただきましょうか」
ニヤリと笑うクロエの笑顔は、ミクリカの露天商仲間が見ると震え上がったと言われるあの「悪魔の笑み」そのものだった。
La chance est avec moi
クロエが部屋に集めたのは調達班所属の見知ったメンバー二人だった。
テディ、ユーシン、その二人だけ。ミアは目を丸めてクロエを見る。クロエは不服そうにチッと舌を鳴らすとミアと共に席に着いた。
「……面談じゃねぇんだよ」
あまりの頼りなげな絵面にそう悪態つくクロエ。テディはムッと顔を顰めるとだらしなく姿勢を崩して足を組む。ユーシンは普段こそ「パンツ見えちゃうよ！」と注意するが、今日は彼がパンツルックなのでそれは言わない。しかし、テディとクロエの間に流れるピリピリした空気を感じて慌てていた。
「ボクも別に面談のつもりで来てませんけどー？来たところでクロエに何指導してもらうんですかー？」
「ちょ、ちょっとテディ…！」
「ってゆーか。そもそもボク達呼んだのクロエじゃん？」
反抗的なテディとおろおろするユーシンを見てクロエは目付きを鋭くすると、ドンと音を立ててホワイトボードに拳を打ち付ける。
東國式カラクリマンションの隠し扉の様にくるりと回転したホワイトボード。その裏側にはクロエが用意していたのであろうミアやネビロスの写真が貼り付けられていた。
「あ……」
ネビロスさん一人で写ってる写真、格好良い。クロエちゃんに言ったら後でくれるかな？
そんな事をミアが思っているなどつゆ知らず。クロエは重々しく口を開いた。
「アンタらを呼んだのは他でもない、ネビロス氏の件についてです」
テディもユーシンも彼の名を聞き眉間に皺を寄せる。二人とも思うところがあるのだがクロエはお構いなしに話を続けた。
「彼は訳あって結社を飛び出し、音信不通になりました。その訳と言うものはミアのプライバシーにも関わる事なので言及しないでいただきたい。さて、音信不通とは言いましたが実質彼は行方不明です。今分かっているのは誰も彼の行先を聞いていない事、携帯端末が繋がらない事、エル先生には『辞表を提出した』と言う連絡が入っていた事。以上です。しかし、ミアは彼の行方を追いたいと言っている。そしてエル先生もこの件を訝しんでいる。ですが、状況としては成人男性がきちんと段取りを踏んで結社を辞めた上関係者と連絡を絶っているだけに過ぎません。事件の可能性が極めて低い。先のミサキ氏、ヴォイド氏の様にあからさまに事件性があっても結社から動けたのは精鋭三人と一体です。今はそのメンバーも動けない上前述した通り事件性が低い為軍警も本腰を入れてくれるか分かりません。つまり、我々で動くしかないのです」
クロエがそう言い切るが早いか、テディがスッと手を挙げた。クロエが無言で彼を指差すと、テディは小首を傾げながら口を開いた。
「何でボク達なの？」
「調達班には情報部隊があるからです。それに、ユーシン氏は噂話を集めて独自のルートでまだ不明瞭だった頃の結社にやって来たと聞いていますし、テディ氏も日頃その話術で色んな情報を仕入れていると聞きます。これ以上の適任は居ないかと」
「うーん…」
何か奥歯に詰まったものが上手く取れない感じがする。
クロエの言葉にそんな感想を抱きつつもテディもユーシンも「断る」と言う選択肢は考えていなかった。
「あの…質問なんですけど…」
「はい、ユーシン氏」
「調達班だからぼく達って言うのも分かります。情報部隊もあるし、クロエさんが適任だと思うのも何となく。でもぼく、さっきから納得いかない事があるとしたら、ここ二人って未成年じゃないですか。シキやコリンさん、ダニエルさんは呼ばずにって言われたし、明確にぼくらだけが目的だったんですよね？」
クロエは無言でユーシンを見つめる。テディもユーシンも引っ掛かったのはそこだった。
ヴォイドとミサキの件で動いたのは成人済みのメンバー。確かに事件性の高い件だったのでそれは納得なのだが、これがネビロスの今の状況に変わった瞬間未成年しか連れて来なかったクロエには何か考えがあるのだろうか。
「言えません。それに関しては、説明しません」
「は？説明責任って言葉知らないの？」
しかしクロエははっきりと「言えない」と言った。これに少し苛立ちを見せたテディが突っ掛かる。ユーシンも、クロエのイメージからは出てきそうに無い不誠実とも言える答えに少し驚きを見せた。
「そこに関しては申し訳ないと思っています。それでも言えません。しかし、これだけは約束します。私は決して、貴方方に不利に働く契約は持ち掛けません。それだけは信じてください」
言葉は不誠実だが、クロエの目は真っ直ぐで誠実そのものだった。大人同士の取引や契約では絶対に出来ない話だ、「信じてくれ」などとそんな言葉で動くのは。しかし、そこも含めて自分達は子供であると二人とも思う。そんな一見すると不誠実な話でも、ここ二、三日で少し痩せた様に見えるミアの姿を見てしまえば断れない。
それに、自分達が「子供だから」で守られている部分が多い年齢である事も自覚している。
だから自分達に不利に働かないと言うのも想像は出来たし、彼女の評判を聞けば契約と言うものに関してクロエが嘘をつくとは思えない。
「……分かった。信じるよ」
最初から断る気なんて無かったし。
そう言いながらテディが足を丁寧に直し、崩していた姿勢を正す。ユーシンも背筋を改めて伸ばすとクロエを見つめた。
「それで…ぼく達結局何をすれば…？」
「ええ。『急いては事を仕損じる』とは言いますが、今回は急かなきゃどうにもなりません。そこで早速ですが、今情報部隊としてミクリカとラシアスにいる未成年のメンバーを教えてください」
「未成年のメンバー…？えっと…今日は誰がどこ行ってたっけ…？」
ユーシンはメモを取り出すとシフト表を確認する。皆友人同士でもあるからか、更に細かく色々と書かれた予定表を見ると、彼らの名前を挙げた。
「えっと…ラシアスにいる未成年メンバーはエンマ・アナンディーン、ミクリカにいるのはサーラ、カールのオルソン兄妹です」
「今挙げたのは全員未成年ですか？」
「あ、はい！エンマは十七歳、オルソン兄妹は十六歳です」
「では、彼等には結社の業務とは別に聞き込みの仕事をお願いして下さい。私は調達班のシフトは確認していませんから、詳しく知っているであろう貴方方にその連絡をお願いしたい」
「良いけどー……聞き込みって何聞くの？」
「簡単です。噂を流す感じで老若男女問わず聞いて欲しいのです。『灰色の幽霊を見ていないか？』と。『灰色の髪の毛で紺のスクラブか私服で〜…』と詳細を伝えて人探しにしてしまうと下手な事は言えないからとあまり情報が集まらない可能性もあります。しかし、『灰色の幽霊をみていないか？』ならば子供でも混じりやすい話なのです。警察の似顔絵が絶妙に下手なのと同じ原理ですよ北と南の中心地で噂を流せば情報の入る量は多い」
幽霊話と称し、それらしい風貌のネビロスの目撃情報を探すと言うのがクロエの作戦だ。しかしそれだけでは彼が見付かる可能性は低い。なのでクロエは更に、ミアと共にネビロスの部屋を漁ると言う。
「図書室、医療班、自室とネビロス氏の痕跡を掴むべく漁るつもりです。仕事は丁寧且つ迅速に。なので貴方達二人にはエンマ氏、サーラ氏、カール氏に連絡後それぞれ図書室、医療班と何かないか漁って下さい。メモ一つでも見付けたら儲けものです」
「情報提供をお願いする連絡と物色かー」
「何か…何だかんだぼく等 の仕事って言えば仕事っぽい感じだね」
「私は最初からそう言ってますよ。これはままごとじゃねぇんだ。だからこそ、貴方方に時間外勤務はさせますが、それ相応の報酬は出しますし不利に働く契約は結ばないと言っているんです」
テディもユーシンも納得した様に頷く。そして各々解散し、ミアとクロエは合鍵を使ってネビロスの部屋に入った。
「さて、気は引けますが漁りますか」
本棚に向かったクロエは一冊一冊本を取り出しパラパラとページを捲った。何かメモが挟まれていたり何か書かれていたりしないだろうかと目を凝らして探し始める。
ミアはベッドの方に移動すると整えられた布団に顔を擦り寄せた。愛しい彼の匂いがまだ残っている。彼のシャンプーの香りが、肌の香りがまだ残っている。止めようとしていたミアの目から涙が溢れた。ミアはベッドに突っ伏す様にして、そのまま寝てしまった。
「ミア、ネビロス氏が直近で何か…」
言い掛けて寝ているミアの姿を見、声のボリュームを絞る。クロエはキョロキョロと辺りを見回すと、傍にあったネビロスのガウンを羽織らせる様に掛けてやった。これで少しでもミアを包む香りの多くが彼のものであって欲しい。
ガウンを掛ければミアは嬉しそうに微笑む。その姿を見て、「匂いが好き」は本能だと何かで読んだ事を思い出していた。
「相手の事を好きだと思った時、匂いは本能的な部分があるって言いますよね…遺伝子情報が一番顕著にあらわれるのが匂いで、それが遠いから好きになるのだと」
だからミアの彼に対する「好き」も本能的なもので決してままごとの様な恋では無くて。それはきっとネビロスも同じな筈で。
ミアのここ最近の乱れぶりを見ていたクロエはやっと安らかな顔を見せたミアに安堵する。やはりミアにとって今何よりも大きい存在であるネビロスを犯罪者にしてでも見付けようと言うのは些か極端な話だったか。自分が良かれと思って安易に口にした事、それがあの瞬間ミアに何を突き付けたのか。クロエは事の重大さをより大きく感じ、寝ているミアの背中に向かってボソリと呟いた。
「……ごめんなさい」
「え？なぁに？」
「…っ！？起きているなら起きていると言え！！」
照れ隠しか、ツッコミを入れるが如く手に持っていた本をミアの頭の上にどさどさと落とすクロエ。ネビロスの愛蔵書は分厚い重めな物が多く、ミアは後頭部と首にその重みをダイレクトに感じた。
「痛ーい！！」
「全く…！さっさとミアも調べる！！」
「はーい……」
落とされた本は今はネビロスが読んでいなさそうな物ばかりだったが、何故かその中に最近よくネビロスが読んでいた見覚えのある表紙が混じっているとミアは気付く。彼はいつだってそうだった。彼にはどう言う風に読めているのか、こんな分厚い本をいつだってさらりと手早く読んでしまう。せっかち、と言うよりは内容も把握している分もっと機械的だ。
本棚を見ても分かる。ネビロスは普段物語を読まない。自分が薦めた「大きなナラの木の下で」はその時読んでくれたが、彼はいつもプログラムの本か医療関係の本を読んでいる。
だからその本の存在は少し異質にミアには思えた。
「ん…？『精神病院の倫理の外』って本だったの…？」
それは、いわゆるルポルタージュと言うジャンルのものだった。作者が実際に精神病院に赴き、そこに居た患者から直接話を聞くと言う手法で作られた一冊だ。内容の是非も然る事ながら、中には実際に被害者の居る犯人も居た。その為、被害者に対するセカンドレイプだと批難する声も多かった。それどころか、タイトルからして取材対象の彼らを倫理の無い存在として扱っていると加害者の人権を守る団体からも攻撃を受けていたある意味曰く付きの本である。
そんな本をネビロスが読んでいたなんて珍しい事もあるんだなぁと思いながらミアもパラパラとめくってみる。しかしミアは、最初のページの数行を読んでもうそれ以降読めないと思った。想像以上に凄惨な事件を事細かに載せているその本は、精神病患者の見える世界から見た犯罪を細かく書いており、彼らの理念と独白を纏めたものではあるが一つ一つが独立したオムニバスのグロテスクな小説の様だった。
アケリア、アシューアと来てカンテ国の項目に差し掛かった時、ミアは気が付いた。カンテのページに付箋が貼ってある。
「メモ…！？」
ぱらぱらと捲り貼られているメモを見る。
そこには「ごめんなさい」と書かれていた。
「…ネビロスさん…！？」
他にもメモが無いか探してみる。しかし他にメッセージらしいメッセージは無く、彼の肉筆はそれだけだった。
「何か…何か他に…！！」
そしてミアは気が付いた。本にマーカーで線が引いてある事に。纏まった言葉に引かれている時もあれば、単語だけであったり一文字だけであったり。ミアがそれを書き出していくと、一つのメッセージが浮かび上がった。
「クロエちゃん！！これ！！」
ミアが慌ててクロエを呼び、二人でそのメッセージを見つめる。クロエは途端に青ざめた顔になり、同じ表情を浮かべているミアと見つめあった。
「……い、急ぎましょう！！一番可能性の高い候補は、レイレント精神病院です！！」
「うん！！」
同じタイミングでコンコンとドアをノックする音が。クロエとミアが勢いのまま飛び出すと、そこに居たのは驚いた表情を浮かべたユーシンとテディだった。
「びっくりした…！！」
「ねぇクロエー。ネビロス、医療班の部屋には特に何も残して無いんだけどー？あ、でもー、エンマが『ラシアスで目撃情報がそれなりに多い』って…──」
「──ちょうど良いところに貴様ら！！一緒に来てください！！人数は多い程良い！！」
「は！？何！？何が起きてんの！？」
「ちょ、クロエさん！！腕もげちゃいます！！」
「良いから来てください！事情は向かう途中道すがらお話ししますんで！！」
「ごめんね！テディ、ユーシン君！！」
ミアとクロエ、それにユーシンとテディを加えた四人でバタバタと部屋を飛び出しレイレントに向かう。
あまりの勢いだったからか、ミアのポケットから先程書き出したメモが飛び出し、とさりと軽い音を立てて床に着地した。
「あ、メモ！！」
「メモなんてどうでも良い！会って本人の口から聞け！！」
クロエの鬼気迫る表情にミアも突き動かされる様にハッとし、頷く。状況の読めないテディとユーシンは頭に疑問符を浮かべたままだが、レイレント行きの電車に飛び乗った時、ようやくクロエが二人に説明を始めた。
「…ネビロス氏が、行先のヒントを残していました」
「え！？何それ！？」
「どんなヒントですか！？」
座席に座り、落ち着いたところで懐から紙牛乳を取り出すとズズズと吸い上げながら話し始める。この際「紙パック牛乳を常備しているのか？」等と言う野暮な質問は誰もしなかったと言うのは余談である。
* * *
ネビロスは辞表を書き終えた時点で疲れ果て、眠りそうになる己を何とか奮い立たせた。
目を瞑れば、先程までのミアとの行為を思い出してしまう。
初めて彼女の体にしっかり触れた。彼女と繋がれた。だけど、それは自分のある決断を後押しする物でもある、嬉しい筈の悲しい行為。
余韻に浸る暇も無く、ミアに布団を掛けてそのまま出て来てしまった。
ああ言う時、女性にとって一番嫌なのは男性が『終わった感』を出す事だと何かで読んだ。タバコを吸い出したり端末を弄り始めたり、女性は行為そのものと言うより行為前の雰囲気やピロートークを重要視するとか、しないとか。
それが全ての女性に当てはまるものではないとは思うがこれだけは分かる。終わってすぐ彼女に布団を掛けて部屋を出た自分は誰がどう見ても、男性から見たって間違いなく『無し』な行動を取った人間であると。
「ふぅ…あの青年、ちゃんと仕事してくれれば良いのですが」
クロードウィッグの寝ているのか起きているのかよく分からない態度に一抹の不安を感じながらネビロスは一生懸命書いた手紙を渡した。これまで以上に気を遣って、これまで以上に力を込めて書いた届だ。やれるだけ、自然にただ辞めるだけの男を装えたのではないかと安堵する。
だからもう何も要らない。何も残さず、迅速に行動に移さねば。そう思ったのに、まだ期待している自分がいる。
「……浅ましい」
己の浅ましさが憎い。
傷付けて、彼女の同意も得ず好き勝手に振る舞って、そうして自分を恨んでくれたらなどと思っていたのに、まだ愛される事を期待してしまう。
何も残さなければ、ミアはきっとただ自分を恨むだけで終わってくれる。そんな思いとは裏腹に、ネビロスは先程の手紙の執筆で力を入れ過ぎたのか少し痛む手でマーカーペンを持ち、一番最近読んでいた本を取り出した。
そしてパラパラと本を捲ると、『レイレント精神病院』のページを開き、そこに書かれてある文章にペンを走らせる。文字を書くだけの元気は手に残っていないから、もしも気付いてくれたらと願いを込めて。
本に書かれた文字に、言葉にマーカーで線を引いただけのミアへのメッセージ。
もしも、もしも気付いてもらえたなら、まだもう少しだけ頑張れるだろうか。いや、そんな事低過ぎる確率だと思うのに。
自分を乱暴して消えた男の事なんて普通探そうと思わないし、そんな男の部屋に何か探しに来るなんて、そんな事きっとしない。だからこんなもの残していって後で気付かれたら、自分を恨んで欲しいと思っていながら矛盾した行動を取るものだとネビロスは嘲笑する。
「ミア……」
しかし、決意とは裏腹に彼女を置いて行くのがとても悲しい。
ネビロスは本棚のいつもと違う場所に本を戻すと部屋を出た。
『レイレント精神病院 に 私は 居ます。
私は 疲れて しまい まし た。
最後 まで 傍で 愛 せず ごめんなさい。
それでも 私 は ミ ア のことを 愛し 続けます。
たとえ 二度 と 会う事 が 叶 わず とも。
でも 本当はもう一度 あなた に 触れたい。
わがまま で』
『ごめんなさい』
テディ、ユーシン、その二人だけ。ミアは目を丸めてクロエを見る。クロエは不服そうにチッと舌を鳴らすとミアと共に席に着いた。
「……面談じゃねぇんだよ」
あまりの頼りなげな絵面にそう悪態つくクロエ。テディはムッと顔を顰めるとだらしなく姿勢を崩して足を組む。ユーシンは普段こそ「パンツ見えちゃうよ！」と注意するが、今日は彼がパンツルックなのでそれは言わない。しかし、テディとクロエの間に流れるピリピリした空気を感じて慌てていた。
「ボクも別に面談のつもりで来てませんけどー？来たところでクロエに何指導してもらうんですかー？」
「ちょ、ちょっとテディ…！」
「ってゆーか。そもそもボク達呼んだのクロエじゃん？」
反抗的なテディとおろおろするユーシンを見てクロエは目付きを鋭くすると、ドンと音を立ててホワイトボードに拳を打ち付ける。
東國式カラクリマンションの隠し扉の様にくるりと回転したホワイトボード。その裏側にはクロエが用意していたのであろうミアやネビロスの写真が貼り付けられていた。
「あ……」
ネビロスさん一人で写ってる写真、格好良い。クロエちゃんに言ったら後でくれるかな？
そんな事をミアが思っているなどつゆ知らず。クロエは重々しく口を開いた。
「アンタらを呼んだのは他でもない、ネビロス氏の件についてです」
テディもユーシンも彼の名を聞き眉間に皺を寄せる。二人とも思うところがあるのだがクロエはお構いなしに話を続けた。
「彼は訳あって結社を飛び出し、音信不通になりました。その訳と言うものはミアのプライバシーにも関わる事なので言及しないでいただきたい。さて、音信不通とは言いましたが実質彼は行方不明です。今分かっているのは誰も彼の行先を聞いていない事、携帯端末が繋がらない事、エル先生には『辞表を提出した』と言う連絡が入っていた事。以上です。しかし、ミアは彼の行方を追いたいと言っている。そしてエル先生もこの件を訝しんでいる。ですが、状況としては成人男性がきちんと段取りを踏んで結社を辞めた上関係者と連絡を絶っているだけに過ぎません。事件の可能性が極めて低い。先のミサキ氏、ヴォイド氏の様にあからさまに事件性があっても結社から動けたのは精鋭三人と一体です。今はそのメンバーも動けない上前述した通り事件性が低い為軍警も本腰を入れてくれるか分かりません。つまり、我々で動くしかないのです」
クロエがそう言い切るが早いか、テディがスッと手を挙げた。クロエが無言で彼を指差すと、テディは小首を傾げながら口を開いた。
「何でボク達なの？」
「調達班には情報部隊があるからです。それに、ユーシン氏は噂話を集めて独自のルートでまだ不明瞭だった頃の結社にやって来たと聞いていますし、テディ氏も日頃その話術で色んな情報を仕入れていると聞きます。これ以上の適任は居ないかと」
「うーん…」
何か奥歯に詰まったものが上手く取れない感じがする。
クロエの言葉にそんな感想を抱きつつもテディもユーシンも「断る」と言う選択肢は考えていなかった。
「あの…質問なんですけど…」
「はい、ユーシン氏」
「調達班だからぼく達って言うのも分かります。情報部隊もあるし、クロエさんが適任だと思うのも何となく。でもぼく、さっきから納得いかない事があるとしたら、ここ二人って未成年じゃないですか。シキやコリンさん、ダニエルさんは呼ばずにって言われたし、明確にぼくらだけが目的だったんですよね？」
クロエは無言でユーシンを見つめる。テディもユーシンも引っ掛かったのはそこだった。
ヴォイドとミサキの件で動いたのは成人済みのメンバー。確かに事件性の高い件だったのでそれは納得なのだが、これがネビロスの今の状況に変わった瞬間未成年しか連れて来なかったクロエには何か考えがあるのだろうか。
「言えません。それに関しては、説明しません」
「は？説明責任って言葉知らないの？」
しかしクロエははっきりと「言えない」と言った。これに少し苛立ちを見せたテディが突っ掛かる。ユーシンも、クロエのイメージからは出てきそうに無い不誠実とも言える答えに少し驚きを見せた。
「そこに関しては申し訳ないと思っています。それでも言えません。しかし、これだけは約束します。私は決して、貴方方に不利に働く契約は持ち掛けません。それだけは信じてください」
言葉は不誠実だが、クロエの目は真っ直ぐで誠実そのものだった。大人同士の取引や契約では絶対に出来ない話だ、「信じてくれ」などとそんな言葉で動くのは。しかし、そこも含めて自分達は子供であると二人とも思う。そんな一見すると不誠実な話でも、ここ二、三日で少し痩せた様に見えるミアの姿を見てしまえば断れない。
それに、自分達が「子供だから」で守られている部分が多い年齢である事も自覚している。
だから自分達に不利に働かないと言うのも想像は出来たし、彼女の評判を聞けば契約と言うものに関してクロエが嘘をつくとは思えない。
「……分かった。信じるよ」
最初から断る気なんて無かったし。
そう言いながらテディが足を丁寧に直し、崩していた姿勢を正す。ユーシンも背筋を改めて伸ばすとクロエを見つめた。
「それで…ぼく達結局何をすれば…？」
「ええ。『急いては事を仕損じる』とは言いますが、今回は急かなきゃどうにもなりません。そこで早速ですが、今情報部隊としてミクリカとラシアスにいる未成年のメンバーを教えてください」
「未成年のメンバー…？えっと…今日は誰がどこ行ってたっけ…？」
ユーシンはメモを取り出すとシフト表を確認する。皆友人同士でもあるからか、更に細かく色々と書かれた予定表を見ると、彼らの名前を挙げた。
「えっと…ラシアスにいる未成年メンバーはエンマ・アナンディーン、ミクリカにいるのはサーラ、カールのオルソン兄妹です」
「今挙げたのは全員未成年ですか？」
「あ、はい！エンマは十七歳、オルソン兄妹は十六歳です」
「では、彼等には結社の業務とは別に聞き込みの仕事をお願いして下さい。私は調達班のシフトは確認していませんから、詳しく知っているであろう貴方方にその連絡をお願いしたい」
「良いけどー……聞き込みって何聞くの？」
「簡単です。噂を流す感じで老若男女問わず聞いて欲しいのです。『灰色の幽霊を見ていないか？』と。『灰色の髪の毛で紺のスクラブか私服で〜…』と詳細を伝えて人探しにしてしまうと下手な事は言えないからとあまり情報が集まらない可能性もあります。しかし、『灰色の幽霊をみていないか？』ならば子供でも混じりやすい話なのです。警察の似顔絵が絶妙に下手なのと同じ原理ですよ北と南の中心地で噂を流せば情報の入る量は多い」
幽霊話と称し、それらしい風貌のネビロスの目撃情報を探すと言うのがクロエの作戦だ。しかしそれだけでは彼が見付かる可能性は低い。なのでクロエは更に、ミアと共にネビロスの部屋を漁ると言う。
「図書室、医療班、自室とネビロス氏の痕跡を掴むべく漁るつもりです。仕事は丁寧且つ迅速に。なので貴方達二人にはエンマ氏、サーラ氏、カール氏に連絡後それぞれ図書室、医療班と何かないか漁って下さい。メモ一つでも見付けたら儲けものです」
「情報提供をお願いする連絡と物色かー」
「何か…何だかんだ
「私は最初からそう言ってますよ。これはままごとじゃねぇんだ。だからこそ、貴方方に時間外勤務はさせますが、それ相応の報酬は出しますし不利に働く契約は結ばないと言っているんです」
テディもユーシンも納得した様に頷く。そして各々解散し、ミアとクロエは合鍵を使ってネビロスの部屋に入った。
「さて、気は引けますが漁りますか」
本棚に向かったクロエは一冊一冊本を取り出しパラパラとページを捲った。何かメモが挟まれていたり何か書かれていたりしないだろうかと目を凝らして探し始める。
ミアはベッドの方に移動すると整えられた布団に顔を擦り寄せた。愛しい彼の匂いがまだ残っている。彼のシャンプーの香りが、肌の香りがまだ残っている。止めようとしていたミアの目から涙が溢れた。ミアはベッドに突っ伏す様にして、そのまま寝てしまった。
「ミア、ネビロス氏が直近で何か…」
言い掛けて寝ているミアの姿を見、声のボリュームを絞る。クロエはキョロキョロと辺りを見回すと、傍にあったネビロスのガウンを羽織らせる様に掛けてやった。これで少しでもミアを包む香りの多くが彼のものであって欲しい。
ガウンを掛ければミアは嬉しそうに微笑む。その姿を見て、「匂いが好き」は本能だと何かで読んだ事を思い出していた。
「相手の事を好きだと思った時、匂いは本能的な部分があるって言いますよね…遺伝子情報が一番顕著にあらわれるのが匂いで、それが遠いから好きになるのだと」
だからミアの彼に対する「好き」も本能的なもので決してままごとの様な恋では無くて。それはきっとネビロスも同じな筈で。
ミアのここ最近の乱れぶりを見ていたクロエはやっと安らかな顔を見せたミアに安堵する。やはりミアにとって今何よりも大きい存在であるネビロスを犯罪者にしてでも見付けようと言うのは些か極端な話だったか。自分が良かれと思って安易に口にした事、それがあの瞬間ミアに何を突き付けたのか。クロエは事の重大さをより大きく感じ、寝ているミアの背中に向かってボソリと呟いた。
「……ごめんなさい」
「え？なぁに？」
「…っ！？起きているなら起きていると言え！！」
照れ隠しか、ツッコミを入れるが如く手に持っていた本をミアの頭の上にどさどさと落とすクロエ。ネビロスの愛蔵書は分厚い重めな物が多く、ミアは後頭部と首にその重みをダイレクトに感じた。
「痛ーい！！」
「全く…！さっさとミアも調べる！！」
「はーい……」
落とされた本は今はネビロスが読んでいなさそうな物ばかりだったが、何故かその中に最近よくネビロスが読んでいた見覚えのある表紙が混じっているとミアは気付く。彼はいつだってそうだった。彼にはどう言う風に読めているのか、こんな分厚い本をいつだってさらりと手早く読んでしまう。せっかち、と言うよりは内容も把握している分もっと機械的だ。
本棚を見ても分かる。ネビロスは普段物語を読まない。自分が薦めた「大きなナラの木の下で」はその時読んでくれたが、彼はいつもプログラムの本か医療関係の本を読んでいる。
だからその本の存在は少し異質にミアには思えた。
「ん…？『精神病院の倫理の外』って本だったの…？」
それは、いわゆるルポルタージュと言うジャンルのものだった。作者が実際に精神病院に赴き、そこに居た患者から直接話を聞くと言う手法で作られた一冊だ。内容の是非も然る事ながら、中には実際に被害者の居る犯人も居た。その為、被害者に対するセカンドレイプだと批難する声も多かった。それどころか、タイトルからして取材対象の彼らを倫理の無い存在として扱っていると加害者の人権を守る団体からも攻撃を受けていたある意味曰く付きの本である。
そんな本をネビロスが読んでいたなんて珍しい事もあるんだなぁと思いながらミアもパラパラとめくってみる。しかしミアは、最初のページの数行を読んでもうそれ以降読めないと思った。想像以上に凄惨な事件を事細かに載せているその本は、精神病患者の見える世界から見た犯罪を細かく書いており、彼らの理念と独白を纏めたものではあるが一つ一つが独立したオムニバスのグロテスクな小説の様だった。
アケリア、アシューアと来てカンテ国の項目に差し掛かった時、ミアは気が付いた。カンテのページに付箋が貼ってある。
「メモ…！？」
ぱらぱらと捲り貼られているメモを見る。
そこには「ごめんなさい」と書かれていた。
「…ネビロスさん…！？」
他にもメモが無いか探してみる。しかし他にメッセージらしいメッセージは無く、彼の肉筆はそれだけだった。
「何か…何か他に…！！」
そしてミアは気が付いた。本にマーカーで線が引いてある事に。纏まった言葉に引かれている時もあれば、単語だけであったり一文字だけであったり。ミアがそれを書き出していくと、一つのメッセージが浮かび上がった。
「クロエちゃん！！これ！！」
ミアが慌ててクロエを呼び、二人でそのメッセージを見つめる。クロエは途端に青ざめた顔になり、同じ表情を浮かべているミアと見つめあった。
「……い、急ぎましょう！！一番可能性の高い候補は、レイレント精神病院です！！」
「うん！！」
同じタイミングでコンコンとドアをノックする音が。クロエとミアが勢いのまま飛び出すと、そこに居たのは驚いた表情を浮かべたユーシンとテディだった。
「びっくりした…！！」
「ねぇクロエー。ネビロス、医療班の部屋には特に何も残して無いんだけどー？あ、でもー、エンマが『ラシアスで目撃情報がそれなりに多い』って…──」
「──ちょうど良いところに貴様ら！！一緒に来てください！！人数は多い程良い！！」
「は！？何！？何が起きてんの！？」
「ちょ、クロエさん！！腕もげちゃいます！！」
「良いから来てください！事情は向かう途中道すがらお話ししますんで！！」
「ごめんね！テディ、ユーシン君！！」
ミアとクロエ、それにユーシンとテディを加えた四人でバタバタと部屋を飛び出しレイレントに向かう。
あまりの勢いだったからか、ミアのポケットから先程書き出したメモが飛び出し、とさりと軽い音を立てて床に着地した。
「あ、メモ！！」
「メモなんてどうでも良い！会って本人の口から聞け！！」
クロエの鬼気迫る表情にミアも突き動かされる様にハッとし、頷く。状況の読めないテディとユーシンは頭に疑問符を浮かべたままだが、レイレント行きの電車に飛び乗った時、ようやくクロエが二人に説明を始めた。
「…ネビロス氏が、行先のヒントを残していました」
「え！？何それ！？」
「どんなヒントですか！？」
座席に座り、落ち着いたところで懐から紙牛乳を取り出すとズズズと吸い上げながら話し始める。この際「紙パック牛乳を常備しているのか？」等と言う野暮な質問は誰もしなかったと言うのは余談である。
* * *
ネビロスは辞表を書き終えた時点で疲れ果て、眠りそうになる己を何とか奮い立たせた。
目を瞑れば、先程までのミアとの行為を思い出してしまう。
初めて彼女の体にしっかり触れた。彼女と繋がれた。だけど、それは自分のある決断を後押しする物でもある、嬉しい筈の悲しい行為。
余韻に浸る暇も無く、ミアに布団を掛けてそのまま出て来てしまった。
ああ言う時、女性にとって一番嫌なのは男性が『終わった感』を出す事だと何かで読んだ。タバコを吸い出したり端末を弄り始めたり、女性は行為そのものと言うより行為前の雰囲気やピロートークを重要視するとか、しないとか。
それが全ての女性に当てはまるものではないとは思うがこれだけは分かる。終わってすぐ彼女に布団を掛けて部屋を出た自分は誰がどう見ても、男性から見たって間違いなく『無し』な行動を取った人間であると。
「ふぅ…あの青年、ちゃんと仕事してくれれば良いのですが」
クロードウィッグの寝ているのか起きているのかよく分からない態度に一抹の不安を感じながらネビロスは一生懸命書いた手紙を渡した。これまで以上に気を遣って、これまで以上に力を込めて書いた届だ。やれるだけ、自然にただ辞めるだけの男を装えたのではないかと安堵する。
だからもう何も要らない。何も残さず、迅速に行動に移さねば。そう思ったのに、まだ期待している自分がいる。
「……浅ましい」
己の浅ましさが憎い。
傷付けて、彼女の同意も得ず好き勝手に振る舞って、そうして自分を恨んでくれたらなどと思っていたのに、まだ愛される事を期待してしまう。
何も残さなければ、ミアはきっとただ自分を恨むだけで終わってくれる。そんな思いとは裏腹に、ネビロスは先程の手紙の執筆で力を入れ過ぎたのか少し痛む手でマーカーペンを持ち、一番最近読んでいた本を取り出した。
そしてパラパラと本を捲ると、『レイレント精神病院』のページを開き、そこに書かれてある文章にペンを走らせる。文字を書くだけの元気は手に残っていないから、もしも気付いてくれたらと願いを込めて。
本に書かれた文字に、言葉にマーカーで線を引いただけのミアへのメッセージ。
もしも、もしも気付いてもらえたなら、まだもう少しだけ頑張れるだろうか。いや、そんな事低過ぎる確率だと思うのに。
自分を乱暴して消えた男の事なんて普通探そうと思わないし、そんな男の部屋に何か探しに来るなんて、そんな事きっとしない。だからこんなもの残していって後で気付かれたら、自分を恨んで欲しいと思っていながら矛盾した行動を取るものだとネビロスは嘲笑する。
「ミア……」
しかし、決意とは裏腹に彼女を置いて行くのがとても悲しい。
ネビロスは本棚のいつもと違う場所に本を戻すと部屋を出た。
『レイレント精神病院 に 私は 居ます。
私は 疲れて しまい まし た。
最後 まで 傍で 愛 せず ごめんなさい。
それでも 私 は ミ ア のことを 愛し 続けます。
たとえ 二度 と 会う事 が 叶 わず とも。
でも 本当はもう一度 あなた に 触れたい。
わがまま で』
『ごめんなさい』
Vivez pleinement votre vie et mourez quand vous mourez.
「レイレント精神病院って…屋内だから機械人形は大丈夫だろうけどここ心霊スポットで有名な廃墟じゃん……」
クロエからネビロスの残したメッセージの事を聞いたユーシンが不意に呟く。すると青ざめた顔のテディが彼に掴み掛かった。
「ちょっと！！何て！？心スポ！？やめてよぉ！嘘だと言ってぇえ！！」
「ちょ、ちょ、ちょ、テディこそここでそれやめて！！」
襟首を掴みガクガクと揺さぶれば、電車の揺れとテディの荒い扱いで酔ってしまったユーシンが出来上がった。
何とも緊張感のない二人を見て微笑むミアと対照的に険しい顔を向けるクロエ。しかしそれでも、今四人の間に流れる空気は平和だった。
ネビロスの行き先で一番可能性の高そうな場所としてレイレント精神病院が上がったのは、ミアの見付けた本だった。ネビロスが意図的に引いたであろうマーカーのライン。それを追って行けば文章が出来上がる。もしかしたら「繋げれば文章になるのかも」と言うその発想自体が間違いかも知れない。しかし、それでも『レイレント精神病院』には確かに線が引かれていた。何らかの意図があってなのは間違いない。
例の「灰色の幽霊」の噂もラシアスで多く目撃情報があったと言う事は、その付近を彼が通った可能性が高い。レイレントとラシアスは隣町、理屈としては納得出来る。ならば、ここに行くのが一番の近道ではある。
「……良いっすか。緊張感持ってくださいよ三人とも」
まるで緊張感の無い三人に喝を入れる様にクロエが呟く。心霊スポットが何故恐ろしいと言われているか、クロエはここで改めて三人に説明した。
「現在、カンテ国で汚染機械人形の屋内での暴走は認められていません。前線駆除班のパトロールと調査でそれを証明しました。ミクリカの食い倒れでは簡易テントの様なものでも一定の大きさを持ってすれば屋内と見做されると言うのも分かりました。しかし、だからと言って屋内が安全というわけではありません。今度は別の脅威が想定されます」
「クロエちゃん、別の脅威って何？」
「人間です」
クロエの言い切る姿を見てミアもユーシンもテディも不思議そうな顔を浮かべる。若い彼らからしたら同じ人間が怖いと言う事がピンと来なかった。
「廃墟と言うのは、往々にして犯罪の温床でもあるのです。法的な住処を持たぬ者、訳あって人間社会で生きて行けぬ者、悪戯にやってくる不良。あらゆるアングラの住人やアウトロー達も含めて一番来やすい場所と言うのが廃墟なのです。なので機械人形こそ脅威になりませんが、その代わり『何考えてるか分からない』様な、汚染された機械人形と同等に意思の疎通の測れない人間が居る可能性があると頭の隅に置いてください。そしてその場合、彼らは曲がりなりにも人間ですから、何かあったらそれは『破壊』では無くなります。『殺人』に変わりますしただただ『事件』になります。なので何か変化を感じたら外へ逃げる。それを徹底してください。心霊スポットや廃墟とは本来そう言う場所です」
淡々と語るクロエの説明にすっかり黙ってしまう三人。ユーシンは何だか本当に自分が首を突っ込んで良い件かわからなくなってしまったし、テディは歳の近い筈のクロエの見える物事の違いっぷりに少し難しい顔をした。
しかし、ミアだけは決意を新たにした顔で前を見据えていた。
「でも…だとしたらネビロス・ファウストさんはどんな思いで心霊スポットなんて…」
ユーシンが不思議そうに呟く。確かに彼からしてみれば、ネビロスは背も高く美丈夫に見えていたし、悔しいかな可愛らしい恋人も居る。顔色の悪さと物静か過ぎる対応を指摘される事もあるが仕事だって順調にやっている。そんな印象だった。
それはテディもほぼ同じだ。年下の扱いが上手くて、暗い青年に見えるが不思議と他人との適切な距離を保つのが上手い。所謂「見守る」タイプの人間だから、話の中心には行かないものの一歩下がって外から人を見ている。
真面目で、あまり自分から踏み込まず他人にも踏み込ませず、『良い人』ではあるが『良い人』の印象からもまた出られない。だから本心が読めない。
「ネビロスさんは……」
ミアが何かを言い掛けたその時、電車はレイレントに到着した。
「あ、ごめん。何でもない。とにかく急ごう！」
電車の扉が開くと同時に飛び出す四人。
クロエは心配そうにミアを見、ユーシンとテディの二人は端末を操作する。その内強張った顔でテディが端末を弄ると誰かに電話を掛けた。
『ユーシンか！？』
スピーカーにしていないにも関わらずよく聞こえる程の大きな声がミアの耳を掠めた。テディは端末を少し耳から離して嫌そうな顔をすると、少しだけ口元に悪戯な笑みを浮かべながら「ボクだよー」と呟いた。
『……何っっっじゃ紛らわしい！！妾に不用意に連絡するなテディ！！ユーシンから電話が来た時お主と通話中で出れなんだらどうしてくれる！？』
テディは、この電話向こうに居る少女──エンマ・アナンディーンが大層苦手であった。名前にも苗字にも全くその要素が無いのだが熱心な東國マニアで、いつも東國の歴史ドラマの様な話し方をし、調達班の中でも珍しく普段は浴衣を着て出歩いている。あまりに物珍しい彼女の装いに白い目を向ける人間が大半だ。何のキャラの口調真似なのか特徴のある喋り方に何故かやたらと高圧的で悪目立ちする為普段はあまり対人の仕事に回されない。
それよりも金髪でケアの行き届いた長いストレートヘアに緑の目と言うのが誰かを彷彿とさせ、テディはそんな彼女が苦手だった。
「……あのさぁ、端末に表示されてる筈なんだから勝手にユーシンだと思って勝手に勘違いして勝手に当たり散らさないでくれない？」
『それで？お主が連絡とは何用じゃ？』
「……ラシアスの噂の話。灰色の幽霊、豊作みたいじゃん？」
『おお！聞いて驚け！お主の求める幽霊の噂、意外や意外色んな人間が食い付いてきてな！ラシアスからレイレントに移動するに連れて目撃情報増えるのじゃ！何じゃあれは！？妾怖い話苦手と言うのにどんどん目撃情報増えてきおって…まあこれが可愛い可愛いユーシンの頼みだからこそ妾も頑張れると言うも──』
「──あっそありがとじゃーね」
ピッと無慈悲に通話を切るテディ。そして一つ深呼吸するとミアとクロエの方を見てにこりと微笑み、「やっぱりラシアスに多いみたいだよ！」と無邪気にそう言った。
ミアは素直に喜び、クロエはテディとエンマの間に何だか可愛くない因縁が巻き起こっていると気付いたもののとりあえず今は構っていられないので放置しておく事にした。
「……じゃあ、行きますか貴様ら」
「りょーかいー」
「あ、ユーシン君がまだ電話中だよ！」
言うが早いか、電話中のユーシンは戻って来ると嬉しそうに顔を綻ばせた。
「クロエさん！サーラとカールが仕事早めに終わったからこっち来てくれるって！」
「二人増えますか…よし。ではお二人には来て中には入らず、外で見張りをする様に言っておいてください」
サーラとカール兄妹にそう告げ、四人は足を早める。レイレントの駅から歩いて四十分程。早歩きで四キロ程歩けばそれだけで口数も少なくなってしまう。そして、まるで児童書に出てくる花園の様なあたたかく柔らかで清潔な印象の外観が見えて来た。しかしそうなると正にここからが本番なのだ。
クロエを先頭にミア、テディ、ユーシンとで敷地内に入り込む。誰でも入れる程にセキュリティの甘くなっている門。おそらくテロの一件でネットワークが遮断され、警備システムへと繋がるネットワークも切れたままになっているのだろう。
「テロの影響が…まだ使えないんですね…」
門を開け、警報も何も鳴らない様子を見ながらユーシンはそう口にした。
「ライフラインは名前の通り、生きている人間の生活の確保が優先されますからね。ただでさえ人の出入りをもう想定しない建物とあれば優先順位は一番下です」
「なるほど…」
「しかし、今はそちらの方が好都合。入りますよ。よく周りを注意してください。そして密集せず、少し距離を取りながら進みましょう。機械人形の危険に関する可能性は極めて低いですが、頭のおかしい人間が物陰に紛れでもしていたら大事ですから。もし仮に誰か一人でもそう言ったトラブルに見舞われたら…逃げ足の速い一人は一刻も早く外に出て結社に連絡する事。良いですね？」
クロエのその言葉にユーシンもテディも緊張から喉を鳴らす。ミアは終始何かを考える様な顔のまま先へ先へ進んだ。
母屋のドアは自動ドアの様だった。電気が通っておらず、手動で横にスライドさせれば動かせる事を確認してすっと開けると、矢張りここが玄関口だったのだろうと一目で分かる世界が広がった。一瞬カビと埃の匂いが鼻をついたが、受付の様な窓が見え広々と開けた廊下には燦々と陽の光が差し込んでおり、キラキラと反射する埃をうっかり綺麗だと思う程だ。
「……何か、思ったより綺麗な作りだねー」
「ここは来客用の窓口も兼ねてますからね。ここはまだ、私達のよく知る建物の造りでしょう」
「奥に行ったらボク達の知らない造りになるの？」
「私も詳しく無いのでそうは言い切れませんが。少なくとも入院患者のいる病棟はフィックス窓にくらいはなっているでしょうね」
フィックス窓。いわゆる、開閉出来ないはめ殺しの窓。窓を無理に開け、飛び降りたりしない様にその造りになっている事は多い。
かつてここに誰か居たのかと思うとテディもユーシンも不思議な気持ちになった。
「ねえ、クロエさん。本当にファウストさん…ここに居るのかなぁ…？」
「分かりません。だから探すんです。辺りに彼以外の人の気配が無い事を祈りながら探すしか無いです」
しかし人の気配は感じられず、ユーシンもテディもミアも、埃に刺激されくしゃみをしながら中を進んだ。母屋を一通り回る頃には四人の服は埃で薄ら茶色くなっていた。
「うへぇー…ボク、この服結構お気に入りだったのにぃ……」
「ぼく、アレルギーでも無かったはずだけどこんなとこ長く居たら……ふぇっくしゅん！！」
「凄い埃……へくちょにゃあっ！！」
「やはり…あちらですか……」
何故か一人涼しい顔をしているクロエは離れの様な建物を窓越しに見た。目線の先にあるのは、レイレント精神病院の閉鎖病棟。重症患者が入院する為の建物だ。
「……あっちですよ…確か。心霊スポットとしても有名なの…」
ユーシンがおずおずと口を開くと、テディの青い顔が更に青くなった。
「な、何で！？昔何かあったとか！？」
「うん…ぼく、昔興味本位で調べた事あるんだけど…精神病院って昔、何かもう拷問みたいな拘束具とか付けられて療養させられたってイメージからか噂が立ちやすいんだって」
「嫌ーだー！！もうボク行きたくなーいー！！」
ぎゃあぎゃあと騒ぐテディの横でチッと一つ舌打ちをすると、まるで喧騒を吹き飛ばす様にクロエは足元にあった段ボールを勢い良く蹴り飛ばした。段ボールは埃を撒き散らしながらばすんっ！と中身の無い音を立て、一度彼女の足に引っ掛かりその後床にひれ伏した。
「喚くんじゃねぇよ」
「だってー！！」
「ユーシン氏の言う通り、噂が立ちやすい背景と言うのは確かにあります。ミアの発見した本通り下品に言うのなら、ここには『頭のネジが何本も外れ一般的な倫理観から四十度程ズレたところの住人』が実際に存在していました」
「やっぱりー！！」
「……けど、こちらのお姫様はそれで引くつもりは無いみたいですよ？」
クロエの視線の先には、うずうずして今にも飛び出してしまいそうなミアが居た。テディも視線を追って彼女の方を見る。一度足を踏み込まなければ帰らないと言わんばかりの強い表情のミアを見てテディも覚悟を決めた。
「……分かったよ…」
「よし、じゃあ行きますよ……ぶぁっくしょん！ダラボケェ！！」
「……あれ？」
いつかシキから発せられたくしゃみによく似ているそれを思い出し、テディは一瞬頭の中が混乱する。しかし、今はそれどころではないので目の前の事に集中しようと切り替えた。
ごごごごご…と鈍い音を立てるのは錆掛けの滑車だろうか。白い、清廉さに溢れた印象の建物に相応しい扉。先程までの母屋の自動ドアと違い、ここにあるのは手動のスライド式ドアだ。
そんなスライドドア、人の出入りが無くなった今は引っ掛かったり開けづらくなっている。余計に扉そのものの重みを感じ、まるで開かずの間を無理矢理こじ開ける様な嫌な恐怖を感じた。
虎穴に入らずんば虎児を得ずとは言うが、渦中に飛び込む様な無謀さを覚える。
しかし、閉鎖病棟とは言え近代の最先端のものだからかどこか柔らかく穏やかな場所だったであろう事が容易に想像できる。きっと患者達にとって居心地の良い場所だったのだろうと。だから、早く見付けないとネビロスが帰って来ない様なそんな予感がしてしまった。
「……！？」
急にミアが走り出す。その後を慌てて三人で追った。ミア！急に何ですか！？と文句にも似たクロエの珍しい大声が響くが、振り返っていられなかった。
止める声なんて聞けない。埃が立つのも気にせず、段ボールに足を取られるのも気にせず、ただひたすらに走る、走る、走る。
何故そう思ったのか分からない。そもそも、こんな遠いところからそんな些細な音が聞こえる筈がない。空耳かもしれないし、恋しく思ったあまり幻聴が聞こえたのかも。
でも、彼の声を間違う筈がないとも同時に思う。
「はぁっ──はぁっ！！ネビ、さ…んっ…！！」
切れる息、霞む目、呼吸と共に掻き消える声、渇く喉。
その渇いた喉が作り出したどろりとした嫌な唾か、それとも埃か。何かがミアの喉に張り付き思わず咽せ返る。
それでも、彼の名を呼んだ。走る足は止められなかった。
そして、診察室のドアを掴むとガラリと大きな音を立てて開く。
──ミアの視界に、天井の剥き出しの梁から垂らしたロープを首に当てようとするネビロスの姿が飛び込んだ。
「……だめぇっ！！！！」
一瞬時が止まった気がする。そんな空間の中自分だけが動けている様なそんな気になりながら、ミアはただただネビロスに駆け寄った。幸いにも首に縄を通す前だった彼をどんと勢いよく突き飛ばす。足場として使っていた椅子が大きな音を立てて倒れ、ミアとネビロスはその場に倒れ込んだ。ミアには、倒れるその瞬間すらスローモーションに見えた。
『ネビロス・ファウストさんはどんな思いで心霊スポットなんて…』
不思議そうに呟いたユーシンの姿を思い出す。あの時、テディもユーシンも二人揃って理解し難いと言う顔をしていた。きっと二人からしたら、ネビロスは静かで主張をしないけれど自分に無いものを持っている大人と言う印象だったのだろう。
『ネビロスさんは……』
そして答えを薄々勘付いていたミアは言い掛けてその後喋るのを控えた。
ミアはあの時こう続けようとしていた。
『ネビロスさんは…ルミエルさんに会いたいんだと思う…』
──と。
* * *
その本──『精神病院の倫理の外』に残されたヒントを目で追う内にミアは具合が悪くなっていた。内容が一部あまりにも惨たらしい。確かに題名は「倫理の外」と言っているが、およそ人間に出来得る所業なのかと思う様な内容が多々ある。
レイレント精神病院の項目のトリを飾ったミシェル・コットンと言う男。彼の話が一際異彩であり、ここに廃業後心霊の噂を立てた張本人でもある。
ミシェルの項目は、本人への調査ではなく世話をしていた看護師からの証言による物が大きかった。本人の言葉は何一つない。何故なら、彼はもう亡くなっているから。
ミシェルの世話をしていた看護師──彼を仮にエドとしよう。
そんな文言からミシェルと言う男の物語が始まる。
エド曰く、ミシェルは入院したその瞬間から紳士だったらしい。エドは困惑したとあった。聞いた話では、ミシェルは暴行容疑での前科もあり、別の病院から移送される際には拘束具を必要としたと言う。病院を移そうと荷物を纏めれば口汚くスタッフを罵り、暴れるので押さえ付けや鎮静剤を投与しなければならない程だった。しかし、いざ部屋に連れて行き、ある程度居住スペースが出来上がるとミシェルは打って変わって紳士になった。
備え付けの冷蔵庫にあるただのミネラルウォーターをまるで上質な紅茶の様に飲み、音楽を聴きたいと希望するので何が良いのか聞いてやれば蓄音器から発せられるのが似合う様な良い趣味の物を望んできたり。
スキンヘッドに入院着と言う見た目の非現実さはあるものの、それらを大人しく楽しむその姿はエドには大層上品な紳士に見えた。
「やぁ、僕のスウィーティー。今日も君の働きに感謝するよ」
いつだってミシェルはそう言ってエドを労った。ミシェルは人の名前を覚えられなかった。しかし、顔の判別は出来た。人の区別も付いた。だから彼の世話をする中でも特にお気に入りの看護師達は「スウィーティー」「ダーリン」と愛称で呼ばれた。口を開けばユーモアに富んだ話を好んでするミシェル。彼のその知識は本で得る物らしく、基本的には物語の受け売りで、本当に行った事のある場所ではないからか少しリアリティに欠ける。しかし、口の上手いミシェルの話は素直に面白かった。
だからついうっかり忘れてしまう。彼が健常な精神の人間と感覚の違う人間だと言う事を。
ある時、ミシェルは酷く暴れた。当直勤務の予定だった男性スタッフが体調不良で来られなくなり、代わりに女性スタッフ何人かでミシェルの担当に着いた時、ミシェルは布団を引き千切らんばかりの勢いで引き摺り回し、大声を上げた。
「来るな！！この売女共！！お前らの目的は分かっているさ、俺をレイプするつもりなんだ！助けてくれ！レイプされる！レイプだ！レイプ！助けてくれ！！」
ミシェルには即座に拘束具が当てられ、鎮静剤も投与された。あまりの興奮度合いを医師が危険視したからだ。血圧も上がり、心拍も過度に早くなり、血管も切れるのではないかと思うくらい浮き上がっていた。
次の日、スケジュール通りに看護師が様子を見に来ると、彼は一転してただただ困った顔で「これを外してくれないか？」と拘束具の事を言った。
「無理です。まだ無理です」
そう言い放つと、彼は困った様に眉を下げる。
「そうか。いつ外れるかな？」
「先生が判断するので」
「そうか…早く先生が来れば良いのに。退屈だ」
と、聞き分けの良さも見せた。
数日後、また当直勤務予定の看護師が病欠となった。以前の事を踏まえて、慣れている関係のエドが行くのなら良いだろうと結論付けられ、エドは休みを返上してミシェルの元へ向かった。
しかし、普段なら「私のスウィーティー」と呼ぶエドを見て、ミシェルは目を見開くとまた大声を上げた。
「お前の魂胆は知ってる！！俺をファックしに来たんだ！！そうはさせるか！！誰か！！誰か助けてくれ！！」
「ミシェル！？」
「俺の名を気安く呼ぶな！！このビッチが！！お前なんて！！お前なんて！！」
少なからずこれはエドにショックを与えた。自分ならば彼のパニックを引き出さないだろうと思っていたエドはこれに酷く動揺した。同時に、どう言う状況でミシェルが不快を露わにするかも把握した。彼はきっと、予定と違う行動や人が来ると発狂するのだ。特に夜の当直で。夜に目にする人間は誰だとあらかじめ決めていたならば、その人間以外来てはいけないのだ。
普通なら我慢の利くところ、普通なら特に何とも思わない様な事象でミシェルは酷く絶望する。そしてその絶望は、彼の幼少期の歪んだ環境に彼を逆戻りさせ、彼の目の前にいる人間は看護師ではなく「自分を犯そうとする人間」にしか映さなくなるのだ。
彼は度重なる暴行、強姦の容疑で捕まった後、心神喪失と判断され精神科に送られた。彼の口にする罵りを聞けば彼がどんな世界に身を置いていたのかよく分かる。彼にとってこの世界は爛れていて、男も女も関係なく等しく害を与え合う物なのだ。しかし、ならば何故スタッフを「スウィーティー」と呼び、愛でる様に見るのか。
翌日にはまたいつもの紳士に戻る。エドの顔を見たミシェルは「やあ、僕のスウィーティー」と愛おしそうに彼に優しい目を向けた。
エドは、その瞬間ミシェルを『特別な人間』と思う事にした。彼は特別で、普通の人と感覚が違っていて、どんなに見た目が似ていても彼は人に擬態した宇宙からの使者なのだ。
そう思う事で、あまりにもズレ過ぎている感覚の違いも納得しようとした。彼にとって許せないスケジュールの違いが生じると、彼は途端に己のコントロールが出来なくなる。それは極めて病的で暴力的で、紳士な姿もこの空間だからより際立って見えると言うだけの事なのだ。彼は病気だ。
そして、ある時ミシェルは逃げ出す。停電が起き、電力の通わない門を開け、夜の街に繰り出した。しかし、髪を剃り上げ頬が痩けた様な彼の姿が異様に見えたのか、『外』の世界の人間はミシェルに関心を持って近付く事を良しとしなかった。
その頃にはもう職員も探しに出ていたし、軍警も彼の保護の為に動き出していた。孤独のまま終わると思われたミシェルの逃走劇だったが、悲劇だったのは彼を受け入れた男が居たと言う事だった。
男の名はチャールズと言った。チャールズは一目でミシェルを所謂『宇宙からの使者』と見抜き、彼の目線に立って彼に合わせて言葉を交わした。
そしてミシェルが何故こんなにも他人と距離を詰めたがるのかをチャールズは理解した。
「私は、私の愛する人と私の愛する理想の家庭を築きたいんだ。素敵な事だろう？なのに皆私と会話をすると直ぐに嫌な事を言う。私を笑うんだ。馬鹿にして笑う。思うに、彼等は皆電波の攻撃を使って私の衝動を管理している。街に出て店のテレビに私の事がニュースとして出ているんだ。こんなに不快な事は無い。しかし、私は愛する事を諦めていない。私は優しい紳士だからね。だから愛そうと、対話しようとする。でも声を掛ける人間は悉く、おそらく私を監視している組織の人間だ。だから私を傷付ける事も平気で言う。私を侮辱する。あそこにいる二人を見ろ。彼らは私の侮辱を言い合っているに違いない」
この日。普段なら投薬治療もあって大人しいミシェルは、投薬の時間の過ぎたこの瞬間自分を律する事なく赴くままによく喋った。普段薬で抑えられている彼の病的な部分が顔を出してしまい、しかしチャールズはそんな彼を受け入れた。
「僕なら…君の望む花嫁になれるかもしれない」
剰えそう言った。
これは罠だ。
チャールズはチャールズで世界に絶望した男だった。世界に別れを告げるならなるべく人に迷惑を掛けず、とも思っていた。だからミシェルとの出会いは彼にとって最高の好機だった。『人』には迷惑を掛けたくないと思っていたから。『宇宙からの使者』たるミシェルは彼の価値観では『人』では無いからだ。
「君の望む、物静かで君を悪く言わない花嫁に僕がなっても良い」
何故チャールズが世界との別れを望んでいたのかは正確な事は分からない。妻と離婚しただとか子供を亡くしただとか色々言われているがそのどれもに「普通の男」の姿が垣間見えた。
性愛対象も女性で、愛していたのは「健康な普通の女性」。その女性と生活していた男が何故この時ミシェルを望んだのか。それは残酷なまでに身勝手な理由だ。自分の希死念慮に巻き込むのに、真逆の存在である「男色気味の精神病の男」ならば罪悪感が無いからだ。
「良いのかい？」
ミシェルが問う。ミシェルはこの瞬間チャールズを心の底から愛した。そして彼のスケジュールに「チャールズと愛し合う」と言う予定が追加された。
「良いとも。その代わり、条件がある──」
ミアが読めたのはここまでだった。この後に続く展開は、断片的に単語を見ただけでミアの気分を悪くさせるのに充分だったからだ。
ネビロスが何故こんな本を読んでいたのか分からない。ただ、この本には付箋が貼られていた。その付箋は、ミシェルの話の最後のページにあった。
『彼はレイレント精神病院でもかなり異質だった。むしろ、彼以外猟奇的な患者は居なかった。時折柵越しに外の世界の人間とうっかり出会ってしまう、そんな程度だった。ならば、何故この病院はこんなにも噂が立ってしまったのか。それは、こう言うセンシティブな事件にイメージが引っ張られて行くからだ。
実際に居た異質な患者はミシェルのみだった。最初の方で紹介した『ブラザー』と呼ばれた二人の血縁関係の無い患者達。彼等はただ本当の兄弟の様に連れ立って歩く事を好んだだけで行動自体は病的ではない。しかし、一つの際立った例に引っ張られてレイレント精神病院はただの廃病院に留まらない心霊スポットになった。
ミシェルの存在は生も死も身近に置いているかの様に映る。
彼は事件によって『死の花婿スウィーティー』として脚色された。そして脚色された事により、彼の存在は生も死も超越した。そして彼の居たレイレント精神病院は生も死も入り混じる場所として今日まで君臨している。』
生も死も入り混じる場所。
生きながら死を体感出来る場所とも、死者が生者に会える場所とも。
しかし、ミアにはそれがネビロスにとって魅力的に見えていたであろう事を察知した。彼は時折うわごとの様に亡き妻の名を呼んでいたのだから。
「良いとも。その代わり、条件がある──」
チャールズの条件は、まず最初に自分を殺す事だった。自分が息絶えた後なら、自分の体をどの様に扱っても良いと、そう言った。
だから二人でモーテルに行ったが、ミシェルはまず最初にチャールズの首を近くにあった縄を使って力の限り締め上げた。チャールズは異性愛者だ。同性で精神病のあるミシェルと意識のある内に交わるなど耐えられない。内心そう思っていた。
ミシェルの手によって息絶えたチャールズ。ミシェルは彼の体が動かなくなってすぐ、言われた通り彼を愛し始めた。その体が返事をする、しないは関係無かった。彼が「理想の花嫁になってやる」と言った言葉がミシェルの全てだった。
「ありがとう、君の望む通り私の花嫁にしてあげるからね」
そう言って鋏を使って彼の体の改造 を始める。局部を切り取り、体に穴を空け、女性に見立てる。現場は血の海になった。
おそらくチャールズに尋ねたら、あの判断はやはり間違いだったと言うだろう。死後とは言えこの様な残虐な行為を受けるくらいなら誰も巻き込まずに一人旅立てば良かったと思うだろう。
終わりにしたい。でも、一人は恐ろしい。だから巻き込んでも罪悪感に駆られない人間を使う。そんな身勝手さがこの惨状を生んだのだ。
「ありがとう。出産と言うのは、女性は苦痛が多いと言う。だから私はあなたを労るよ。精一杯良き紳士で、良き父で、良き夫で居よう。まずは、私の為に花嫁になるべく頑張ってくれたあなたに愛を込めて──…」
ミシェルは嬉しそうに彼の一部を持参していた巾着の様な袋に仕舞った。
そして、これから彼と愛を育み、理想の子供が産まれる事を期待しながら行為に及ぼうとした。
その時、軍警が部屋の扉を蹴破った。
ミシェルの中で、今は花嫁になったチャールズと愛し合う時間だ。自分の認識した予定を狂わされると言う事を酷く嫌うミシェルは、口汚く罵りながら軍警に近付く。しかし、彼等もミシェルがそう言う性質だと聞かされていたので彼を宥めつつ中に入ろうとする。
そして、部屋の惨状を見た。
人が一人死んでいるとあれば話は変わってくる。迷子の精神病患者の保護としか思って居なかったのに、目の前の血の海に死体を見たショックで吐き戻す者、即座に本部に連絡を取る者、ミシェルへの警戒を強め銃を構える者。
各々がイレギュラーな状況下で緊張状態になったその時、ミシェルは手に持った鋏で一人の軍警に飛び掛かる。ミシェルに押さえ付けられた彼は、揉み合った末目に鋏が貫通するのを感じた。その瞬間モーテルに響き渡る程の悲痛な叫びが響き渡る。
「やめろ！！やめろミシェル！！」
「せっかく愛が、花嫁が目の前にあるんだ！！邪魔をするな！！お前らに私をレイプなどさせない！！私は愛を掴むんだ！！」
これがミシェルの最期の言葉だった。
軍警は発砲、至近距離から放たれた弾丸は真っ直ぐミシェルの側頭部を貫いた。その後も二発、三発と彼の体に撃ち込まれる。
応援が駆け付けた時、ミシェルは全身に十発も弾丸を浴びて既に息絶えていた。
精神病院から逃げ出した患者を探すだけの筈が、この日死者一名、容疑者死亡、軍警一名重症と最悪な結末を迎えたのだ。
クロエからネビロスの残したメッセージの事を聞いたユーシンが不意に呟く。すると青ざめた顔のテディが彼に掴み掛かった。
「ちょっと！！何て！？心スポ！？やめてよぉ！嘘だと言ってぇえ！！」
「ちょ、ちょ、ちょ、テディこそここでそれやめて！！」
襟首を掴みガクガクと揺さぶれば、電車の揺れとテディの荒い扱いで酔ってしまったユーシンが出来上がった。
何とも緊張感のない二人を見て微笑むミアと対照的に険しい顔を向けるクロエ。しかしそれでも、今四人の間に流れる空気は平和だった。
ネビロスの行き先で一番可能性の高そうな場所としてレイレント精神病院が上がったのは、ミアの見付けた本だった。ネビロスが意図的に引いたであろうマーカーのライン。それを追って行けば文章が出来上がる。もしかしたら「繋げれば文章になるのかも」と言うその発想自体が間違いかも知れない。しかし、それでも『レイレント精神病院』には確かに線が引かれていた。何らかの意図があってなのは間違いない。
例の「灰色の幽霊」の噂もラシアスで多く目撃情報があったと言う事は、その付近を彼が通った可能性が高い。レイレントとラシアスは隣町、理屈としては納得出来る。ならば、ここに行くのが一番の近道ではある。
「……良いっすか。緊張感持ってくださいよ三人とも」
まるで緊張感の無い三人に喝を入れる様にクロエが呟く。心霊スポットが何故恐ろしいと言われているか、クロエはここで改めて三人に説明した。
「現在、カンテ国で汚染機械人形の屋内での暴走は認められていません。前線駆除班のパトロールと調査でそれを証明しました。ミクリカの食い倒れでは簡易テントの様なものでも一定の大きさを持ってすれば屋内と見做されると言うのも分かりました。しかし、だからと言って屋内が安全というわけではありません。今度は別の脅威が想定されます」
「クロエちゃん、別の脅威って何？」
「人間です」
クロエの言い切る姿を見てミアもユーシンもテディも不思議そうな顔を浮かべる。若い彼らからしたら同じ人間が怖いと言う事がピンと来なかった。
「廃墟と言うのは、往々にして犯罪の温床でもあるのです。法的な住処を持たぬ者、訳あって人間社会で生きて行けぬ者、悪戯にやってくる不良。あらゆるアングラの住人やアウトロー達も含めて一番来やすい場所と言うのが廃墟なのです。なので機械人形こそ脅威になりませんが、その代わり『何考えてるか分からない』様な、汚染された機械人形と同等に意思の疎通の測れない人間が居る可能性があると頭の隅に置いてください。そしてその場合、彼らは曲がりなりにも人間ですから、何かあったらそれは『破壊』では無くなります。『殺人』に変わりますしただただ『事件』になります。なので何か変化を感じたら外へ逃げる。それを徹底してください。心霊スポットや廃墟とは本来そう言う場所です」
淡々と語るクロエの説明にすっかり黙ってしまう三人。ユーシンは何だか本当に自分が首を突っ込んで良い件かわからなくなってしまったし、テディは歳の近い筈のクロエの見える物事の違いっぷりに少し難しい顔をした。
しかし、ミアだけは決意を新たにした顔で前を見据えていた。
「でも…だとしたらネビロス・ファウストさんはどんな思いで心霊スポットなんて…」
ユーシンが不思議そうに呟く。確かに彼からしてみれば、ネビロスは背も高く美丈夫に見えていたし、悔しいかな可愛らしい恋人も居る。顔色の悪さと物静か過ぎる対応を指摘される事もあるが仕事だって順調にやっている。そんな印象だった。
それはテディもほぼ同じだ。年下の扱いが上手くて、暗い青年に見えるが不思議と他人との適切な距離を保つのが上手い。所謂「見守る」タイプの人間だから、話の中心には行かないものの一歩下がって外から人を見ている。
真面目で、あまり自分から踏み込まず他人にも踏み込ませず、『良い人』ではあるが『良い人』の印象からもまた出られない。だから本心が読めない。
「ネビロスさんは……」
ミアが何かを言い掛けたその時、電車はレイレントに到着した。
「あ、ごめん。何でもない。とにかく急ごう！」
電車の扉が開くと同時に飛び出す四人。
クロエは心配そうにミアを見、ユーシンとテディの二人は端末を操作する。その内強張った顔でテディが端末を弄ると誰かに電話を掛けた。
『ユーシンか！？』
スピーカーにしていないにも関わらずよく聞こえる程の大きな声がミアの耳を掠めた。テディは端末を少し耳から離して嫌そうな顔をすると、少しだけ口元に悪戯な笑みを浮かべながら「ボクだよー」と呟いた。
『……何っっっじゃ紛らわしい！！妾に不用意に連絡するなテディ！！ユーシンから電話が来た時お主と通話中で出れなんだらどうしてくれる！？』
テディは、この電話向こうに居る少女──エンマ・アナンディーンが大層苦手であった。名前にも苗字にも全くその要素が無いのだが熱心な東國マニアで、いつも東國の歴史ドラマの様な話し方をし、調達班の中でも珍しく普段は浴衣を着て出歩いている。あまりに物珍しい彼女の装いに白い目を向ける人間が大半だ。何のキャラの口調真似なのか特徴のある喋り方に何故かやたらと高圧的で悪目立ちする為普段はあまり対人の仕事に回されない。
それよりも金髪でケアの行き届いた長いストレートヘアに緑の目と言うのが誰かを彷彿とさせ、テディはそんな彼女が苦手だった。
「……あのさぁ、端末に表示されてる筈なんだから勝手にユーシンだと思って勝手に勘違いして勝手に当たり散らさないでくれない？」
『それで？お主が連絡とは何用じゃ？』
「……ラシアスの噂の話。灰色の幽霊、豊作みたいじゃん？」
『おお！聞いて驚け！お主の求める幽霊の噂、意外や意外色んな人間が食い付いてきてな！ラシアスからレイレントに移動するに連れて目撃情報増えるのじゃ！何じゃあれは！？妾怖い話苦手と言うのにどんどん目撃情報増えてきおって…まあこれが可愛い可愛いユーシンの頼みだからこそ妾も頑張れると言うも──』
「──あっそありがとじゃーね」
ピッと無慈悲に通話を切るテディ。そして一つ深呼吸するとミアとクロエの方を見てにこりと微笑み、「やっぱりラシアスに多いみたいだよ！」と無邪気にそう言った。
ミアは素直に喜び、クロエはテディとエンマの間に何だか可愛くない因縁が巻き起こっていると気付いたもののとりあえず今は構っていられないので放置しておく事にした。
「……じゃあ、行きますか貴様ら」
「りょーかいー」
「あ、ユーシン君がまだ電話中だよ！」
言うが早いか、電話中のユーシンは戻って来ると嬉しそうに顔を綻ばせた。
「クロエさん！サーラとカールが仕事早めに終わったからこっち来てくれるって！」
「二人増えますか…よし。ではお二人には来て中には入らず、外で見張りをする様に言っておいてください」
サーラとカール兄妹にそう告げ、四人は足を早める。レイレントの駅から歩いて四十分程。早歩きで四キロ程歩けばそれだけで口数も少なくなってしまう。そして、まるで児童書に出てくる花園の様なあたたかく柔らかで清潔な印象の外観が見えて来た。しかしそうなると正にここからが本番なのだ。
クロエを先頭にミア、テディ、ユーシンとで敷地内に入り込む。誰でも入れる程にセキュリティの甘くなっている門。おそらくテロの一件でネットワークが遮断され、警備システムへと繋がるネットワークも切れたままになっているのだろう。
「テロの影響が…まだ使えないんですね…」
門を開け、警報も何も鳴らない様子を見ながらユーシンはそう口にした。
「ライフラインは名前の通り、生きている人間の生活の確保が優先されますからね。ただでさえ人の出入りをもう想定しない建物とあれば優先順位は一番下です」
「なるほど…」
「しかし、今はそちらの方が好都合。入りますよ。よく周りを注意してください。そして密集せず、少し距離を取りながら進みましょう。機械人形の危険に関する可能性は極めて低いですが、頭のおかしい人間が物陰に紛れでもしていたら大事ですから。もし仮に誰か一人でもそう言ったトラブルに見舞われたら…逃げ足の速い一人は一刻も早く外に出て結社に連絡する事。良いですね？」
クロエのその言葉にユーシンもテディも緊張から喉を鳴らす。ミアは終始何かを考える様な顔のまま先へ先へ進んだ。
母屋のドアは自動ドアの様だった。電気が通っておらず、手動で横にスライドさせれば動かせる事を確認してすっと開けると、矢張りここが玄関口だったのだろうと一目で分かる世界が広がった。一瞬カビと埃の匂いが鼻をついたが、受付の様な窓が見え広々と開けた廊下には燦々と陽の光が差し込んでおり、キラキラと反射する埃をうっかり綺麗だと思う程だ。
「……何か、思ったより綺麗な作りだねー」
「ここは来客用の窓口も兼ねてますからね。ここはまだ、私達のよく知る建物の造りでしょう」
「奥に行ったらボク達の知らない造りになるの？」
「私も詳しく無いのでそうは言い切れませんが。少なくとも入院患者のいる病棟はフィックス窓にくらいはなっているでしょうね」
フィックス窓。いわゆる、開閉出来ないはめ殺しの窓。窓を無理に開け、飛び降りたりしない様にその造りになっている事は多い。
かつてここに誰か居たのかと思うとテディもユーシンも不思議な気持ちになった。
「ねえ、クロエさん。本当にファウストさん…ここに居るのかなぁ…？」
「分かりません。だから探すんです。辺りに彼以外の人の気配が無い事を祈りながら探すしか無いです」
しかし人の気配は感じられず、ユーシンもテディもミアも、埃に刺激されくしゃみをしながら中を進んだ。母屋を一通り回る頃には四人の服は埃で薄ら茶色くなっていた。
「うへぇー…ボク、この服結構お気に入りだったのにぃ……」
「ぼく、アレルギーでも無かったはずだけどこんなとこ長く居たら……ふぇっくしゅん！！」
「凄い埃……へくちょにゃあっ！！」
「やはり…あちらですか……」
何故か一人涼しい顔をしているクロエは離れの様な建物を窓越しに見た。目線の先にあるのは、レイレント精神病院の閉鎖病棟。重症患者が入院する為の建物だ。
「……あっちですよ…確か。心霊スポットとしても有名なの…」
ユーシンがおずおずと口を開くと、テディの青い顔が更に青くなった。
「な、何で！？昔何かあったとか！？」
「うん…ぼく、昔興味本位で調べた事あるんだけど…精神病院って昔、何かもう拷問みたいな拘束具とか付けられて療養させられたってイメージからか噂が立ちやすいんだって」
「嫌ーだー！！もうボク行きたくなーいー！！」
ぎゃあぎゃあと騒ぐテディの横でチッと一つ舌打ちをすると、まるで喧騒を吹き飛ばす様にクロエは足元にあった段ボールを勢い良く蹴り飛ばした。段ボールは埃を撒き散らしながらばすんっ！と中身の無い音を立て、一度彼女の足に引っ掛かりその後床にひれ伏した。
「喚くんじゃねぇよ」
「だってー！！」
「ユーシン氏の言う通り、噂が立ちやすい背景と言うのは確かにあります。ミアの発見した本通り下品に言うのなら、ここには『頭のネジが何本も外れ一般的な倫理観から四十度程ズレたところの住人』が実際に存在していました」
「やっぱりー！！」
「……けど、こちらのお姫様はそれで引くつもりは無いみたいですよ？」
クロエの視線の先には、うずうずして今にも飛び出してしまいそうなミアが居た。テディも視線を追って彼女の方を見る。一度足を踏み込まなければ帰らないと言わんばかりの強い表情のミアを見てテディも覚悟を決めた。
「……分かったよ…」
「よし、じゃあ行きますよ……ぶぁっくしょん！ダラボケェ！！」
「……あれ？」
いつかシキから発せられたくしゃみによく似ているそれを思い出し、テディは一瞬頭の中が混乱する。しかし、今はそれどころではないので目の前の事に集中しようと切り替えた。
ごごごごご…と鈍い音を立てるのは錆掛けの滑車だろうか。白い、清廉さに溢れた印象の建物に相応しい扉。先程までの母屋の自動ドアと違い、ここにあるのは手動のスライド式ドアだ。
そんなスライドドア、人の出入りが無くなった今は引っ掛かったり開けづらくなっている。余計に扉そのものの重みを感じ、まるで開かずの間を無理矢理こじ開ける様な嫌な恐怖を感じた。
虎穴に入らずんば虎児を得ずとは言うが、渦中に飛び込む様な無謀さを覚える。
しかし、閉鎖病棟とは言え近代の最先端のものだからかどこか柔らかく穏やかな場所だったであろう事が容易に想像できる。きっと患者達にとって居心地の良い場所だったのだろうと。だから、早く見付けないとネビロスが帰って来ない様なそんな予感がしてしまった。
「……！？」
急にミアが走り出す。その後を慌てて三人で追った。ミア！急に何ですか！？と文句にも似たクロエの珍しい大声が響くが、振り返っていられなかった。
止める声なんて聞けない。埃が立つのも気にせず、段ボールに足を取られるのも気にせず、ただひたすらに走る、走る、走る。
何故そう思ったのか分からない。そもそも、こんな遠いところからそんな些細な音が聞こえる筈がない。空耳かもしれないし、恋しく思ったあまり幻聴が聞こえたのかも。
でも、彼の声を間違う筈がないとも同時に思う。
「はぁっ──はぁっ！！ネビ、さ…んっ…！！」
切れる息、霞む目、呼吸と共に掻き消える声、渇く喉。
その渇いた喉が作り出したどろりとした嫌な唾か、それとも埃か。何かがミアの喉に張り付き思わず咽せ返る。
それでも、彼の名を呼んだ。走る足は止められなかった。
そして、診察室のドアを掴むとガラリと大きな音を立てて開く。
──ミアの視界に、天井の剥き出しの梁から垂らしたロープを首に当てようとするネビロスの姿が飛び込んだ。
「……だめぇっ！！！！」
一瞬時が止まった気がする。そんな空間の中自分だけが動けている様なそんな気になりながら、ミアはただただネビロスに駆け寄った。幸いにも首に縄を通す前だった彼をどんと勢いよく突き飛ばす。足場として使っていた椅子が大きな音を立てて倒れ、ミアとネビロスはその場に倒れ込んだ。ミアには、倒れるその瞬間すらスローモーションに見えた。
『ネビロス・ファウストさんはどんな思いで心霊スポットなんて…』
不思議そうに呟いたユーシンの姿を思い出す。あの時、テディもユーシンも二人揃って理解し難いと言う顔をしていた。きっと二人からしたら、ネビロスは静かで主張をしないけれど自分に無いものを持っている大人と言う印象だったのだろう。
『ネビロスさんは……』
そして答えを薄々勘付いていたミアは言い掛けてその後喋るのを控えた。
ミアはあの時こう続けようとしていた。
『ネビロスさんは…ルミエルさんに会いたいんだと思う…』
──と。
* * *
その本──『精神病院の倫理の外』に残されたヒントを目で追う内にミアは具合が悪くなっていた。内容が一部あまりにも惨たらしい。確かに題名は「倫理の外」と言っているが、およそ人間に出来得る所業なのかと思う様な内容が多々ある。
レイレント精神病院の項目のトリを飾ったミシェル・コットンと言う男。彼の話が一際異彩であり、ここに廃業後心霊の噂を立てた張本人でもある。
ミシェルの項目は、本人への調査ではなく世話をしていた看護師からの証言による物が大きかった。本人の言葉は何一つない。何故なら、彼はもう亡くなっているから。
ミシェルの世話をしていた看護師──彼を仮にエドとしよう。
そんな文言からミシェルと言う男の物語が始まる。
エド曰く、ミシェルは入院したその瞬間から紳士だったらしい。エドは困惑したとあった。聞いた話では、ミシェルは暴行容疑での前科もあり、別の病院から移送される際には拘束具を必要としたと言う。病院を移そうと荷物を纏めれば口汚くスタッフを罵り、暴れるので押さえ付けや鎮静剤を投与しなければならない程だった。しかし、いざ部屋に連れて行き、ある程度居住スペースが出来上がるとミシェルは打って変わって紳士になった。
備え付けの冷蔵庫にあるただのミネラルウォーターをまるで上質な紅茶の様に飲み、音楽を聴きたいと希望するので何が良いのか聞いてやれば蓄音器から発せられるのが似合う様な良い趣味の物を望んできたり。
スキンヘッドに入院着と言う見た目の非現実さはあるものの、それらを大人しく楽しむその姿はエドには大層上品な紳士に見えた。
「やぁ、僕のスウィーティー。今日も君の働きに感謝するよ」
いつだってミシェルはそう言ってエドを労った。ミシェルは人の名前を覚えられなかった。しかし、顔の判別は出来た。人の区別も付いた。だから彼の世話をする中でも特にお気に入りの看護師達は「スウィーティー」「ダーリン」と愛称で呼ばれた。口を開けばユーモアに富んだ話を好んでするミシェル。彼のその知識は本で得る物らしく、基本的には物語の受け売りで、本当に行った事のある場所ではないからか少しリアリティに欠ける。しかし、口の上手いミシェルの話は素直に面白かった。
だからついうっかり忘れてしまう。彼が健常な精神の人間と感覚の違う人間だと言う事を。
ある時、ミシェルは酷く暴れた。当直勤務の予定だった男性スタッフが体調不良で来られなくなり、代わりに女性スタッフ何人かでミシェルの担当に着いた時、ミシェルは布団を引き千切らんばかりの勢いで引き摺り回し、大声を上げた。
「来るな！！この売女共！！お前らの目的は分かっているさ、俺をレイプするつもりなんだ！助けてくれ！レイプされる！レイプだ！レイプ！助けてくれ！！」
ミシェルには即座に拘束具が当てられ、鎮静剤も投与された。あまりの興奮度合いを医師が危険視したからだ。血圧も上がり、心拍も過度に早くなり、血管も切れるのではないかと思うくらい浮き上がっていた。
次の日、スケジュール通りに看護師が様子を見に来ると、彼は一転してただただ困った顔で「これを外してくれないか？」と拘束具の事を言った。
「無理です。まだ無理です」
そう言い放つと、彼は困った様に眉を下げる。
「そうか。いつ外れるかな？」
「先生が判断するので」
「そうか…早く先生が来れば良いのに。退屈だ」
と、聞き分けの良さも見せた。
数日後、また当直勤務予定の看護師が病欠となった。以前の事を踏まえて、慣れている関係のエドが行くのなら良いだろうと結論付けられ、エドは休みを返上してミシェルの元へ向かった。
しかし、普段なら「私のスウィーティー」と呼ぶエドを見て、ミシェルは目を見開くとまた大声を上げた。
「お前の魂胆は知ってる！！俺をファックしに来たんだ！！そうはさせるか！！誰か！！誰か助けてくれ！！」
「ミシェル！？」
「俺の名を気安く呼ぶな！！このビッチが！！お前なんて！！お前なんて！！」
少なからずこれはエドにショックを与えた。自分ならば彼のパニックを引き出さないだろうと思っていたエドはこれに酷く動揺した。同時に、どう言う状況でミシェルが不快を露わにするかも把握した。彼はきっと、予定と違う行動や人が来ると発狂するのだ。特に夜の当直で。夜に目にする人間は誰だとあらかじめ決めていたならば、その人間以外来てはいけないのだ。
普通なら我慢の利くところ、普通なら特に何とも思わない様な事象でミシェルは酷く絶望する。そしてその絶望は、彼の幼少期の歪んだ環境に彼を逆戻りさせ、彼の目の前にいる人間は看護師ではなく「自分を犯そうとする人間」にしか映さなくなるのだ。
彼は度重なる暴行、強姦の容疑で捕まった後、心神喪失と判断され精神科に送られた。彼の口にする罵りを聞けば彼がどんな世界に身を置いていたのかよく分かる。彼にとってこの世界は爛れていて、男も女も関係なく等しく害を与え合う物なのだ。しかし、ならば何故スタッフを「スウィーティー」と呼び、愛でる様に見るのか。
翌日にはまたいつもの紳士に戻る。エドの顔を見たミシェルは「やあ、僕のスウィーティー」と愛おしそうに彼に優しい目を向けた。
エドは、その瞬間ミシェルを『特別な人間』と思う事にした。彼は特別で、普通の人と感覚が違っていて、どんなに見た目が似ていても彼は人に擬態した宇宙からの使者なのだ。
そう思う事で、あまりにもズレ過ぎている感覚の違いも納得しようとした。彼にとって許せないスケジュールの違いが生じると、彼は途端に己のコントロールが出来なくなる。それは極めて病的で暴力的で、紳士な姿もこの空間だからより際立って見えると言うだけの事なのだ。彼は病気だ。
そして、ある時ミシェルは逃げ出す。停電が起き、電力の通わない門を開け、夜の街に繰り出した。しかし、髪を剃り上げ頬が痩けた様な彼の姿が異様に見えたのか、『外』の世界の人間はミシェルに関心を持って近付く事を良しとしなかった。
その頃にはもう職員も探しに出ていたし、軍警も彼の保護の為に動き出していた。孤独のまま終わると思われたミシェルの逃走劇だったが、悲劇だったのは彼を受け入れた男が居たと言う事だった。
男の名はチャールズと言った。チャールズは一目でミシェルを所謂『宇宙からの使者』と見抜き、彼の目線に立って彼に合わせて言葉を交わした。
そしてミシェルが何故こんなにも他人と距離を詰めたがるのかをチャールズは理解した。
「私は、私の愛する人と私の愛する理想の家庭を築きたいんだ。素敵な事だろう？なのに皆私と会話をすると直ぐに嫌な事を言う。私を笑うんだ。馬鹿にして笑う。思うに、彼等は皆電波の攻撃を使って私の衝動を管理している。街に出て店のテレビに私の事がニュースとして出ているんだ。こんなに不快な事は無い。しかし、私は愛する事を諦めていない。私は優しい紳士だからね。だから愛そうと、対話しようとする。でも声を掛ける人間は悉く、おそらく私を監視している組織の人間だ。だから私を傷付ける事も平気で言う。私を侮辱する。あそこにいる二人を見ろ。彼らは私の侮辱を言い合っているに違いない」
この日。普段なら投薬治療もあって大人しいミシェルは、投薬の時間の過ぎたこの瞬間自分を律する事なく赴くままによく喋った。普段薬で抑えられている彼の病的な部分が顔を出してしまい、しかしチャールズはそんな彼を受け入れた。
「僕なら…君の望む花嫁になれるかもしれない」
剰えそう言った。
これは罠だ。
チャールズはチャールズで世界に絶望した男だった。世界に別れを告げるならなるべく人に迷惑を掛けず、とも思っていた。だからミシェルとの出会いは彼にとって最高の好機だった。『人』には迷惑を掛けたくないと思っていたから。『宇宙からの使者』たるミシェルは彼の価値観では『人』では無いからだ。
「君の望む、物静かで君を悪く言わない花嫁に僕がなっても良い」
何故チャールズが世界との別れを望んでいたのかは正確な事は分からない。妻と離婚しただとか子供を亡くしただとか色々言われているがそのどれもに「普通の男」の姿が垣間見えた。
性愛対象も女性で、愛していたのは「健康な普通の女性」。その女性と生活していた男が何故この時ミシェルを望んだのか。それは残酷なまでに身勝手な理由だ。自分の希死念慮に巻き込むのに、真逆の存在である「男色気味の精神病の男」ならば罪悪感が無いからだ。
「良いのかい？」
ミシェルが問う。ミシェルはこの瞬間チャールズを心の底から愛した。そして彼のスケジュールに「チャールズと愛し合う」と言う予定が追加された。
「良いとも。その代わり、条件がある──」
ミアが読めたのはここまでだった。この後に続く展開は、断片的に単語を見ただけでミアの気分を悪くさせるのに充分だったからだ。
ネビロスが何故こんな本を読んでいたのか分からない。ただ、この本には付箋が貼られていた。その付箋は、ミシェルの話の最後のページにあった。
『彼はレイレント精神病院でもかなり異質だった。むしろ、彼以外猟奇的な患者は居なかった。時折柵越しに外の世界の人間とうっかり出会ってしまう、そんな程度だった。ならば、何故この病院はこんなにも噂が立ってしまったのか。それは、こう言うセンシティブな事件にイメージが引っ張られて行くからだ。
実際に居た異質な患者はミシェルのみだった。最初の方で紹介した『ブラザー』と呼ばれた二人の血縁関係の無い患者達。彼等はただ本当の兄弟の様に連れ立って歩く事を好んだだけで行動自体は病的ではない。しかし、一つの際立った例に引っ張られてレイレント精神病院はただの廃病院に留まらない心霊スポットになった。
ミシェルの存在は生も死も身近に置いているかの様に映る。
彼は事件によって『死の花婿スウィーティー』として脚色された。そして脚色された事により、彼の存在は生も死も超越した。そして彼の居たレイレント精神病院は生も死も入り混じる場所として今日まで君臨している。』
生も死も入り混じる場所。
生きながら死を体感出来る場所とも、死者が生者に会える場所とも。
しかし、ミアにはそれがネビロスにとって魅力的に見えていたであろう事を察知した。彼は時折うわごとの様に亡き妻の名を呼んでいたのだから。
※この先、大変グロテスクな描写が続きます。苦手な方はご遠慮下さい。ミアが読めなかったミシェルとチャールズの事件。顛末はこうだ。
「良いとも。その代わり、条件がある──」
チャールズの条件は、まず最初に自分を殺す事だった。自分が息絶えた後なら、自分の体をどの様に扱っても良いと、そう言った。
だから二人でモーテルに行ったが、ミシェルはまず最初にチャールズの首を近くにあった縄を使って力の限り締め上げた。チャールズは異性愛者だ。同性で精神病のあるミシェルと意識のある内に交わるなど耐えられない。内心そう思っていた。
ミシェルの手によって息絶えたチャールズ。ミシェルは彼の体が動かなくなってすぐ、言われた通り彼を愛し始めた。その体が返事をする、しないは関係無かった。彼が「理想の花嫁になってやる」と言った言葉がミシェルの全てだった。
「ありがとう、君の望む通り私の花嫁にしてあげるからね」
そう言って鋏を使って彼の体の
おそらくチャールズに尋ねたら、あの判断はやはり間違いだったと言うだろう。死後とは言えこの様な残虐な行為を受けるくらいなら誰も巻き込まずに一人旅立てば良かったと思うだろう。
終わりにしたい。でも、一人は恐ろしい。だから巻き込んでも罪悪感に駆られない人間を使う。そんな身勝手さがこの惨状を生んだのだ。
「ありがとう。出産と言うのは、女性は苦痛が多いと言う。だから私はあなたを労るよ。精一杯良き紳士で、良き父で、良き夫で居よう。まずは、私の為に花嫁になるべく頑張ってくれたあなたに愛を込めて──…」
ミシェルは嬉しそうに彼の一部を持参していた巾着の様な袋に仕舞った。
そして、これから彼と愛を育み、理想の子供が産まれる事を期待しながら行為に及ぼうとした。
その時、軍警が部屋の扉を蹴破った。
ミシェルの中で、今は花嫁になったチャールズと愛し合う時間だ。自分の認識した予定を狂わされると言う事を酷く嫌うミシェルは、口汚く罵りながら軍警に近付く。しかし、彼等もミシェルがそう言う性質だと聞かされていたので彼を宥めつつ中に入ろうとする。
そして、部屋の惨状を見た。
人が一人死んでいるとあれば話は変わってくる。迷子の精神病患者の保護としか思って居なかったのに、目の前の血の海に死体を見たショックで吐き戻す者、即座に本部に連絡を取る者、ミシェルへの警戒を強め銃を構える者。
各々がイレギュラーな状況下で緊張状態になったその時、ミシェルは手に持った鋏で一人の軍警に飛び掛かる。ミシェルに押さえ付けられた彼は、揉み合った末目に鋏が貫通するのを感じた。その瞬間モーテルに響き渡る程の悲痛な叫びが響き渡る。
「やめろ！！やめろミシェル！！」
「せっかく愛が、花嫁が目の前にあるんだ！！邪魔をするな！！お前らに私をレイプなどさせない！！私は愛を掴むんだ！！」
これがミシェルの最期の言葉だった。
軍警は発砲、至近距離から放たれた弾丸は真っ直ぐミシェルの側頭部を貫いた。その後も二発、三発と彼の体に撃ち込まれる。
応援が駆け付けた時、ミシェルは全身に十発も弾丸を浴びて既に息絶えていた。
精神病院から逃げ出した患者を探すだけの筈が、この日死者一名、容疑者死亡、軍警一名重症と最悪な結末を迎えたのだ。
Bonne nuit mon amour, Bonne nuit mon ange.
平々凡々に人生を送ると言うのが実は一番難しいのではないかとユーシンは思っていた。
自分にはテロに遭った思い出も、父との悲しい別れの記憶もある。きっとテディも、いつも明るく笑っているけど彼にだって何かしら大きな人生の変動があって、まだあまり話した事はないけどきっとクロエも、そしてミアも。
ここに居る皆誰しもに歴史があってその中には悲しい思い出もあるかもしれない。漠然とそう思っていた。
それでもぼくは笑っていられる、それでもぼくは友達がいる。平々凡々とは掛け離れてしまったけど、荒波の様な大きな人生の変動の中でそれでもぼくは幸せだ、と。
だから、今にも消えてしまいそうなネビロスの顔を見た時、ユーシンは「この人は何を纏っているんだろう？」と不安になった。自分達も悲しい思いをした。経験をした。だけど、それでもネビロスのする様な顔は初めて見た。一体彼をこんな風にしてしまう程の悲しみとは、思い出とは何だろう？
「……いかにも、じゃないスか」
クロエの呟きにユーシンとテディは息を呑んだ。
駆け出してしまったミアの後を追い、慌てて到着した三人はその部屋の異様さに息を呑んだ。
倒れた椅子。仰向けに倒れ込むネビロス。そしてその上に重なる様にして突っ伏しているミア。
椅子があったであろうところから伸びているロープの形状を見ればこれがどんな状況か嫌でも理解してしまう。
ユーシンはその瞬間己の人生を少しだけ振り返った。テロがあって父も亡くなり、絶望の淵にいたけど泣いてばかりもいられず結社に辿り着き今こうして友達も居る。
幸せを感じる事も多い。だから、自分は自分でこの人生を手放そうと言う気はない。
だからこそネビロスが分からなかった。そして彼を見て、初めてそう言った闇を抱える人間とは何たるかを見てしまった気がした。
彼はこの人生を捨てようと思うだけの絶望に押されてしまったのか定かではないが、とにかくユーシンが驚愕したのは「今にも命を絶とうとしていた人」の絶望的な顔だった。
確かに自分も波瀾万丈ではあった。でも、正に今命を投げ出そうとしていた人は初めて見たし、故に言葉の掛け方も分からなかった。
「ネビロス…」
それはテディも同じな様で。彼も青い顔でネビロスを見つめ、名前を呼んだきり他の言葉が出ない様だった。
「あの……えっと……」
生まれて初めて人への声掛けを躊躇った。何を言っても傷付けるだけな気がして。
そんなユーシン達の気持ちを知ってか知らずか、ネビロスはぼんやりとした目でミアを胸に抱いたままただ天井を見上げていた。
この行方不明の間何も食べていないのかと思う程に彼の頬は痩けていた。髪の毛も埃だらけで、シャワーも浴びていないのか彼らしく無く脂を纏って不自然に束になっている。珍しくうっすら髭も伸びており別人の様だ。
そんな彼の胸に顔を埋めたまま何言わないミア。ただただ沈黙だけが続く空間を破ったのはネビロスだった。
「……早く、帳尻を合わせないと…」
その消え入りそうな言葉にミアは素早く反応し、ネビロスの肩を掴むと抱き締める力を更に強め、動きを阻害する様に覆い被さった。ネビロスは最早力も入らないのか、ただミアをじっと見つめるだけだ。
「………っ」
ミアの喉から押し殺した声だけが漏れる。誰も何も言えぬ中、普段なら聞き漏らしそうなその声がやたら大きく聞こえた。
どうしたら良いのだろう？つい数日前まで結社でも目立って仲の良かった二人。その片割れたるネビロスは、今や愛する人を前にしてもかつて愛した人と不幸とその帳尻を合わせる事を口にする。
ユーシンはミアの事が心配になった。愛した人にそんな風に言われ、彼女は何を思うだろう？
しかし、ミアはただただぎゅっと強くネビロスを抱きしめるだけだ。
「私は…私は、ただ……申し訳ないのです…」
その時、ネビロスがぼそりと呟いた。
「私は生き残ってしまった。それ以来、ルミエルが来るのです。恐ろしい姿で。きっと私に言いたいんです。「自分を見殺しにした癖に幸せになる事は許さない」と。だから私は、テロの日からずっと幸せな事の後に不幸な事を望んで来ました。そうして帳尻を合わせられた時、ほっとするのです。そうやって均衡を保って来たつもりでした。でも、ヴォイドの姿を見て分からなくなりました」
そう言われ、ユーシンもテディも頭にまず浮かぶのは疑問だった。二人は今回の件でのヴォイドの状態を見ていなかったからだ。クロエも、ミアから話こそ聞いていたが実際に見たわけでは無い。だからか、想像だけではネビロスが何を真に恐ろしがっているのかその理解が出来なかった。
ミアだけは彼の言いたい事が分かるのか、ぐっと堪える様に口を真一文字に結んでいた。
「今回は…たまたまヴォイドだったんです…でも、もしかしたら明日はミアかもしれない…」
そう言うネビロスの瞳からは涙が溢れた。ユーシンもテディも、クロエさえもこれにはギョッとする。成人した大人の男性が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに汚す姿など今まで見た事が無かったからだ。
そして何となく彼の怖れている事が見えた気がした。昨日犠牲になったのは愛した人、明日犠牲になるのは愛している人かもしれない。そんな世界に確かに自分達は身を置いている。
テディとユーシンは隣り合う友達の顔を互いに見合った。そんな実感は無いけれど、明日友人がもしも何かに巻き込まれたら。ネビロスは一度経験しているのだ。愛した人を目の前で奪われる光景を間近で見るだなんて地獄の様な事を。
誰かを好きになった事はあれど、好きになった人に同じ様に好かれて心の底から愛し合うなんて経験は無い。でもネビロスの絶望を想像する事は出来て、そしてその絶望は自分の思っている以上の物で、そう思うとテディとユーシンは何も言えなくなった。
「もしも、もしも明日ミアが…そう思ったら私はただただ辛くなりました…。いつのまにかミアとの未来を夢見る様になっていたのに、妻の事を想うと怖いんです。もう二度と失いたく無いんです。あんな想いは二度と……しかし、物語然り現実もまた良い事と悪い事はやって来ます。その山にも谷にも私は耐えられそうに無いんです……ミアにもしもの事があったら…！」
「……それでアンタが容易に投げ出したら……ミアはどうなるんです…！？アンタが受けて苦しい、生きていられないと称したのと同じだけの悲しみを今度ミアが背負うんですよ…！？」
クロエの言葉にネビロスはピクリと眉を動かした。そして、自暴自棄を浮かべた瞳で天井から伸びる縄を見つめた。
「……だから、私を憎んでくれれば、と」
テディとユーシンは、ミアがネビロスに何をされたかは聞いていない。だがそれでも、ネビロスがミアを何らかの方法で傷付け、自分を憎む様に仕向けた上で命を絶とうとしていたと言う事は分かった。
愛した人を目の前で奪われ、次に誰かを好きになった時未来への希望よりも「また同じ様に奪われるのではないか」と言う絶望の方が彼の中で大きくなった。
きっと大丈夫だよ、生きていればいつか傷は癒える。
それは根拠の無い慰めであり、だからそれで元気になれる人もいれば彼の様に拒絶したくなる人も居るそんな文言だった。彼はここから逃げようとしたのだ。
ミアに憎まれ、恨まれるであろう行動を取ってまで、誰からも同情されない様に身勝手なやり方を貫いてでも上手くこの世界から逃げたかった。
ミアを傷付け、探されない様に手を回す。用意周到さから本気が見え隠れする、そんなネビロスに最早掛けられる言葉はない。ユーシンとテディはおろか、弁が立つクロエでさえ彼に掛ける言葉を無くしていた。
「………私、私は……」
しかし、ミアだけは真っ直ぐに彼を見据えて居た。
「私は…ネビロスさんに生きてて欲しいです……」
ミアはやっとそれだけ振り絞ると目に涙を浮かべる。ネビロスは虚な瞳でそんなミアを見つめていた。
「…何をされても…私、ネビロスさんの事…嫌いになんてなれなかった……！」
しゃくり上げながら一文字一文字噛み締める様に、ポロポロと涙を零し口にする。
「だからもし…！もしネビロスさんが…ネビロスさんが居なくなっちゃったら…！ううん、一度結社から居なくなっちゃって、こうして見つかるまでずっと！ずっと私怖かった…！！辛かった！悲しかった！！……今見つかってほっとしてます…！だからもし、ネビロスさんの行方が分からない状態が何ヶ月も何年も続いたら私──、私……！！」
しかしネビロスの目は虚なまま、ミアの訴えにもぴくりとも反応しない。意図的にしない様にしているとも言えるが、彼の瞳が大きく見開かれたのはミアの肩越しに何か を見た瞬間だった。
「ひぃっ……！！」
ネビロスは頭を抱えるときつく目を瞑る。その様子を見た三人は先程までのネビロスの視線を追ってミアの背後を見るが、そこには壁と、あってシミが点在しているだけだった。
亡き妻が自分を許さない。
そう言って頭を抱えるネビロスには何が見えているのか、想像も出来ない三人はただ彼の異様さを見守るしか無い。
目をキツく瞑るネビロスを見、ミアは泣きそうな顔を浮かべたがふと何かに気付き、目を擦って涙を拭うとそのままふわりと彼の体を抱き締めた。
「ネビロスさん。今、ルミエルさんがいるんですか？」
「あ、ああ……居ます、居ます…！直ぐ近くに…！音がします…！！」
「そうですか…。ネビロスさん、どうして見てあげないんですか？」
「恐ろしい姿を…しているからです…！！」
「恐ろしい姿……。ねぇ、ネビロスさん。今まで一度でもしっかりルミエルさんの事見てあげた事ってありましたか…？」
その言葉に、震えていたネビロスの体がぴたりと止まった。ミアは更に続け様に言葉を紡いで行く。
「…ネビロスさん。本当にルミエルさんは恐ろしい姿をしているんですか？ネビロスさんが『恐ろしい姿かもしれない』と思っているだけで、ルミエルさんはそんな姿していないかもしれないじゃないですか」
「……わ、分かりません…。確かに私は…今まできちんと直視した事はないです…。でも、でも音がするんです！あれは、あれはあの時の彼女の…！！」
そう言うネビロスの手をミアは優しく包むとにこりと微笑む。そして「一緒に見ましょう」と口にした。
「ネビロスさん、もしかしたらルミエルさんは本当に今までは恐ろしい姿でそこにいたのかもしれません。でも、今日は違うかもしれません。今日だからこそ 、違うかもしれません。だから一緒に見ましょう？ルミエルさんに会いたくてここまで来たんじゃないんですか？ここが『生も死も入り混じる場所』だってそう信じたからここに来たんでしょう？もしかしたら今日見えるルミエルさんが本当の姿かもしれないじゃないですか！だから、ちゃんと姿を見てみましょう？」
ミアは真っ直ぐネビロスを見つめ、「ルミエルさんはどこにいますか？」と尋ねる。ネビロスが音のする方を指差すと、ミアはくるりとそちらを向いた。
「…ほら。今は私も一緒です。一緒に見れます。だから、ちゃんと見てあげましょう？」
静かにネビロスの手を取るミア。
ネビロスはミアの手の触れたところから落ち着きを取り戻していき気が付けば体の震えも止まっていた。
ミアの横顔は真っ直ぐ自分と同じ方向を向こうとしている。そう確信したネビロスは、自らも覚悟を決めると薄く見開いていただけの瞼をゆっくりしっかりと持ち上げた。
* * *
ルミエルが好きだった。幼い日々の淡い気持ち、その後大人になってそれが明確に愛に変わったのは本当だ。嘘ではない。
だから、子供が出来ないかもと言われた時も「二人でも良い」と思っていた。
しかし、「血を分けた家族」と言う存在を知らず、それに固執していたルミエルはそんな生半可な慰めでは止まらなかった。
いつしかそんなルミエルへの気持ちは愛も憎も渦巻く様になっていた。
愛している。けれど、この生活の終わりも不意に夢に見る。それだけ状況が辛くて、でも幸せで。どうにかなってしまいそうだった。
そんな事を考えていたからかもしれない。罰が下ったのかもしれない。
目の前でルミエルを失い、失意の底に落とされてネビロスは心の安寧の為に正負の帳尻を合わせようと心に決めた。
子供の頃、祖父母に絵本を読んでもらった時、ネビロスは「何故物語はこんなに面白いの？」と尋ねた。
祖父母は、「主人公の身に降り掛かるのが良い事だけだと人は物足りなくなって飽きてしまう。かと言って主人公の身に降り掛かるのが悪い事だけだと悲し過ぎて見たくなくなる。良い事と悪い事が交互にやってくるのが人の生き方の様で、だから余計に主人公の気持ちになれるから面白いのだ」とそう言った。
ネビロスはその時に幼いながら考えた。良い事の次は悪い事がやってくる。この物語の主人公の様に、交互にやってくるのが人の生き方なのだと。
それ以来自分にとって悪い事が起きると、ネビロスはまだ見ぬ「良い事」を期待して耐えた。まだ皆「良い事」を楽しみに過ごした。
人生は良い事と悪い事が交代でやってくる。だから悪い事があっても良い事を期待すればそれ程苦でもない。
しかしそれは同時に、「良い事」があった時に次に起きる悪い事を想像したネビロスを恐怖させた。この「良い事」に釣り合うだけの「悪い事」がこの後身に降りかかるのだと思うと、それだけでネビロスは頭を痛めた。
子供の頃に理解し構築してしまった価値観は、ネビロスを喜びの少ない子供にした。彼は冷静だとよく言われた。クールな子供だともよく言われた。しかし、つまらない子供だともよく言われた。
あまりにも「良い事」を真正面から幸せに感じ受け止めていたら、次に来たる「悪い事」に延々恐怖を感じていなければならない。ならば、答えは簡単で、「良い事」を「良い事」だと思わなければ良い。幸せと感じなければ良い。
「ネビロスって、私といてもつまらない？」
しかしやはり傍目にはこう思われてしまう。「良い事」を「良い事」だと思わなければ良い。幸せと感じなければ良いなどと言うのは忽ち悪癖となった。
「──と言うわけで、俺はあまり良い事を良い事と捉えなくなったんだよ。ルミエルといてつまらないとかじゃなくて。何と言うか…「絶対に来る」と決まったわけではないけど、人間の人生ってそんなものだから。良い事を認識して悪い事が来るのを待つのって恐ろしいだろ？」
「ネビロスったらいつもそんな事考えてるの？難しく考え過ぎじゃない？」
「…それでもやっぱり、いざ悪い事が起きると「ああ、これか」って思ってしまうんだよ」
「うん…でも大丈夫、そんな事で構えなくても平気よ。絶えない水の流れみたいに、皆循環してるから。良い事があって悪い事があって、それで終わりじゃないじゃない。その後また良い事があって、その繰り返し。だから私達は、その流れに身を任せていれば良いのよ。きっと人生って、上手く流れに乗ったもの勝ちよ」
一人でいたら新しく構築されなかった価値観。ネビロスはそれからしばらく気持ちが楽だった。
「なるほど。流れに乗ったもの勝ちか…」
「そうよ！自然に自然に、流れに身を任せてたらきっと良い事があるわよ！きっと私達にだって、いつか子供が出来る…！」
ルミエルはルミエルで、執着した考えの末の結論だったかもしれない。それでもルミエルの考えはネビロスの新たな価値観として彼の気を楽にさせるのに十分だった。
テロの日。ルミエルを目の前で喪い、ルーチェを再起不能に追いやったネビロスは目覚めてすぐにふと己の人生を振り返りある結論に達した。
人生は正負が交互にやってくる。だが、もしかすると自分の人生は負の要素の方が多いのかもしれない。
そして自分の人生はどう言う訳か死が身近にある。
自分の愛した人達は、皆自分から引き離されてしまう。
ネビロスは、医療班と言う人を救う部署に所属が決まっていながら療養中もプライベートに他人を踏み込ませず距離を開けたがった。
火を見ていると落ち着くと言うのは人間が持っているある種本能めいたもので、人はゆらぎを見ていると落ち着く。それは誰しも同じだ。ただ、機械人形を素手で破壊したと周知されたネビロスだから異様に見えただけだ。
しかしそれも好都合だった。その異様さから「狂人ではないか」と見做され、人が寄り付かなかったのだから。
この調子で仕事でもただそれだけをやって、これ以上苦しい思いをせずに生きよう。そう思っていたネビロスの前に現れたのがミア・フローレスだった。彼女はルミエルによく似ていた。
「あれは何でしょう……？」
衝撃のあまり女性を「あれ」呼ばわりしてしまったネビロスに対し、隣にいたアキヒロは微笑むと何の気無しに言った。
「彼女は本当はああいう子なんです」
ルミエルによく似た、しかし彼女から病んだ様子や陰湿さ、攻撃性を抜いた様な底抜けに明るいミア。一目見て彼女が気になってしまった。
しかし、明るい彼女への興味からなどとそんな理由で気に掛けるのは失礼にも程があるし、何より自分の人生に今後幸せはあってはならないと思っていたネビロスは最初こそ彼女とも距離を取っていた。
なのに、気付けば彼女を恋しく思っていた。
屈託のない笑みが、少し無理する横顔が、素直に泣く彼女が、自分を愛してくれる彼女が。
「ミア。他者と哀しみの軽重を比較する必要はありません。誰が最も辛い喪失か、という問いは決して答えなんて出ません。だから、皆そうだからと言って無理に泣くのを我慢する必要は無いんです」
彼女に対して素直な気持ちで言った言葉。ネビロスはそれを口にした瞬間、これは本当はずっと自分が言われたかった言葉なのだと気が付いた。
ミアと一緒にいると素直な気持ちが素直な言葉となって口を突く。ミアと一緒にいると自分も素直になれる。
誤魔化したり演技したりもせず、彼女となら自分の本当の気持ちを曝け出しても良いのかもしれない。
そう思って前向きになろうとした瞬間、引っ張られる様にあらゆる負の考えが浮かんだ。
びちゃ、びちゃ、ずり、ずりゅりゅ──。
前々から聞こえていたこれがネビロスは何の音だか分からなかった。しかし、その音に連想されるものが頭に浮かんだ瞬間、彼の頭は割れる様に痛んだ。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぺた、ぺた──。
視界の端に女性の足が見える。どうしても直視出来ずにいるが、ネビロスはそれがルミエルではないかと確信した。あの時の、血に塗れたルミエルの姿。
ミアを気に掛け人生を前向きに思う気持ちと同時に「自分はまだルミエルを想い、苦悩せねばならない」と言う自責の様なものが混在する。
そして気が付いた。この足音はルミエルのもので、きっと彼女はあの時の姿のまま彷徨っている。
──ちゃんと見てあげましょう？──
きつく瞑った瞼をより強固にしたくなるが、それでも隣に居るミアは自分の手を取りそう言った。
音が聞こえる度に逃げて目を逸らして来た。その度に痛む頭は、自分の罪悪感の募りだと言う事にも気付いている。
ネビロスは瞼を持ち上げた。そして前を向く。ぼんやりしていた目のピントを合わせ、目の前のものを視界に捉える。
世界が何故か真っ白で、自分以外誰もおらず、壁も無くなり周りは一気に明るくなった。
「ル……ミエル……」
白い世界の中、見た事のない白いワンピースを着たルミエルが少し離れたところに立っていた。怪我も何も無い、元気そうな姿にネビロスは驚いた。
「ふふっ、ネビロスったら何驚いてるの？」
「ル、ルミエル…ルミエル！！」
縺れる足で慌てて駆け寄り彼女の体を抱き締める。彼女の髪の毛に鼻を寄せれば懐かしい愛しい香りが鼻腔をくすぐった。あまりにも愛おしくて、喪った苦しみを同時に思い出して、ネビロスは泣きながらルミエルの体を搔き抱いた。
「ふふふ、やだもう。ネビロスってば強いよ。苦しい」
「ルミエル…！だって、だってもう二度と会えないって…！！俺…！！」
「……私はずっと傍で見てたよ、ネビロスの事。むしろネビロスが私の事勝手に「おっかないもの」って思ってたんじゃない。何度呼んでもずっと怖がってるから、気付いてもらえなくて大変だったわ」
「ごめん、ごめんルミエル…！」
一緒に生活していく上で俺が君の事を「疎ましい」と一瞬でも思ってしまったから、それでこうなってしまったのかも──。
そんな後悔で胸が満たされる。ルミエルはまるでネビロスの心の中が読めるかの様に言葉を紡いだ。
「……生きて一緒に生活していれば、たとえ特別な相手でも疎ましく思ってしまう事もあるわ」
「ルミエル……」
「でも、貴方がそう思ったから今の状況になっているってわけじゃない。全ては偶然、巡り合わせって事じゃない？ある意味では、運が悪かったとも言えるかも」
「そんな…そんな事でルミエルは…！」
「勿論、『運が悪かった』なんて言葉じゃ納得出来ないよ。出来ないけど、でも分かるでしょ？つまり私の言いたい事。こうなってしまったのはネビロスのせいじゃ無いの。絶対に。だから、生き延びた貴方が幸せになっちゃいけないだなんて私は思ってないのよ」
茶色のふわりとした髪が風にそよぐ。
ルミエルの言葉に呆気に取られていると、ネビロスの腰にとすんと何かがぶつかった。
「お父さん！！」
「ルーチェ…？」
「お父さんだー！お父さんだー！」
嬉しそうにそう微笑むルーチェの姿。それは暴走していた時とは全然違う可愛らしいいつもの姿で、ネビロスは思わずルーチェに向き直り今度は彼女を抱き締めた。
「お父さん、ルーチェもぎゅーっ！！」
「ぎゅーっ……」
優しく抱き締め返してくるルーチェの手。この子を力の限り殴り続けてしまった事を思い出し、ネビロスの瞳に後悔の涙が浮かぶ。ルミエル同様ルーチェも読み取れるのか、彼女もまた慰める様にネビロスを抱き締め返した。
「お父さん！高い高いしてー！」
「え？高い高い…？」
「うん！ここ なら出来るよー！」
機械人形は、人型をしているとは言えあくまで機械。体を構成するパーツの都合もあり体の小さな子供型の機械人形でも百キロを優に超える。だから今まで一度もルーチェを抱き上げてやれた事がなかった。
しかし、意を決して持ち上げた彼女は羽が生えたように軽かった。
「ルーチェ……」
「ね！ここ なら出来るのよ！」
「……そうだね…」
「お父さん！ぎゅーっ！」
「ぎゅーっ…」
「ふふ、ルーチェったらお父さんの事大好きなんだから」
そう言ってネビロスの手からルーチェを抱き上げるルミエル。今まで決して見られなかった『ルミエルがルーチェを抱き上げる姿』にネビロスは現実離れした感覚を覚えた。
ここは夢か、妄想か、願望の現れか。
ルミエルは切なそうに微笑むと「さて、どれかしら？」と努めて悪戯っぽく微笑んだ。この世界でネビロスの考えている事は二人に筒抜けの様だ。
「ネビロス。幸せになってね」
唐突にルミエルがそう言った。
「え？」
「貴方は生き残った自分だけが幸せになってはいけないって、そう思っていたでしょう？でもね、残された人に出来る事って、幸せに生き抜く事なのよ？」
「ルミエル……」
「……私の愛しい人」
強がりなルミエルの頬を涙が伝う。そしてルーチェを抱いたままネビロスと唇を重ねた。小刻みに震える湿った唇は彼女の無念さを表している様だった。
「嫌だ……嫌だよルミエル…」
ネビロスは抱き上げられたルーチェごとルミエルの体を抱き締める。もう二度と離れない、離さない様にと力を込めたのに、ルミエルはどこにそんな力があるのか細腕でネビロスの腕を難なく解いてしまった。
「…駄目よ、ネビロス。夢は醒める事が約束されているから夢なのよ」
「………！！」
「大丈夫。罪悪感なんて背負わなくて良い、貴方は貴方の人生を生きて…？きっとまた会えるから。何十年も先の未来で、貴方がどんなに素晴らしい人生を歩んだか。私の愛する貴方がどれだけの人にどれ程愛されたか。また聞かせて欲しいな」
「…ルミエル…！！」
「さあ、ネビロス。目を瞑って？目を瞑ったら貴方は元の世界に戻るわ」
「そんなの…嫌だ…！！」
「……貴方はもう知っている筈よ？愛される喜びと、愛してくれる人の幸せな笑顔を。その人に悲しい顔をさせちゃいけないわ」
「……あ…」
──ミア…？ミア、どこにいるんだ？
不意にミアの事を思い出したネビロスは現実と交わらないこの世界から抜け出す準備が既に出来ていた。
「……そうよ、今は彼女のところに帰らなきゃ。目を瞑って、次に開けたら貴方が今愛している人が目の前にいる筈」
「……ルミエル」
「またね、ネビロス。会えて嬉しかった。私達先に行って待ってるから、後からゆっくり来て？良い？くれぐれもゆっくりゆっくり来るのよ？早足で駆けちゃダメ」
目の乾きに負け、瞼が閉じる。
再び瞼を持ち上げれば、そこは先程までの白い世界とは違う埃まみれの診察室で、目の前には心配そうな顔をしたミアが居た。
「ネビロスさん…？大丈夫ですか…？」
「…ミア」
ネビロスの焦点はやっとミアに合い、ミアを認識する。するとぽろぽろぽろぽろ涙が溢れ、ネビロスのその姿にミアは驚き慌ててしまった。
「ネビロスさん！？ど、どこか痛みますか！？」
「ミア…！！」
ネビロスはミアを力一杯抱き締める。
愛おしい、もう離さないと言わんばかりに力の込められた腕は、ミアの体をキツく締め付けた。
「ミア…！ミア…！ごめんなさい、ごめんなさい…！」
「ネビロスさん……」
「ありがとう…！！ここまで来てくれて、探しに来てくれて…！！」
「……えへへ。ネビロスさん、苦しいですー…」
嗚咽混じりに抱き締めてくるネビロスの姿に込み上げるものがあり、ミアの目からもぽろぽろ涙が零れ落ちた。
少し震える手を伸ばし、ミアも精一杯ネビロスの体を抱き返した。
「…一件落着っすね」
泣いて抱き合う二人を見て貰い泣きしているユーシンとテディの横で涼しい顔のクロエがそう言った。
「うぅっ…！な、何でクロエは泣かないわけ！？あれだけ二人に号泣されたら誘われない！？貰い泣きしない！？」
「私の涙腺は強靭なんで特には」
「冷たっ！！」
「……まだやる事も残ってるし泣いて終わりにしてらんねぇんだよ」
パンパン！と手を叩くクロエ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃに顔を歪ませた四人が彼女の方を見た。
「さぁ、帰りますよ、結社 に」
来る時よりも足取り軽く外に出る。
扉が空いた瞬間、燦々と輝く太陽に眩暈がした。
「あ！クロエさん！こっちこっち！」
精神病院の門の近くでサーラとカールの二人が手を振っている。ボーイッシュで溌剌としたサーラの元気な姿が見えて五人は漸く肩の力が抜けたのだった。
「思ったより随分ボロボロだったんだねファウストさん。ミアちゃん大丈夫？肩貸そうか？」
「カール君ありがとう！平気だよ！」
「わっ！ファウストさん汗臭っ！！」
「こらこらサーラ、そう言うのは言わないもんだよ」
些か失礼染みた物言いのサーラにしっかり者のカール。年相応な二人のやり取りに頬を緩めたその時、やっと肩の力が抜けた気がした。
「ネビロスさん、帰りましょう！！」
ミアが手を伸ばしネビロスの大きな手に重ねる。ネビロスは嬉しそうにくすりと微笑むとミアの指に自分の指を絡めた。
何があっても
私達はきっと
生きることを
やめられない
これ程までに
美しい世界を
どうかどうか
幸せに生きて。
* * *
たった二日しか経っていないだなんて信じられない。けれど、ネビロスの居なくなってからの二日間はとても長くミアには思えた。
結社に戻ってすぐ、見慣れた建物を見て安心したのか極度の疲労もあったネビロスはその場で倒れてしまい医療班からアペルピシアとスレイマンが飛んで来た。
ネビロスは脱水症状を引き起こしていた。
カンテ国は夏場でもそこまで高い気温には達しないが、それでも飲まず食わずと言う行動を取っていたネビロスの体は弱っていた。
人事部と医療班と当人とで確認しなければならない事はあったが、話し合いの結果ネビロスの心身の回復が優先された。五月から医療班に配属になった新人への対応もあると言う事で、ネビロス不在で進められるところを進める事にした。
その代わり、ネビロスが帰還して安心したのか予想に反しミアの回復は著しく、ネビロスと戻った次の日には彼女は職場に復帰した。どころか、当人を交えた事実確認までの一週間、ネビロスの看病も買って出たのである。
「ミア……随分頼もしいな……」
女性は強いな、とボソリと呟いたスレイマンはミアのエネルギッシュな姿に舌を巻いた。
「──では、これら全ては事実と言う事で宜しいですか？クロエ・バートンさん」
社内人事課の課長、副課長の横でペンを走らせながらサリアヌがそう問いかける。クロエはパイプ椅子に座ったまま眉一つ動かさずこくりと頷くと、大人三人の目が光る中背筋を真っ直ぐ伸ばして堂々と口を開いた。
「はい、間違いありません。調達班のメンバーを引き連れ正当な理由なく、然るべき許可を取らず家屋に侵入したのは事実です」
「…調達班メンバーはユーシン・リン、セオドア・トンプソン、サーラ・オルソン、カール・オルソンの四人で間違い無いですね？」
「はい。彼等未成年のメンバー四人を引き連れた侵入を計画したのは私です。なので──」
クロエは一呼吸置く。
目を閉じ、何かを考える様に顔を伏せるが、すぐに真っ直ぐ前に向き直り力強い目を向けた。
「──責任は…全て私にあります」
自分にはテロに遭った思い出も、父との悲しい別れの記憶もある。きっとテディも、いつも明るく笑っているけど彼にだって何かしら大きな人生の変動があって、まだあまり話した事はないけどきっとクロエも、そしてミアも。
ここに居る皆誰しもに歴史があってその中には悲しい思い出もあるかもしれない。漠然とそう思っていた。
それでもぼくは笑っていられる、それでもぼくは友達がいる。平々凡々とは掛け離れてしまったけど、荒波の様な大きな人生の変動の中でそれでもぼくは幸せだ、と。
だから、今にも消えてしまいそうなネビロスの顔を見た時、ユーシンは「この人は何を纏っているんだろう？」と不安になった。自分達も悲しい思いをした。経験をした。だけど、それでもネビロスのする様な顔は初めて見た。一体彼をこんな風にしてしまう程の悲しみとは、思い出とは何だろう？
「……いかにも、じゃないスか」
クロエの呟きにユーシンとテディは息を呑んだ。
駆け出してしまったミアの後を追い、慌てて到着した三人はその部屋の異様さに息を呑んだ。
倒れた椅子。仰向けに倒れ込むネビロス。そしてその上に重なる様にして突っ伏しているミア。
椅子があったであろうところから伸びているロープの形状を見ればこれがどんな状況か嫌でも理解してしまう。
ユーシンはその瞬間己の人生を少しだけ振り返った。テロがあって父も亡くなり、絶望の淵にいたけど泣いてばかりもいられず結社に辿り着き今こうして友達も居る。
幸せを感じる事も多い。だから、自分は自分でこの人生を手放そうと言う気はない。
だからこそネビロスが分からなかった。そして彼を見て、初めてそう言った闇を抱える人間とは何たるかを見てしまった気がした。
彼はこの人生を捨てようと思うだけの絶望に押されてしまったのか定かではないが、とにかくユーシンが驚愕したのは「今にも命を絶とうとしていた人」の絶望的な顔だった。
確かに自分も波瀾万丈ではあった。でも、正に今命を投げ出そうとしていた人は初めて見たし、故に言葉の掛け方も分からなかった。
「ネビロス…」
それはテディも同じな様で。彼も青い顔でネビロスを見つめ、名前を呼んだきり他の言葉が出ない様だった。
「あの……えっと……」
生まれて初めて人への声掛けを躊躇った。何を言っても傷付けるだけな気がして。
そんなユーシン達の気持ちを知ってか知らずか、ネビロスはぼんやりとした目でミアを胸に抱いたままただ天井を見上げていた。
この行方不明の間何も食べていないのかと思う程に彼の頬は痩けていた。髪の毛も埃だらけで、シャワーも浴びていないのか彼らしく無く脂を纏って不自然に束になっている。珍しくうっすら髭も伸びており別人の様だ。
そんな彼の胸に顔を埋めたまま何言わないミア。ただただ沈黙だけが続く空間を破ったのはネビロスだった。
「……早く、帳尻を合わせないと…」
その消え入りそうな言葉にミアは素早く反応し、ネビロスの肩を掴むと抱き締める力を更に強め、動きを阻害する様に覆い被さった。ネビロスは最早力も入らないのか、ただミアをじっと見つめるだけだ。
「………っ」
ミアの喉から押し殺した声だけが漏れる。誰も何も言えぬ中、普段なら聞き漏らしそうなその声がやたら大きく聞こえた。
どうしたら良いのだろう？つい数日前まで結社でも目立って仲の良かった二人。その片割れたるネビロスは、今や愛する人を前にしてもかつて愛した人と不幸とその帳尻を合わせる事を口にする。
ユーシンはミアの事が心配になった。愛した人にそんな風に言われ、彼女は何を思うだろう？
しかし、ミアはただただぎゅっと強くネビロスを抱きしめるだけだ。
「私は…私は、ただ……申し訳ないのです…」
その時、ネビロスがぼそりと呟いた。
「私は生き残ってしまった。それ以来、ルミエルが来るのです。恐ろしい姿で。きっと私に言いたいんです。「自分を見殺しにした癖に幸せになる事は許さない」と。だから私は、テロの日からずっと幸せな事の後に不幸な事を望んで来ました。そうして帳尻を合わせられた時、ほっとするのです。そうやって均衡を保って来たつもりでした。でも、ヴォイドの姿を見て分からなくなりました」
そう言われ、ユーシンもテディも頭にまず浮かぶのは疑問だった。二人は今回の件でのヴォイドの状態を見ていなかったからだ。クロエも、ミアから話こそ聞いていたが実際に見たわけでは無い。だからか、想像だけではネビロスが何を真に恐ろしがっているのかその理解が出来なかった。
ミアだけは彼の言いたい事が分かるのか、ぐっと堪える様に口を真一文字に結んでいた。
「今回は…たまたまヴォイドだったんです…でも、もしかしたら明日はミアかもしれない…」
そう言うネビロスの瞳からは涙が溢れた。ユーシンもテディも、クロエさえもこれにはギョッとする。成人した大人の男性が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに汚す姿など今まで見た事が無かったからだ。
そして何となく彼の怖れている事が見えた気がした。昨日犠牲になったのは愛した人、明日犠牲になるのは愛している人かもしれない。そんな世界に確かに自分達は身を置いている。
テディとユーシンは隣り合う友達の顔を互いに見合った。そんな実感は無いけれど、明日友人がもしも何かに巻き込まれたら。ネビロスは一度経験しているのだ。愛した人を目の前で奪われる光景を間近で見るだなんて地獄の様な事を。
誰かを好きになった事はあれど、好きになった人に同じ様に好かれて心の底から愛し合うなんて経験は無い。でもネビロスの絶望を想像する事は出来て、そしてその絶望は自分の思っている以上の物で、そう思うとテディとユーシンは何も言えなくなった。
「もしも、もしも明日ミアが…そう思ったら私はただただ辛くなりました…。いつのまにかミアとの未来を夢見る様になっていたのに、妻の事を想うと怖いんです。もう二度と失いたく無いんです。あんな想いは二度と……しかし、物語然り現実もまた良い事と悪い事はやって来ます。その山にも谷にも私は耐えられそうに無いんです……ミアにもしもの事があったら…！」
「……それでアンタが容易に投げ出したら……ミアはどうなるんです…！？アンタが受けて苦しい、生きていられないと称したのと同じだけの悲しみを今度ミアが背負うんですよ…！？」
クロエの言葉にネビロスはピクリと眉を動かした。そして、自暴自棄を浮かべた瞳で天井から伸びる縄を見つめた。
「……だから、私を憎んでくれれば、と」
テディとユーシンは、ミアがネビロスに何をされたかは聞いていない。だがそれでも、ネビロスがミアを何らかの方法で傷付け、自分を憎む様に仕向けた上で命を絶とうとしていたと言う事は分かった。
愛した人を目の前で奪われ、次に誰かを好きになった時未来への希望よりも「また同じ様に奪われるのではないか」と言う絶望の方が彼の中で大きくなった。
きっと大丈夫だよ、生きていればいつか傷は癒える。
それは根拠の無い慰めであり、だからそれで元気になれる人もいれば彼の様に拒絶したくなる人も居るそんな文言だった。彼はここから逃げようとしたのだ。
ミアに憎まれ、恨まれるであろう行動を取ってまで、誰からも同情されない様に身勝手なやり方を貫いてでも上手くこの世界から逃げたかった。
ミアを傷付け、探されない様に手を回す。用意周到さから本気が見え隠れする、そんなネビロスに最早掛けられる言葉はない。ユーシンとテディはおろか、弁が立つクロエでさえ彼に掛ける言葉を無くしていた。
「………私、私は……」
しかし、ミアだけは真っ直ぐに彼を見据えて居た。
「私は…ネビロスさんに生きてて欲しいです……」
ミアはやっとそれだけ振り絞ると目に涙を浮かべる。ネビロスは虚な瞳でそんなミアを見つめていた。
「…何をされても…私、ネビロスさんの事…嫌いになんてなれなかった……！」
しゃくり上げながら一文字一文字噛み締める様に、ポロポロと涙を零し口にする。
「だからもし…！もしネビロスさんが…ネビロスさんが居なくなっちゃったら…！ううん、一度結社から居なくなっちゃって、こうして見つかるまでずっと！ずっと私怖かった…！！辛かった！悲しかった！！……今見つかってほっとしてます…！だからもし、ネビロスさんの行方が分からない状態が何ヶ月も何年も続いたら私──、私……！！」
しかしネビロスの目は虚なまま、ミアの訴えにもぴくりとも反応しない。意図的にしない様にしているとも言えるが、彼の瞳が大きく見開かれたのはミアの肩越しに
「ひぃっ……！！」
ネビロスは頭を抱えるときつく目を瞑る。その様子を見た三人は先程までのネビロスの視線を追ってミアの背後を見るが、そこには壁と、あってシミが点在しているだけだった。
亡き妻が自分を許さない。
そう言って頭を抱えるネビロスには何が見えているのか、想像も出来ない三人はただ彼の異様さを見守るしか無い。
目をキツく瞑るネビロスを見、ミアは泣きそうな顔を浮かべたがふと何かに気付き、目を擦って涙を拭うとそのままふわりと彼の体を抱き締めた。
「ネビロスさん。今、ルミエルさんがいるんですか？」
「あ、ああ……居ます、居ます…！直ぐ近くに…！音がします…！！」
「そうですか…。ネビロスさん、どうして見てあげないんですか？」
「恐ろしい姿を…しているからです…！！」
「恐ろしい姿……。ねぇ、ネビロスさん。今まで一度でもしっかりルミエルさんの事見てあげた事ってありましたか…？」
その言葉に、震えていたネビロスの体がぴたりと止まった。ミアは更に続け様に言葉を紡いで行く。
「…ネビロスさん。本当にルミエルさんは恐ろしい姿をしているんですか？ネビロスさんが『恐ろしい姿かもしれない』と思っているだけで、ルミエルさんはそんな姿していないかもしれないじゃないですか」
「……わ、分かりません…。確かに私は…今まできちんと直視した事はないです…。でも、でも音がするんです！あれは、あれはあの時の彼女の…！！」
そう言うネビロスの手をミアは優しく包むとにこりと微笑む。そして「一緒に見ましょう」と口にした。
「ネビロスさん、もしかしたらルミエルさんは本当に今までは恐ろしい姿でそこにいたのかもしれません。でも、今日は違うかもしれません。今日
ミアは真っ直ぐネビロスを見つめ、「ルミエルさんはどこにいますか？」と尋ねる。ネビロスが音のする方を指差すと、ミアはくるりとそちらを向いた。
「…ほら。今は私も一緒です。一緒に見れます。だから、ちゃんと見てあげましょう？」
静かにネビロスの手を取るミア。
ネビロスはミアの手の触れたところから落ち着きを取り戻していき気が付けば体の震えも止まっていた。
ミアの横顔は真っ直ぐ自分と同じ方向を向こうとしている。そう確信したネビロスは、自らも覚悟を決めると薄く見開いていただけの瞼をゆっくりしっかりと持ち上げた。
* * *
ルミエルが好きだった。幼い日々の淡い気持ち、その後大人になってそれが明確に愛に変わったのは本当だ。嘘ではない。
だから、子供が出来ないかもと言われた時も「二人でも良い」と思っていた。
しかし、「血を分けた家族」と言う存在を知らず、それに固執していたルミエルはそんな生半可な慰めでは止まらなかった。
いつしかそんなルミエルへの気持ちは愛も憎も渦巻く様になっていた。
愛している。けれど、この生活の終わりも不意に夢に見る。それだけ状況が辛くて、でも幸せで。どうにかなってしまいそうだった。
そんな事を考えていたからかもしれない。罰が下ったのかもしれない。
目の前でルミエルを失い、失意の底に落とされてネビロスは心の安寧の為に正負の帳尻を合わせようと心に決めた。
子供の頃、祖父母に絵本を読んでもらった時、ネビロスは「何故物語はこんなに面白いの？」と尋ねた。
祖父母は、「主人公の身に降り掛かるのが良い事だけだと人は物足りなくなって飽きてしまう。かと言って主人公の身に降り掛かるのが悪い事だけだと悲し過ぎて見たくなくなる。良い事と悪い事が交互にやってくるのが人の生き方の様で、だから余計に主人公の気持ちになれるから面白いのだ」とそう言った。
ネビロスはその時に幼いながら考えた。良い事の次は悪い事がやってくる。この物語の主人公の様に、交互にやってくるのが人の生き方なのだと。
それ以来自分にとって悪い事が起きると、ネビロスはまだ見ぬ「良い事」を期待して耐えた。まだ皆「良い事」を楽しみに過ごした。
人生は良い事と悪い事が交代でやってくる。だから悪い事があっても良い事を期待すればそれ程苦でもない。
しかしそれは同時に、「良い事」があった時に次に起きる悪い事を想像したネビロスを恐怖させた。この「良い事」に釣り合うだけの「悪い事」がこの後身に降りかかるのだと思うと、それだけでネビロスは頭を痛めた。
子供の頃に理解し構築してしまった価値観は、ネビロスを喜びの少ない子供にした。彼は冷静だとよく言われた。クールな子供だともよく言われた。しかし、つまらない子供だともよく言われた。
あまりにも「良い事」を真正面から幸せに感じ受け止めていたら、次に来たる「悪い事」に延々恐怖を感じていなければならない。ならば、答えは簡単で、「良い事」を「良い事」だと思わなければ良い。幸せと感じなければ良い。
「ネビロスって、私といてもつまらない？」
しかしやはり傍目にはこう思われてしまう。「良い事」を「良い事」だと思わなければ良い。幸せと感じなければ良いなどと言うのは忽ち悪癖となった。
「──と言うわけで、俺はあまり良い事を良い事と捉えなくなったんだよ。ルミエルといてつまらないとかじゃなくて。何と言うか…「絶対に来る」と決まったわけではないけど、人間の人生ってそんなものだから。良い事を認識して悪い事が来るのを待つのって恐ろしいだろ？」
「ネビロスったらいつもそんな事考えてるの？難しく考え過ぎじゃない？」
「…それでもやっぱり、いざ悪い事が起きると「ああ、これか」って思ってしまうんだよ」
「うん…でも大丈夫、そんな事で構えなくても平気よ。絶えない水の流れみたいに、皆循環してるから。良い事があって悪い事があって、それで終わりじゃないじゃない。その後また良い事があって、その繰り返し。だから私達は、その流れに身を任せていれば良いのよ。きっと人生って、上手く流れに乗ったもの勝ちよ」
一人でいたら新しく構築されなかった価値観。ネビロスはそれからしばらく気持ちが楽だった。
「なるほど。流れに乗ったもの勝ちか…」
「そうよ！自然に自然に、流れに身を任せてたらきっと良い事があるわよ！きっと私達にだって、いつか子供が出来る…！」
ルミエルはルミエルで、執着した考えの末の結論だったかもしれない。それでもルミエルの考えはネビロスの新たな価値観として彼の気を楽にさせるのに十分だった。
テロの日。ルミエルを目の前で喪い、ルーチェを再起不能に追いやったネビロスは目覚めてすぐにふと己の人生を振り返りある結論に達した。
人生は正負が交互にやってくる。だが、もしかすると自分の人生は負の要素の方が多いのかもしれない。
そして自分の人生はどう言う訳か死が身近にある。
自分の愛した人達は、皆自分から引き離されてしまう。
ネビロスは、医療班と言う人を救う部署に所属が決まっていながら療養中もプライベートに他人を踏み込ませず距離を開けたがった。
火を見ていると落ち着くと言うのは人間が持っているある種本能めいたもので、人はゆらぎを見ていると落ち着く。それは誰しも同じだ。ただ、機械人形を素手で破壊したと周知されたネビロスだから異様に見えただけだ。
しかしそれも好都合だった。その異様さから「狂人ではないか」と見做され、人が寄り付かなかったのだから。
この調子で仕事でもただそれだけをやって、これ以上苦しい思いをせずに生きよう。そう思っていたネビロスの前に現れたのがミア・フローレスだった。彼女はルミエルによく似ていた。
「あれは何でしょう……？」
衝撃のあまり女性を「あれ」呼ばわりしてしまったネビロスに対し、隣にいたアキヒロは微笑むと何の気無しに言った。
「彼女は本当はああいう子なんです」
ルミエルによく似た、しかし彼女から病んだ様子や陰湿さ、攻撃性を抜いた様な底抜けに明るいミア。一目見て彼女が気になってしまった。
しかし、明るい彼女への興味からなどとそんな理由で気に掛けるのは失礼にも程があるし、何より自分の人生に今後幸せはあってはならないと思っていたネビロスは最初こそ彼女とも距離を取っていた。
なのに、気付けば彼女を恋しく思っていた。
屈託のない笑みが、少し無理する横顔が、素直に泣く彼女が、自分を愛してくれる彼女が。
「ミア。他者と哀しみの軽重を比較する必要はありません。誰が最も辛い喪失か、という問いは決して答えなんて出ません。だから、皆そうだからと言って無理に泣くのを我慢する必要は無いんです」
彼女に対して素直な気持ちで言った言葉。ネビロスはそれを口にした瞬間、これは本当はずっと自分が言われたかった言葉なのだと気が付いた。
ミアと一緒にいると素直な気持ちが素直な言葉となって口を突く。ミアと一緒にいると自分も素直になれる。
誤魔化したり演技したりもせず、彼女となら自分の本当の気持ちを曝け出しても良いのかもしれない。
そう思って前向きになろうとした瞬間、引っ張られる様にあらゆる負の考えが浮かんだ。
びちゃ、びちゃ、ずり、ずりゅりゅ──。
前々から聞こえていたこれがネビロスは何の音だか分からなかった。しかし、その音に連想されるものが頭に浮かんだ瞬間、彼の頭は割れる様に痛んだ。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぺた、ぺた──。
視界の端に女性の足が見える。どうしても直視出来ずにいるが、ネビロスはそれがルミエルではないかと確信した。あの時の、血に塗れたルミエルの姿。
ミアを気に掛け人生を前向きに思う気持ちと同時に「自分はまだルミエルを想い、苦悩せねばならない」と言う自責の様なものが混在する。
そして気が付いた。この足音はルミエルのもので、きっと彼女はあの時の姿のまま彷徨っている。
──ちゃんと見てあげましょう？──
きつく瞑った瞼をより強固にしたくなるが、それでも隣に居るミアは自分の手を取りそう言った。
音が聞こえる度に逃げて目を逸らして来た。その度に痛む頭は、自分の罪悪感の募りだと言う事にも気付いている。
ネビロスは瞼を持ち上げた。そして前を向く。ぼんやりしていた目のピントを合わせ、目の前のものを視界に捉える。
世界が何故か真っ白で、自分以外誰もおらず、壁も無くなり周りは一気に明るくなった。
「ル……ミエル……」
白い世界の中、見た事のない白いワンピースを着たルミエルが少し離れたところに立っていた。怪我も何も無い、元気そうな姿にネビロスは驚いた。
「ふふっ、ネビロスったら何驚いてるの？」
「ル、ルミエル…ルミエル！！」
縺れる足で慌てて駆け寄り彼女の体を抱き締める。彼女の髪の毛に鼻を寄せれば懐かしい愛しい香りが鼻腔をくすぐった。あまりにも愛おしくて、喪った苦しみを同時に思い出して、ネビロスは泣きながらルミエルの体を搔き抱いた。
「ふふふ、やだもう。ネビロスってば強いよ。苦しい」
「ルミエル…！だって、だってもう二度と会えないって…！！俺…！！」
「……私はずっと傍で見てたよ、ネビロスの事。むしろネビロスが私の事勝手に「おっかないもの」って思ってたんじゃない。何度呼んでもずっと怖がってるから、気付いてもらえなくて大変だったわ」
「ごめん、ごめんルミエル…！」
一緒に生活していく上で俺が君の事を「疎ましい」と一瞬でも思ってしまったから、それでこうなってしまったのかも──。
そんな後悔で胸が満たされる。ルミエルはまるでネビロスの心の中が読めるかの様に言葉を紡いだ。
「……生きて一緒に生活していれば、たとえ特別な相手でも疎ましく思ってしまう事もあるわ」
「ルミエル……」
「でも、貴方がそう思ったから今の状況になっているってわけじゃない。全ては偶然、巡り合わせって事じゃない？ある意味では、運が悪かったとも言えるかも」
「そんな…そんな事でルミエルは…！」
「勿論、『運が悪かった』なんて言葉じゃ納得出来ないよ。出来ないけど、でも分かるでしょ？つまり私の言いたい事。こうなってしまったのはネビロスのせいじゃ無いの。絶対に。だから、生き延びた貴方が幸せになっちゃいけないだなんて私は思ってないのよ」
茶色のふわりとした髪が風にそよぐ。
ルミエルの言葉に呆気に取られていると、ネビロスの腰にとすんと何かがぶつかった。
「お父さん！！」
「ルーチェ…？」
「お父さんだー！お父さんだー！」
嬉しそうにそう微笑むルーチェの姿。それは暴走していた時とは全然違う可愛らしいいつもの姿で、ネビロスは思わずルーチェに向き直り今度は彼女を抱き締めた。
「お父さん、ルーチェもぎゅーっ！！」
「ぎゅーっ……」
優しく抱き締め返してくるルーチェの手。この子を力の限り殴り続けてしまった事を思い出し、ネビロスの瞳に後悔の涙が浮かぶ。ルミエル同様ルーチェも読み取れるのか、彼女もまた慰める様にネビロスを抱き締め返した。
「お父さん！高い高いしてー！」
「え？高い高い…？」
「うん！
機械人形は、人型をしているとは言えあくまで機械。体を構成するパーツの都合もあり体の小さな子供型の機械人形でも百キロを優に超える。だから今まで一度もルーチェを抱き上げてやれた事がなかった。
しかし、意を決して持ち上げた彼女は羽が生えたように軽かった。
「ルーチェ……」
「ね！
「……そうだね…」
「お父さん！ぎゅーっ！」
「ぎゅーっ…」
「ふふ、ルーチェったらお父さんの事大好きなんだから」
そう言ってネビロスの手からルーチェを抱き上げるルミエル。今まで決して見られなかった『ルミエルがルーチェを抱き上げる姿』にネビロスは現実離れした感覚を覚えた。
ここは夢か、妄想か、願望の現れか。
ルミエルは切なそうに微笑むと「さて、どれかしら？」と努めて悪戯っぽく微笑んだ。この世界でネビロスの考えている事は二人に筒抜けの様だ。
「ネビロス。幸せになってね」
唐突にルミエルがそう言った。
「え？」
「貴方は生き残った自分だけが幸せになってはいけないって、そう思っていたでしょう？でもね、残された人に出来る事って、幸せに生き抜く事なのよ？」
「ルミエル……」
「……私の愛しい人」
強がりなルミエルの頬を涙が伝う。そしてルーチェを抱いたままネビロスと唇を重ねた。小刻みに震える湿った唇は彼女の無念さを表している様だった。
「嫌だ……嫌だよルミエル…」
ネビロスは抱き上げられたルーチェごとルミエルの体を抱き締める。もう二度と離れない、離さない様にと力を込めたのに、ルミエルはどこにそんな力があるのか細腕でネビロスの腕を難なく解いてしまった。
「…駄目よ、ネビロス。夢は醒める事が約束されているから夢なのよ」
「………！！」
「大丈夫。罪悪感なんて背負わなくて良い、貴方は貴方の人生を生きて…？きっとまた会えるから。何十年も先の未来で、貴方がどんなに素晴らしい人生を歩んだか。私の愛する貴方がどれだけの人にどれ程愛されたか。また聞かせて欲しいな」
「…ルミエル…！！」
「さあ、ネビロス。目を瞑って？目を瞑ったら貴方は元の世界に戻るわ」
「そんなの…嫌だ…！！」
「……貴方はもう知っている筈よ？愛される喜びと、愛してくれる人の幸せな笑顔を。その人に悲しい顔をさせちゃいけないわ」
「……あ…」
──ミア…？ミア、どこにいるんだ？
不意にミアの事を思い出したネビロスは現実と交わらないこの世界から抜け出す準備が既に出来ていた。
「……そうよ、今は彼女のところに帰らなきゃ。目を瞑って、次に開けたら貴方が今愛している人が目の前にいる筈」
「……ルミエル」
「またね、ネビロス。会えて嬉しかった。私達先に行って待ってるから、後からゆっくり来て？良い？くれぐれもゆっくりゆっくり来るのよ？早足で駆けちゃダメ」
目の乾きに負け、瞼が閉じる。
再び瞼を持ち上げれば、そこは先程までの白い世界とは違う埃まみれの診察室で、目の前には心配そうな顔をしたミアが居た。
「ネビロスさん…？大丈夫ですか…？」
「…ミア」
ネビロスの焦点はやっとミアに合い、ミアを認識する。するとぽろぽろぽろぽろ涙が溢れ、ネビロスのその姿にミアは驚き慌ててしまった。
「ネビロスさん！？ど、どこか痛みますか！？」
「ミア…！！」
ネビロスはミアを力一杯抱き締める。
愛おしい、もう離さないと言わんばかりに力の込められた腕は、ミアの体をキツく締め付けた。
「ミア…！ミア…！ごめんなさい、ごめんなさい…！」
「ネビロスさん……」
「ありがとう…！！ここまで来てくれて、探しに来てくれて…！！」
「……えへへ。ネビロスさん、苦しいですー…」
嗚咽混じりに抱き締めてくるネビロスの姿に込み上げるものがあり、ミアの目からもぽろぽろ涙が零れ落ちた。
少し震える手を伸ばし、ミアも精一杯ネビロスの体を抱き返した。
「…一件落着っすね」
泣いて抱き合う二人を見て貰い泣きしているユーシンとテディの横で涼しい顔のクロエがそう言った。
「うぅっ…！な、何でクロエは泣かないわけ！？あれだけ二人に号泣されたら誘われない！？貰い泣きしない！？」
「私の涙腺は強靭なんで特には」
「冷たっ！！」
「……まだやる事も残ってるし泣いて終わりにしてらんねぇんだよ」
パンパン！と手を叩くクロエ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃに顔を歪ませた四人が彼女の方を見た。
「さぁ、帰りますよ、
来る時よりも足取り軽く外に出る。
扉が空いた瞬間、燦々と輝く太陽に眩暈がした。
「あ！クロエさん！こっちこっち！」
精神病院の門の近くでサーラとカールの二人が手を振っている。ボーイッシュで溌剌としたサーラの元気な姿が見えて五人は漸く肩の力が抜けたのだった。
「思ったより随分ボロボロだったんだねファウストさん。ミアちゃん大丈夫？肩貸そうか？」
「カール君ありがとう！平気だよ！」
「わっ！ファウストさん汗臭っ！！」
「こらこらサーラ、そう言うのは言わないもんだよ」
些か失礼染みた物言いのサーラにしっかり者のカール。年相応な二人のやり取りに頬を緩めたその時、やっと肩の力が抜けた気がした。
「ネビロスさん、帰りましょう！！」
ミアが手を伸ばしネビロスの大きな手に重ねる。ネビロスは嬉しそうにくすりと微笑むとミアの指に自分の指を絡めた。
何があっても
私達はきっと
生きることを
やめられない
これ程までに
美しい世界を
どうかどうか
幸せに生きて。
* * *
たった二日しか経っていないだなんて信じられない。けれど、ネビロスの居なくなってからの二日間はとても長くミアには思えた。
結社に戻ってすぐ、見慣れた建物を見て安心したのか極度の疲労もあったネビロスはその場で倒れてしまい医療班からアペルピシアとスレイマンが飛んで来た。
ネビロスは脱水症状を引き起こしていた。
カンテ国は夏場でもそこまで高い気温には達しないが、それでも飲まず食わずと言う行動を取っていたネビロスの体は弱っていた。
人事部と医療班と当人とで確認しなければならない事はあったが、話し合いの結果ネビロスの心身の回復が優先された。五月から医療班に配属になった新人への対応もあると言う事で、ネビロス不在で進められるところを進める事にした。
その代わり、ネビロスが帰還して安心したのか予想に反しミアの回復は著しく、ネビロスと戻った次の日には彼女は職場に復帰した。どころか、当人を交えた事実確認までの一週間、ネビロスの看病も買って出たのである。
「ミア……随分頼もしいな……」
女性は強いな、とボソリと呟いたスレイマンはミアのエネルギッシュな姿に舌を巻いた。
「──では、これら全ては事実と言う事で宜しいですか？クロエ・バートンさん」
社内人事課の課長、副課長の横でペンを走らせながらサリアヌがそう問いかける。クロエはパイプ椅子に座ったまま眉一つ動かさずこくりと頷くと、大人三人の目が光る中背筋を真っ直ぐ伸ばして堂々と口を開いた。
「はい、間違いありません。調達班のメンバーを引き連れ正当な理由なく、然るべき許可を取らず家屋に侵入したのは事実です」
「…調達班メンバーはユーシン・リン、セオドア・トンプソン、サーラ・オルソン、カール・オルソンの四人で間違い無いですね？」
「はい。彼等未成年のメンバー四人を引き連れた侵入を計画したのは私です。なので──」
クロエは一呼吸置く。
目を閉じ、何かを考える様に顔を伏せるが、すぐに真っ直ぐ前に向き直り力強い目を向けた。
「──責任は…全て私にあります」
Après la pluie, le beau temps
カツカツカツと革靴が音を立てる。日も落ち、薄暗い病院の廊下をネビロスは歩いていた。病院のスタッフからしてみればもう消灯時間のスケジュールだが、彼等 はそんな事関係無しに動き回っている。
ネビロスはまるで見学する様に廊下を進む。すると、角を曲がった瞬間目の前にスキンヘッドで痩せこけた入院着の男が飛び出してきた。この男は、ネビロスが此処に来て定義付けた彼等 の中でも一般的な男だった。
「………」
こんな光景、以前にも見た事がある。
ネビロスが周りに目を向けるとそこには一定の感覚で柱に頭をぶつけている男、ひたすら壁に手を這わせひたひたと触りながら壁に沿って廊下の端から端まで歩くのを繰り返している男が居た。
不意に自分の背後に気を配る。思った通り、全裸で異様な程に病的なのに何故か筋骨隆々な男が二人居た。
ネビロスは足を止めると男達が近付いてくるのを待った。
「可哀想に、マフィンちゃん」
「可哀想に、ハニー」
「愛してあげよう、マフィンちゃん」
「愛してあげよう、ハニー」
すぐ近くまで近付くと男達はネビロスの体を弄りながらそう言った。しかし、ネビロスはもう嫌悪の顔を見せなかった。
「……レイレント精神病院の『ブラザー』ことモーフィン・コールとテリー・クリアウォーターですよね…貴方達の『元』だった人達は」
ネビロスのその言葉に男達はぴくりと反応し、体を弄る手を止めた。ネビロスは目を伏せながら深く息を吐き、二人の毛髪一つない頭を優しく撫でた。
「私は、私の造り上げた恐ろしいルミエルをもう怖れません。目を逸らして、快楽 に逃げようと言うのはもう考えません。だから、ごめんなさい。きっと貴方達は私の…現実から逃げようとする防衛反応が作り上げた幻なのでしょうね。でも、もうその必要は無いんです」
先程まで強引に手を動かしていた、ネビロス曰く『防衛反応が作り上げた逃げの象徴』こと二人はボロボロ涙を流し始める。
産みの親たるネビロスから「要らない」と言われたのだ。その絶望を想像するだけでネビロスは心が痛かった。
「……私は、ミアを愛しています。彼女と未来を見つめる決意をしました。ルミエルも、私の中でもう悔恨と悲哀の象徴ではありません。忘れたくない…愛しい記憶として受け止めていますから。だから貴方達はもう、心配してくれなくて大丈夫です」
努めて優しくそう言うと、涙を流したまま二人はネビロスの手に擦り寄る。まるで幼児の様に頬擦りする二人は、ひとしきりネビロスに甘えると「良かった」と一言呟いた。
そして視界は暗転し、次に目を開けるとそこは雑多に置かれた工具や段ボールの目立つ部屋だった。この部屋にも見覚えがある。
「お目覚めかな？スウィーティー」
そう言って優雅に紅茶を啜る彼。過去に一度会った時と違い、今度はその手に物騒な鋏も得体の知れぬ袋も持っていなかった。
「……ふぅ。あれは君を『花嫁』にする為の道具だったのに。君が違う方向を向いてしまったから私の手元から鋏が消えてしまった。もう、君の汚らしい肉を削いで美しい花嫁にする夢は叶わない様だ」
「そうですね、残念ながら。その『汚らしい肉』が無いと愛する人と繋がれないのでね」
「……ん？意味分かってる？君もそう言う事を口走るの？」
「………」
そんなネタを口走るの？と、純粋に不思議そうな目を向ける。ネビロスはわざとらしく顎に手を当てて少し考える素振りを見せると、「すみません、矢張り私は下劣に揶揄する話は好きじゃないですね」と笑った。そこには最早ただ毛嫌いしているでも無く、一度受け入れ咀嚼した上で上手く拒絶する様なそんな巧さや余裕が見え隠れしていた。
「良い性格しているよ、僕のダーリン。君はもう僕の用意した君の好きな曲も、君の好きな『彼女』の服も、君の好きな『彼女』の匂いのするものも、全部用無しの様だ」
「そうですね。貴方に身を委ねる必要は無くなりました。私の死に場所は貴方の手の中ではない。勝手なイメージで縄と同一視して申し訳なかったですね。貴方の元となったのは、『精神病院の倫理の外』のミシェル・コットンですね」
「いや、分からないよ？僕は本物のミシェル・コットンかもしれないしね？」
「いいえ、貴方は本物のミシェル・コットンでは無いです。と言うか、人ですら無い筈です。貴方も私が防衛反応から作り上げてしまった幻ですよね」
「……手厳しいね。僕のスウィーティーは」
「おかげさまで……貴方達がいなくても前を向ける様になりましたので」
「辛くは無いのかい？」
「辛い時もあると思います。だけど、今のままで良いとも思えないので」
ネビロスがそう言い切ると、ミシェルを元にした男は寂しそうにふっと笑った。しかし、どこか嬉しそうに微笑んだ様な笑みにもまた見えた。
「そうか…君はもう、今までの君じゃないんだね」
そして空が白んだ。
「ネビロスさん…？大丈夫ですか…？」
目を開けたネビロスは、視界の端に心配そうな顔をして此方を覗き込むミアがいる事に気が付いた。
「ミア…？ここは……？」
「ここはネビロスさんのお部屋です。ネビロスさん、結社に着いたら倒れちゃったんですよ？」
「…そこまでは覚えています」
「その後、スレ先生とエル先生が来てくれて、ネビロスさんを診察してお部屋に運んでくれました！」
ネビロスは力の入らない体で少し身を捩る。ベタベタとした体でベッドに入っていると言う事実に気付くと嫌そうに顔を顰めた。
「……あの精神病院では気にならなかったのに、自室に来ると妙に気になりますね…」
「ネビロスさん？」
「シャワーを浴びたいです……さっぱりしたい…」
そう言ってベッドから降りようとする。力の入らないネビロスの体をミアが支えると、成り行きから彼女の肩に手を回したネビロスは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……結社を出てから全くシャワー浴びていなかったので…臭うでしょう？」
「全然！気になりません！」
「私が気にします……」
「ネビロスさんの匂いですし！！」
「……一度気になったらもう気にしないのは難しいです…」
そう言いながらも力が入らず、思わずミアに体を預けてしまう。そしてその時、ネビロスはミアにした事を思い出し、慌てて力を振り絞り彼女の肩に回していた手を外した。
「ネビロスさん？」
「すみません…ミア」
今更自分が彼女に触れる資格など無いのではないか。そう思い顔を伏せる。
結果として嫌われたくて、憎まれたくてした行動は全て裏目に出てしまった。ミアの持つ愛はそんな程度で嫌ったり憎んだりするものではなかった。それが嬉しくもあり、申し訳なくもあり。
しかし心のどこかでこの状況に期待していたのもまた事実だ。その程度で憎まないのかもと思うからこそ、否、それでも残しておきたくて本にメッセージを書き残した。
もしもミアが自分を嫌わずに居てくれたら、もしもまだ自分を忘れずに居てくれたら、憎しみではなく愛する気持ちが占めていたら。
浅はかな自分の「愛されたい」と言う素直になれない甘えがミアに居場所を残した。結果としてそれら全てが良い方向に転がり、偶然にも上手く噛み合ってくれたお陰でネビロスはこうしてミアと再び会えたわけだがどうにもそれも含めて居た堪れない。
ミアはそんなネビロスの頭に小さい子にする様に手を添え、そしてわしゃわしゃと撫で回した。
「ミ、ミア…？」
「ネビロスさん、一緒にお風呂入りましょう！」
力強いミアの声。ネビロスは忙しなく目をキョロキョロと動かすと、小さな声で「お願いします」と呟いていた。もうお断りを入れる程の力はネビロスには無かった。
* * *
「さて！埃とか付いてると思うんでシャンプーは二回しましょうね！」
ふんふんと鼻歌混じりにシャワーを流すミア。バスタブ付きの広いシャワールームは家族寮に付いているからとタイガの部屋を借りる事になった。ネビロスが座っていられる様にと言うミアなりの配慮だ。
耐水性の高いお風呂用の椅子にネビロスを座らせ、服の袖と裾を捲り髪を一つに纏め濡れない様にしたミアがその後ろから風呂の世話をする。
自分だけ裸で居るのは少しどころかかなり恥ずかしい気分になるし、何よりこれは未来の介護の姿かと想像してネビロスは少しだけ落ち込んだ。
「……ごめんなさい、私嘘を吐きました」
不意にミアがそう口にした。ネビロスは驚いた顔のまま耳をそば立てる。嘘とはどこの何だろう？と少し落ち着かずに居ると、ミアは寂しそうに微笑んだ。
「私…あの時ネビロスさんに『一緒に見ましょう』って言いましたよね。『一緒に見れます』って、『ルミエルさんはどこですか？』って。でも本当は、私には何も見えて無かったんです。ネビロスさんが指差した先をただ目で追っただけなんです」
ルミエルの本当の姿を確認する為に、「ちゃんと見てあげましょう？」と手を取ってくれたミア。ネビロスも分かっている。アレはきっと自分の罪悪感が成した幻で、ルミエルもルーチェも本当はもうどこにも居ないのだと。
特にルミエルは、罪悪感と彼女への歪んだ認識からずっと酷い姿を思い浮かべてしまっていた。自分の妄想かもしれない。けれど、やっと綺麗な姿を真っ直ぐ見てあげられるそんなチャンスをミアはくれたのだ。感謝こそすれ誰がそれを責められるだろうか。
「ネビロスさんが壁しか見えないところを真っ直ぐ見つめてしばらくボーッとして、もう一回私の方を見てくれるまでドキドキしてたんです。ネビロスさん、そのままどこか行ってしまいそうで……怖くって」
ずぶ濡れの体がピクリと反応する。恥を捨てて濡れた体で後ろを向けば、そこではシャワーを持ったまま泣きそうな顔をしていたミアがとうとう涙を溢した。
「ミア……私の事を憎んでいませんか…？」
「……私、本当に駄目でした。あんな事されたら怖くなるかな？って思ったのに…ネビロスさんの事全然怖くなれないんです…嫌いになれないんです…」
「でも…私のせいであんな思いを──……」
いや、これ以上言うのはやめよう。それよりも、彼女を安心させる方が先だ。
ネビロスはスッと手を伸ばすとゆっくりと優しくミアの頭に触れた。ネビロスの心配をよそに怖がる様子も拒絶する様子もないミアはぱちくりと不思議そうに瞬きを一つ。ネビロスは体に触れる事を拒まれなかった安堵からかより一層優しい目でミアを見つめた。
「本当は…抱き締めたいのですが…今私はびしょ濡れですし…」
「ネビロスさん…」
「ミアさえ良ければ……近い内に『やり直し』ても良いですか…？」
ネビロスが何をやり直したいのか。気付いたミアは顔を赤く染める。しかし、ただ恥ずかしいだけの事ではなく、ただ苦しいだけの事ではなく、愛している人となら大きな喜びに満ちた素晴らしい事だと言うのももう知ってしまった。ミアは恥ずかしそうに小さくこくりと頷くと少しだけ目を伏せる。
「はい…でも、その…先生は……今傷になってるかもしれないからって…」
「まあ…処方箋が終わるくらいが傷の治りの目安でしょうね……」
「…一週間分、貰いました…」
「……では、貰った分服薬したらまた病院に行きましょう。今度は私が一緒に行きます。そして診てもらいましょう。それで……もしもミアが私を受け入れてくれるなら、その時は『やり直し』をしても良いですか？その…『初めて』の……」
少しいつものスマートさに欠けながら辿々しく言葉を並べるネビロス。ミアは顔を真っ赤に染め上げると濡れた髪のネビロスを見つめた。
「よ……」
「はい」
「よろしくお願いします！！！」
シャワーを手に持っているのを忘れ、宣誓する様に手を上げてしまったミア。手を上げた際に誤って蛇口に当たってしまい、まるでミアの返事に比例する様に勢い余ってシャワーを捻ってしまった。そしてその凄まじい水圧がネビロスの頭に掛かったのだった。
* * *
部屋を出る際、ロードは深々と頭を下げた。社内人事課の課長も副課長も少し困った笑みを浮かべているのを彼は見た。
「まあ、まあ。マーシュ君。穏便にね」
部屋を出る際、課長にそう言われる。再度頭を下げるとロードはゆっくり部屋の扉を閉め、そして目の前の彼女に彼らしからぬキツい目を向けた。
「……どう言う事か貴女の口からちゃんと説明しなさい、クロエ」
「…サリアヌ氏が読み上げた通りです。他に何もないです」
「…読み上げた通り…？良いですか！？貴女はユーシンさん、テディさんら未成年の子達を巻き込んだんですよ！？事の重大さを理解しているのかと私は聞いています！！」
ロードの張り上げた声はビリビリと廊下を震わせた。クロエはぴくりと肩を竦めると、バツが悪そうに俯く。
「……しかし、ネビロス氏を早く、安全に連れ戻すにはこの方法しかないじゃないっすか……軍警も結社もネビロス氏を探してくれましたか！？」
「私はそう言う事を言っているんじゃありません。クロエ、理由はどうあれ貴女が騒ぎを大きくしたのは事実ですよ！？大事にならなかったから良かったものの、もしも何かあったら！？貴女一人で一体何を背負えると言うんです！？」
「じゃあ私のやった事の代わりにもっと安全で確実なやり方があるなら教えてくださいよ！！」
ロードが吠える。しかし、クロエも吠える。どちらも引かない。
クロエは一つ大事な事を忘れていたし、何より慣れていなかった。ロードはぴくりとこめかみに力を込めると未だ緊張感の緩まぬ目でクロエを見た。
「いい加減にしなさいクロエ！！貴女が今すべき事は私に対する弁明ですか！？それとも己の正当性ですか！？或いは結社が人探しに向いていないと嘆き、文句を言う事！？違うでしょう！？貴女が今すべきはまず騒ぎを起こした事を謝罪する事です！！そして『自分も他者に心配を掛けた一人だ』と事態をちゃんと受け止めなさい！！」
「だから…！分かったって言ってるじゃ無いっすか！！分かってるから『私の責任だ』って言ったんすよ！！」
「それが『分かってない』って言ってるんですよ！！本当に事態を受け止めたなら貴女の口にすべきはまず心配を掛けた事に対する謝罪じゃ無いんですか！？私は貴女の保護者の枠に居ますがそこにあるのは責任だけで人間らしい心配や情が全く無いとでも！？」
この時、初めてクロエの目が分かりやすく泳いだ。ロードはそれを見逃さず、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「貴女は確かに責任を取ると言いました、しかし分かっているんですか！？今回は何も無かったから良かったもののもしもユーシンさんやテディさんに何かあったとして、貴女は傷付いた彼らとそれを見て悲しむ親御さんにきちんと誠心誠意謝って彼等のその後の補償が出来るんですか！？『責任』と言うのはそう言う事です！！そして仮にそんな貴女を目の当たりにして私やシキが何も思わないとでもお思いですか！？何かを成す時『責任』の言葉をただ出せば良いわけでも何も無かったから終わりと言うわけでもありませんよ！！そもそもとして無茶をした貴女を叱るのが保護者としての責務です！貴女にも心配してくれる人が居るのだと言う事を考えなさい！！何かあった時貴女が責任を被って終わりじゃ無いんですよ、そして何も無かったからそれで終わりな訳もありませんしそんな不義理は許しません！」
珍しく声を張り上げるロードの姿に傍で見ていた社員は男女問わずヒソヒソと井戸端会議を始めた。クロエは初めこそ自分が何を言われているか理解していなかったが、ロードが「実の家族の様に当たり前に自分を心配している」と気が付いた瞬間に目を丸くした。
そして先程まですらすらと出ていたのに、何も言葉が紡げなくなった。
「兄さん……私……」
「……はい」
「私……その、ごめんなさい……」
「…はい、貴女は確かに法律上大人ではあります。だからこのやり方が間違いとは私も言えません。ですが、責任をただ負うと言う事を良しとしない程貴女を心配してる人間も居ます。それだけは忘れないでくださいね」
「はい……」
「……心配を掛けたら掛けた相手にまず何と言うんですか？私はその自覚を持った貴女からその言葉を聞きたかっただけなんです」
「はい……ごめんなさい…心配掛けて、ごめんなさい…」
父の顔も母の顔も知らない。
物心付いた時、「教会皆の子供」の一人だったクロエは周りを見る能力に長けていた。その能力はクロエを「手の掛からない子供」にしたが、その分彼女は怒られたり心配される事は少なかった。彼女には、論理的に考え抜かれた自分の行動は絶対的に正しいのだと齢十八歳にして慢心していた。
だから今、自分の間違いと保護者からの心配とを受け取る事のむず痒さをクロエはひしひしと感じている。
「さて…お説教はここまでです。ここのところちょっと調子悪かったんですけど、貴女を見ていたらどうも心配事が多過ぎておちおち落ち込んでいられないって気付きましたからね。私は先に人事部に戻って後始末をしてきますから、貴女も落ち着いたら来て手伝いなさい」
「え？いや、私も今兄さんと一緒に行きます」
「いいえ、貴女にはまだ後もう一人お礼を言わねばならない人が居ますよ」
ロードがそう言ってぽんとクロエの肩に手を置く。クロエが振り返ると、そこにはところどころ擦り傷を作り息を切らしたルーウィンが居た。
「……あの様子、仕事終わりでお疲れでしょうに慌てて来た様ですね。可愛いとこあるじゃないですか」
「え…？何でルーウィン氏…？」
「…それは彼の口から直接教えてもらいなさい。ただし襲われたら私に言うんですよ、私の持てるコネやら何やら総動員して彼を潰します」
「……そう言う冗談は相変わらずっすね」
「うふふ、本音を言えば…今回の事、私自身は怒っていません。むしろ貴女のそのなりふり構わず周りを翻弄する様に突き進む行動力は私好みです。私が怒ったのは、心配を掛けた貴女が悪びれずどこを謝罪すべきか理解していなかったところ。もうそれに尽きます」
どこまで冗談だかはたまた本気かよく分からないロードがその場を離れるのと同じタイミングでルーウィンが近付いて来る。緊張から解放され少し疲れた顔をしているクロエをまじまじと見、ルーウィンは心配そうに表情を歪めた。
「よ、よぉ…大丈夫かよ？」
「ええ、おかげさまで」
「あ、そ……」
「……ええ」
繋がらない会話にルーウィンは少しだけ焦り始める。色々と聞きたい事もあるし言いたい事もある。伝えたい事も用意して来た筈なのに、本人を前にすると上手く口に出来ずルーウィンは苛立ちを覚えた。
そしてそんなルーウィンの苛立ちをクロエは変に受け取った。
「…すみませんでしたね。面倒事ばかり起こして」
「え？いや、俺は…」
「前線駆除班みたくただでさえ忙しい部署に居て、デスクワーク組にこんなトラブル起こされたらたまったものじゃないですよね」
「そ、そんな事なくてさ…」
「すみません、こんな迷惑もう二度とやらないんで」
面倒と思ったわけでも迷惑と思ったわけでもない。でもクロエはそう思っている。自分がそう思っているに違いないと彼女は思っている。ここで誤解を解かなければ自分はただ迷惑を伝えに来ただけと取られて終わりになってしまう。そう思ったルーウィンは勇気を振り絞って声を上げた。
「ち、違ぇって！！俺心配してたんだよ！！」
ルーウィンのその言葉を聞き、先程ロードに一喝された時と同じ顔をクロエは見せた。
「俺も人事部にダチが居てさ……そいつがファウストさんが大変とかフローレスが大変とか言ってる中でお前の名前も出したから慌てて飛んで来たんだよ。むしろ今日まで大事になってるの知らなかったから何も出来なかったけど…でも今日聞いて本当心配した」
「…ルーウィン氏…」
「…来たらお前やっぱ何か元気無ぇし……ま、まさかあの恋人だかパパ活だかに何かされたのか！？」
クロエはジトっとした呆れた目をルーウィンに向けた。全く、自分の周りにいる男性はロードもシキも、そしてこのルーウィンも。何故か皆どこかズレている気がするのは気のせいだろうか。
「………兄さんには、少し泣かされそうになりました」
「え！？ま、マジかよ…！！」
「ええ。兄さんと来たら、私がそう言うの弱いって知っててやるんですから」
「な、な、な……！？」
「ネチネチいやらしく相手の弱いところ攻めさせたら多分あの人敵無しですよ。あー嫌だ嫌だ良い性格してますよ本当」
クロエからしたらただ事実を挙げているに過ぎないが、言い回しが言い回しなだけに一体何を想像したのかショックで青い顔すらしているルーウィンに構わずクロエは更に話を進める。
「…でも、はい。私はもう少し、一人じゃない事を自覚し独りよがりな単独行動になり過ぎない動き方を学ばねばならない様です。沢山の人の中で生きているならば、その人達を大事に思う気持ちがあるならば、発言したり行動する前にその人の思いも遵守しなければ」
そっちのけで青い顔をするルーウィンの顔を手で覆い、ぐいと無理矢理目線を合わせるクロエ。ルーウィンは何が起きたか分からない顔をしながら、目の前に広がる彼女の顔をどう見たら良いか分からずにいた。
「時にルーウィン氏、貴方は大家族でイコナにご実家があって経営者のお家ですね？そして人手不足でバイトを雇おうか考えていますよね？履歴書に書かれてた情報と井戸端会議から仕入れた情報網ですが」
「え？おう…間違っちゃいないが…」
「では今度休暇を利用してご実家に酪農のお手伝いに伺います。兄さんに指摘された私の弱点も大家族の中で過ごすと言う状況下で学べるところが多いと期待して。ではではド短期ですがお世話になります。ルーウィン氏と休暇を合わせますのでご実家に私を連れて行ってください」
そう言うだけ言ってふいと離れてしまうクロエ。ルーウィンは何を言われたか分からずしばらく呆けていたが、意味が分かった瞬間に先程までの青い顔とはうって変わって今度は赤い顔をした。
「……嘘だろ！？泊り！？俺の実家に！？ホームステイ！？お前が！？」
「ええ、お世話になります」
「ちょ、ちょっと待てよ！！ウチ確かに人数は多いが部屋は狭いって言うか…俺の部屋潰れてっかもしれねぇし、もし俺や親父と同室とかなったら…！？」
「構いませんよ。私はすっぽり収まるスペースさえあれば廊下でも階段でも寝れるんで」
「さ、流石に年頃の女と大人の男が同室はマズくねぇ！？」
「私に女性的な魅力は皆無ですのでお気遣い無く」
「お……俺が気にする…ってのに……！！」
小さな声で絞り出したルーウィンの声はクロエには届かない。まだ実家に許可も取っていないのに勝手に話が進んでいるところはあるが、最早ルーウィンは照れと焦りでそれどころではなかった。
ネビロスはまるで見学する様に廊下を進む。すると、角を曲がった瞬間目の前にスキンヘッドで痩せこけた入院着の男が飛び出してきた。この男は、ネビロスが此処に来て定義付けた
「………」
こんな光景、以前にも見た事がある。
ネビロスが周りに目を向けるとそこには一定の感覚で柱に頭をぶつけている男、ひたすら壁に手を這わせひたひたと触りながら壁に沿って廊下の端から端まで歩くのを繰り返している男が居た。
不意に自分の背後に気を配る。思った通り、全裸で異様な程に病的なのに何故か筋骨隆々な男が二人居た。
ネビロスは足を止めると男達が近付いてくるのを待った。
「可哀想に、マフィンちゃん」
「可哀想に、ハニー」
「愛してあげよう、マフィンちゃん」
「愛してあげよう、ハニー」
すぐ近くまで近付くと男達はネビロスの体を弄りながらそう言った。しかし、ネビロスはもう嫌悪の顔を見せなかった。
「……レイレント精神病院の『ブラザー』ことモーフィン・コールとテリー・クリアウォーターですよね…貴方達の『元』だった人達は」
ネビロスのその言葉に男達はぴくりと反応し、体を弄る手を止めた。ネビロスは目を伏せながら深く息を吐き、二人の毛髪一つない頭を優しく撫でた。
「私は、私の造り上げた恐ろしいルミエルをもう怖れません。目を逸らして、
先程まで強引に手を動かしていた、ネビロス曰く『防衛反応が作り上げた逃げの象徴』こと二人はボロボロ涙を流し始める。
産みの親たるネビロスから「要らない」と言われたのだ。その絶望を想像するだけでネビロスは心が痛かった。
「……私は、ミアを愛しています。彼女と未来を見つめる決意をしました。ルミエルも、私の中でもう悔恨と悲哀の象徴ではありません。忘れたくない…愛しい記憶として受け止めていますから。だから貴方達はもう、心配してくれなくて大丈夫です」
努めて優しくそう言うと、涙を流したまま二人はネビロスの手に擦り寄る。まるで幼児の様に頬擦りする二人は、ひとしきりネビロスに甘えると「良かった」と一言呟いた。
そして視界は暗転し、次に目を開けるとそこは雑多に置かれた工具や段ボールの目立つ部屋だった。この部屋にも見覚えがある。
「お目覚めかな？スウィーティー」
そう言って優雅に紅茶を啜る彼。過去に一度会った時と違い、今度はその手に物騒な鋏も得体の知れぬ袋も持っていなかった。
「……ふぅ。あれは君を『花嫁』にする為の道具だったのに。君が違う方向を向いてしまったから私の手元から鋏が消えてしまった。もう、君の汚らしい肉を削いで美しい花嫁にする夢は叶わない様だ」
「そうですね、残念ながら。その『汚らしい肉』が無いと愛する人と繋がれないのでね」
「……ん？意味分かってる？君もそう言う事を口走るの？」
「………」
そんなネタを口走るの？と、純粋に不思議そうな目を向ける。ネビロスはわざとらしく顎に手を当てて少し考える素振りを見せると、「すみません、矢張り私は下劣に揶揄する話は好きじゃないですね」と笑った。そこには最早ただ毛嫌いしているでも無く、一度受け入れ咀嚼した上で上手く拒絶する様なそんな巧さや余裕が見え隠れしていた。
「良い性格しているよ、僕のダーリン。君はもう僕の用意した君の好きな曲も、君の好きな『彼女』の服も、君の好きな『彼女』の匂いのするものも、全部用無しの様だ」
「そうですね。貴方に身を委ねる必要は無くなりました。私の死に場所は貴方の手の中ではない。勝手なイメージで縄と同一視して申し訳なかったですね。貴方の元となったのは、『精神病院の倫理の外』のミシェル・コットンですね」
「いや、分からないよ？僕は本物のミシェル・コットンかもしれないしね？」
「いいえ、貴方は本物のミシェル・コットンでは無いです。と言うか、人ですら無い筈です。貴方も私が防衛反応から作り上げてしまった幻ですよね」
「……手厳しいね。僕のスウィーティーは」
「おかげさまで……貴方達がいなくても前を向ける様になりましたので」
「辛くは無いのかい？」
「辛い時もあると思います。だけど、今のままで良いとも思えないので」
ネビロスがそう言い切ると、ミシェルを元にした男は寂しそうにふっと笑った。しかし、どこか嬉しそうに微笑んだ様な笑みにもまた見えた。
「そうか…君はもう、今までの君じゃないんだね」
そして空が白んだ。
「ネビロスさん…？大丈夫ですか…？」
目を開けたネビロスは、視界の端に心配そうな顔をして此方を覗き込むミアがいる事に気が付いた。
「ミア…？ここは……？」
「ここはネビロスさんのお部屋です。ネビロスさん、結社に着いたら倒れちゃったんですよ？」
「…そこまでは覚えています」
「その後、スレ先生とエル先生が来てくれて、ネビロスさんを診察してお部屋に運んでくれました！」
ネビロスは力の入らない体で少し身を捩る。ベタベタとした体でベッドに入っていると言う事実に気付くと嫌そうに顔を顰めた。
「……あの精神病院では気にならなかったのに、自室に来ると妙に気になりますね…」
「ネビロスさん？」
「シャワーを浴びたいです……さっぱりしたい…」
そう言ってベッドから降りようとする。力の入らないネビロスの体をミアが支えると、成り行きから彼女の肩に手を回したネビロスは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……結社を出てから全くシャワー浴びていなかったので…臭うでしょう？」
「全然！気になりません！」
「私が気にします……」
「ネビロスさんの匂いですし！！」
「……一度気になったらもう気にしないのは難しいです…」
そう言いながらも力が入らず、思わずミアに体を預けてしまう。そしてその時、ネビロスはミアにした事を思い出し、慌てて力を振り絞り彼女の肩に回していた手を外した。
「ネビロスさん？」
「すみません…ミア」
今更自分が彼女に触れる資格など無いのではないか。そう思い顔を伏せる。
結果として嫌われたくて、憎まれたくてした行動は全て裏目に出てしまった。ミアの持つ愛はそんな程度で嫌ったり憎んだりするものではなかった。それが嬉しくもあり、申し訳なくもあり。
しかし心のどこかでこの状況に期待していたのもまた事実だ。その程度で憎まないのかもと思うからこそ、否、それでも残しておきたくて本にメッセージを書き残した。
もしもミアが自分を嫌わずに居てくれたら、もしもまだ自分を忘れずに居てくれたら、憎しみではなく愛する気持ちが占めていたら。
浅はかな自分の「愛されたい」と言う素直になれない甘えがミアに居場所を残した。結果としてそれら全てが良い方向に転がり、偶然にも上手く噛み合ってくれたお陰でネビロスはこうしてミアと再び会えたわけだがどうにもそれも含めて居た堪れない。
ミアはそんなネビロスの頭に小さい子にする様に手を添え、そしてわしゃわしゃと撫で回した。
「ミ、ミア…？」
「ネビロスさん、一緒にお風呂入りましょう！」
力強いミアの声。ネビロスは忙しなく目をキョロキョロと動かすと、小さな声で「お願いします」と呟いていた。もうお断りを入れる程の力はネビロスには無かった。
* * *
「さて！埃とか付いてると思うんでシャンプーは二回しましょうね！」
ふんふんと鼻歌混じりにシャワーを流すミア。バスタブ付きの広いシャワールームは家族寮に付いているからとタイガの部屋を借りる事になった。ネビロスが座っていられる様にと言うミアなりの配慮だ。
耐水性の高いお風呂用の椅子にネビロスを座らせ、服の袖と裾を捲り髪を一つに纏め濡れない様にしたミアがその後ろから風呂の世話をする。
自分だけ裸で居るのは少しどころかかなり恥ずかしい気分になるし、何よりこれは未来の介護の姿かと想像してネビロスは少しだけ落ち込んだ。
「……ごめんなさい、私嘘を吐きました」
不意にミアがそう口にした。ネビロスは驚いた顔のまま耳をそば立てる。嘘とはどこの何だろう？と少し落ち着かずに居ると、ミアは寂しそうに微笑んだ。
「私…あの時ネビロスさんに『一緒に見ましょう』って言いましたよね。『一緒に見れます』って、『ルミエルさんはどこですか？』って。でも本当は、私には何も見えて無かったんです。ネビロスさんが指差した先をただ目で追っただけなんです」
ルミエルの本当の姿を確認する為に、「ちゃんと見てあげましょう？」と手を取ってくれたミア。ネビロスも分かっている。アレはきっと自分の罪悪感が成した幻で、ルミエルもルーチェも本当はもうどこにも居ないのだと。
特にルミエルは、罪悪感と彼女への歪んだ認識からずっと酷い姿を思い浮かべてしまっていた。自分の妄想かもしれない。けれど、やっと綺麗な姿を真っ直ぐ見てあげられるそんなチャンスをミアはくれたのだ。感謝こそすれ誰がそれを責められるだろうか。
「ネビロスさんが壁しか見えないところを真っ直ぐ見つめてしばらくボーッとして、もう一回私の方を見てくれるまでドキドキしてたんです。ネビロスさん、そのままどこか行ってしまいそうで……怖くって」
ずぶ濡れの体がピクリと反応する。恥を捨てて濡れた体で後ろを向けば、そこではシャワーを持ったまま泣きそうな顔をしていたミアがとうとう涙を溢した。
「ミア……私の事を憎んでいませんか…？」
「……私、本当に駄目でした。あんな事されたら怖くなるかな？って思ったのに…ネビロスさんの事全然怖くなれないんです…嫌いになれないんです…」
「でも…私のせいであんな思いを──……」
いや、これ以上言うのはやめよう。それよりも、彼女を安心させる方が先だ。
ネビロスはスッと手を伸ばすとゆっくりと優しくミアの頭に触れた。ネビロスの心配をよそに怖がる様子も拒絶する様子もないミアはぱちくりと不思議そうに瞬きを一つ。ネビロスは体に触れる事を拒まれなかった安堵からかより一層優しい目でミアを見つめた。
「本当は…抱き締めたいのですが…今私はびしょ濡れですし…」
「ネビロスさん…」
「ミアさえ良ければ……近い内に『やり直し』ても良いですか…？」
ネビロスが何をやり直したいのか。気付いたミアは顔を赤く染める。しかし、ただ恥ずかしいだけの事ではなく、ただ苦しいだけの事ではなく、愛している人となら大きな喜びに満ちた素晴らしい事だと言うのももう知ってしまった。ミアは恥ずかしそうに小さくこくりと頷くと少しだけ目を伏せる。
「はい…でも、その…先生は……今傷になってるかもしれないからって…」
「まあ…処方箋が終わるくらいが傷の治りの目安でしょうね……」
「…一週間分、貰いました…」
「……では、貰った分服薬したらまた病院に行きましょう。今度は私が一緒に行きます。そして診てもらいましょう。それで……もしもミアが私を受け入れてくれるなら、その時は『やり直し』をしても良いですか？その…『初めて』の……」
少しいつものスマートさに欠けながら辿々しく言葉を並べるネビロス。ミアは顔を真っ赤に染め上げると濡れた髪のネビロスを見つめた。
「よ……」
「はい」
「よろしくお願いします！！！」
シャワーを手に持っているのを忘れ、宣誓する様に手を上げてしまったミア。手を上げた際に誤って蛇口に当たってしまい、まるでミアの返事に比例する様に勢い余ってシャワーを捻ってしまった。そしてその凄まじい水圧がネビロスの頭に掛かったのだった。
* * *
部屋を出る際、ロードは深々と頭を下げた。社内人事課の課長も副課長も少し困った笑みを浮かべているのを彼は見た。
「まあ、まあ。マーシュ君。穏便にね」
部屋を出る際、課長にそう言われる。再度頭を下げるとロードはゆっくり部屋の扉を閉め、そして目の前の彼女に彼らしからぬキツい目を向けた。
「……どう言う事か貴女の口からちゃんと説明しなさい、クロエ」
「…サリアヌ氏が読み上げた通りです。他に何もないです」
「…読み上げた通り…？良いですか！？貴女はユーシンさん、テディさんら未成年の子達を巻き込んだんですよ！？事の重大さを理解しているのかと私は聞いています！！」
ロードの張り上げた声はビリビリと廊下を震わせた。クロエはぴくりと肩を竦めると、バツが悪そうに俯く。
「……しかし、ネビロス氏を早く、安全に連れ戻すにはこの方法しかないじゃないっすか……軍警も結社もネビロス氏を探してくれましたか！？」
「私はそう言う事を言っているんじゃありません。クロエ、理由はどうあれ貴女が騒ぎを大きくしたのは事実ですよ！？大事にならなかったから良かったものの、もしも何かあったら！？貴女一人で一体何を背負えると言うんです！？」
「じゃあ私のやった事の代わりにもっと安全で確実なやり方があるなら教えてくださいよ！！」
ロードが吠える。しかし、クロエも吠える。どちらも引かない。
クロエは一つ大事な事を忘れていたし、何より慣れていなかった。ロードはぴくりとこめかみに力を込めると未だ緊張感の緩まぬ目でクロエを見た。
「いい加減にしなさいクロエ！！貴女が今すべき事は私に対する弁明ですか！？それとも己の正当性ですか！？或いは結社が人探しに向いていないと嘆き、文句を言う事！？違うでしょう！？貴女が今すべきはまず騒ぎを起こした事を謝罪する事です！！そして『自分も他者に心配を掛けた一人だ』と事態をちゃんと受け止めなさい！！」
「だから…！分かったって言ってるじゃ無いっすか！！分かってるから『私の責任だ』って言ったんすよ！！」
「それが『分かってない』って言ってるんですよ！！本当に事態を受け止めたなら貴女の口にすべきはまず心配を掛けた事に対する謝罪じゃ無いんですか！？私は貴女の保護者の枠に居ますがそこにあるのは責任だけで人間らしい心配や情が全く無いとでも！？」
この時、初めてクロエの目が分かりやすく泳いだ。ロードはそれを見逃さず、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「貴女は確かに責任を取ると言いました、しかし分かっているんですか！？今回は何も無かったから良かったもののもしもユーシンさんやテディさんに何かあったとして、貴女は傷付いた彼らとそれを見て悲しむ親御さんにきちんと誠心誠意謝って彼等のその後の補償が出来るんですか！？『責任』と言うのはそう言う事です！！そして仮にそんな貴女を目の当たりにして私やシキが何も思わないとでもお思いですか！？何かを成す時『責任』の言葉をただ出せば良いわけでも何も無かったから終わりと言うわけでもありませんよ！！そもそもとして無茶をした貴女を叱るのが保護者としての責務です！貴女にも心配してくれる人が居るのだと言う事を考えなさい！！何かあった時貴女が責任を被って終わりじゃ無いんですよ、そして何も無かったからそれで終わりな訳もありませんしそんな不義理は許しません！」
珍しく声を張り上げるロードの姿に傍で見ていた社員は男女問わずヒソヒソと井戸端会議を始めた。クロエは初めこそ自分が何を言われているか理解していなかったが、ロードが「実の家族の様に当たり前に自分を心配している」と気が付いた瞬間に目を丸くした。
そして先程まですらすらと出ていたのに、何も言葉が紡げなくなった。
「兄さん……私……」
「……はい」
「私……その、ごめんなさい……」
「…はい、貴女は確かに法律上大人ではあります。だからこのやり方が間違いとは私も言えません。ですが、責任をただ負うと言う事を良しとしない程貴女を心配してる人間も居ます。それだけは忘れないでくださいね」
「はい……」
「……心配を掛けたら掛けた相手にまず何と言うんですか？私はその自覚を持った貴女からその言葉を聞きたかっただけなんです」
「はい……ごめんなさい…心配掛けて、ごめんなさい…」
父の顔も母の顔も知らない。
物心付いた時、「教会皆の子供」の一人だったクロエは周りを見る能力に長けていた。その能力はクロエを「手の掛からない子供」にしたが、その分彼女は怒られたり心配される事は少なかった。彼女には、論理的に考え抜かれた自分の行動は絶対的に正しいのだと齢十八歳にして慢心していた。
だから今、自分の間違いと保護者からの心配とを受け取る事のむず痒さをクロエはひしひしと感じている。
「さて…お説教はここまでです。ここのところちょっと調子悪かったんですけど、貴女を見ていたらどうも心配事が多過ぎておちおち落ち込んでいられないって気付きましたからね。私は先に人事部に戻って後始末をしてきますから、貴女も落ち着いたら来て手伝いなさい」
「え？いや、私も今兄さんと一緒に行きます」
「いいえ、貴女にはまだ後もう一人お礼を言わねばならない人が居ますよ」
ロードがそう言ってぽんとクロエの肩に手を置く。クロエが振り返ると、そこにはところどころ擦り傷を作り息を切らしたルーウィンが居た。
「……あの様子、仕事終わりでお疲れでしょうに慌てて来た様ですね。可愛いとこあるじゃないですか」
「え…？何でルーウィン氏…？」
「…それは彼の口から直接教えてもらいなさい。ただし襲われたら私に言うんですよ、私の持てるコネやら何やら総動員して彼を潰します」
「……そう言う冗談は相変わらずっすね」
「うふふ、本音を言えば…今回の事、私自身は怒っていません。むしろ貴女のそのなりふり構わず周りを翻弄する様に突き進む行動力は私好みです。私が怒ったのは、心配を掛けた貴女が悪びれずどこを謝罪すべきか理解していなかったところ。もうそれに尽きます」
どこまで冗談だかはたまた本気かよく分からないロードがその場を離れるのと同じタイミングでルーウィンが近付いて来る。緊張から解放され少し疲れた顔をしているクロエをまじまじと見、ルーウィンは心配そうに表情を歪めた。
「よ、よぉ…大丈夫かよ？」
「ええ、おかげさまで」
「あ、そ……」
「……ええ」
繋がらない会話にルーウィンは少しだけ焦り始める。色々と聞きたい事もあるし言いたい事もある。伝えたい事も用意して来た筈なのに、本人を前にすると上手く口に出来ずルーウィンは苛立ちを覚えた。
そしてそんなルーウィンの苛立ちをクロエは変に受け取った。
「…すみませんでしたね。面倒事ばかり起こして」
「え？いや、俺は…」
「前線駆除班みたくただでさえ忙しい部署に居て、デスクワーク組にこんなトラブル起こされたらたまったものじゃないですよね」
「そ、そんな事なくてさ…」
「すみません、こんな迷惑もう二度とやらないんで」
面倒と思ったわけでも迷惑と思ったわけでもない。でもクロエはそう思っている。自分がそう思っているに違いないと彼女は思っている。ここで誤解を解かなければ自分はただ迷惑を伝えに来ただけと取られて終わりになってしまう。そう思ったルーウィンは勇気を振り絞って声を上げた。
「ち、違ぇって！！俺心配してたんだよ！！」
ルーウィンのその言葉を聞き、先程ロードに一喝された時と同じ顔をクロエは見せた。
「俺も人事部にダチが居てさ……そいつがファウストさんが大変とかフローレスが大変とか言ってる中でお前の名前も出したから慌てて飛んで来たんだよ。むしろ今日まで大事になってるの知らなかったから何も出来なかったけど…でも今日聞いて本当心配した」
「…ルーウィン氏…」
「…来たらお前やっぱ何か元気無ぇし……ま、まさかあの恋人だかパパ活だかに何かされたのか！？」
クロエはジトっとした呆れた目をルーウィンに向けた。全く、自分の周りにいる男性はロードもシキも、そしてこのルーウィンも。何故か皆どこかズレている気がするのは気のせいだろうか。
「………兄さんには、少し泣かされそうになりました」
「え！？ま、マジかよ…！！」
「ええ。兄さんと来たら、私がそう言うの弱いって知っててやるんですから」
「な、な、な……！？」
「ネチネチいやらしく相手の弱いところ攻めさせたら多分あの人敵無しですよ。あー嫌だ嫌だ良い性格してますよ本当」
クロエからしたらただ事実を挙げているに過ぎないが、言い回しが言い回しなだけに一体何を想像したのかショックで青い顔すらしているルーウィンに構わずクロエは更に話を進める。
「…でも、はい。私はもう少し、一人じゃない事を自覚し独りよがりな単独行動になり過ぎない動き方を学ばねばならない様です。沢山の人の中で生きているならば、その人達を大事に思う気持ちがあるならば、発言したり行動する前にその人の思いも遵守しなければ」
そっちのけで青い顔をするルーウィンの顔を手で覆い、ぐいと無理矢理目線を合わせるクロエ。ルーウィンは何が起きたか分からない顔をしながら、目の前に広がる彼女の顔をどう見たら良いか分からずにいた。
「時にルーウィン氏、貴方は大家族でイコナにご実家があって経営者のお家ですね？そして人手不足でバイトを雇おうか考えていますよね？履歴書に書かれてた情報と井戸端会議から仕入れた情報網ですが」
「え？おう…間違っちゃいないが…」
「では今度休暇を利用してご実家に酪農のお手伝いに伺います。兄さんに指摘された私の弱点も大家族の中で過ごすと言う状況下で学べるところが多いと期待して。ではではド短期ですがお世話になります。ルーウィン氏と休暇を合わせますのでご実家に私を連れて行ってください」
そう言うだけ言ってふいと離れてしまうクロエ。ルーウィンは何を言われたか分からずしばらく呆けていたが、意味が分かった瞬間に先程までの青い顔とはうって変わって今度は赤い顔をした。
「……嘘だろ！？泊り！？俺の実家に！？ホームステイ！？お前が！？」
「ええ、お世話になります」
「ちょ、ちょっと待てよ！！ウチ確かに人数は多いが部屋は狭いって言うか…俺の部屋潰れてっかもしれねぇし、もし俺や親父と同室とかなったら…！？」
「構いませんよ。私はすっぽり収まるスペースさえあれば廊下でも階段でも寝れるんで」
「さ、流石に年頃の女と大人の男が同室はマズくねぇ！？」
「私に女性的な魅力は皆無ですのでお気遣い無く」
「お……俺が気にする…ってのに……！！」
小さな声で絞り出したルーウィンの声はクロエには届かない。まだ実家に許可も取っていないのに勝手に話が進んでいるところはあるが、最早ルーウィンは照れと焦りでそれどころではなかった。
エピローグ
太陽の優しい光に包まれミアは目を覚ます。夏至が近付いて居るからかここのところ非常に長い日照時間が続いているのだが、おかげで愛しい人の寝顔をじっくり見られるのは少し嬉しい。
「ん…ミア…？」
「おはようございます、ネビロスさん！」
「早いですね…」
「今目が覚めたところです！」
隣で眠っていたネビロスは少し眠たそうに目を開けると、甘える様にミアに擦り寄った。
ミアの体を抱き締め、胸元に顔を埋める。そして唇を落とし始めた瞬間ミアから待ったが掛かった。
「ダメ！！です！！」
「………何故」
「だってネビロスさん、今日復帰じゃないですか！今疲れる事しちゃダメです！」
本日、六月一日。ネビロスはマルフィ結社医療班へ復職予定だった。
あの退職騒ぎの後埃と汗まみれの体で連れ帰られたネビロスはすぐにアペルピシアによって再診を受けたが、彼女は一目見て彼をこのまま置いておいてはいけないと判断した。
彼が通う為の精神科を外部から探し、そこに通わせる事に決めた。職場であり治療の場と言う近しさはやはり精神科と言うところに通わせる以上好ましくない。
そして綿密なカウンセリングの末、今度こそ一度しっかり仕事を休ませる事にした。ただでさえ忙しい医療班に在籍して居るのに休職扱いの人間を置くのは厳しい話ではあるが、今休ませないと後々に響くだろうと言うアペルピシアの判断で人事部も納得した。
そこから約一月の間、ネビロスは仕事の事を忘れて過ごした。ミアが休みの時はミアと過ごし、一人の時は一人で本を読む。以前はその状況が吉と出るか凶と出るか分からない様な彼だったが、今回は良い方向に転がった様だ。
勿論その間にも色々あった。ネビロスは約束通りミアの次の診察に一緒に着いて行って婦人科の医師からお叱りを受けたし、同時にきちんと話を聞いて褒められもした。
前の様に無理をして仕事を入れて休みも忘れて駆け足で進むのではなく、色々な事をきちんと立ち止まって受け止めて考えて、そうして過ごした一ヵ月はネビロスの顔色を少しだけ明るくした。
「……昨日もミアが駄目だと言うから我慢したじゃないですか」
「今日の為の『駄目』だったんです！だから今疲れる事しちゃ駄目なんです！」
「………じゃあ今夜は？」
「今夜は…良いですけど……」
「ふふ…ミアは可愛いですね、まだ照れてしまうんですか？」
駄目と言われて子供が拗ねる様に口を尖らせたかと思ったら、一転して妖艶に微笑んでみせる。ミアはそんな風に心で思った事を素直に顔に出せる様になったネビロスが眩しくて眩しくてたまらなかった。
「な、何度だって照れちゃいますよ…」
「…そんな貴女を堪らなく可愛く思いますよ」
「ありがとうございます…！で、でも今日はお仕事頑張ってから！ですからね！」
「では今夜を楽しみに、ですね」
ちゅっ、と音を立てて唇を重ねる。愛おしそうにミアの頭を撫でたネビロスはそのまま立ち上がって洗面所に向かった。
「ミア、先に洗面所使います。私が終わったらゆっくり支度してください。今日はパンで良いですか？」
「はい！ジャムで食べたいです！」
穏やかなこの時間が流れて行くのを肌で感じ、ミアはとても幸せだった。
* * *
「しかし助かりましたよファルクマンさん。その節はどうも」
「おいおい随分と冷たいなー。俺のこの些細な物すら見逃さんとする識別能力があったから君とあのクソ生意気な妹を窮地から救うことが出来たんだぜ？」
ニヤニヤと笑うゼン・ファルクマン。彼はロードの目の前でタイガと無理矢理肩を組む様にして「よこせ」と言わんばかりに手を差し出した。
ロードは一瞬ピクリと目尻を動かす。何とも嫌な男に借りを作ってしまったものだ。そんな彼に肩を組まされているタイガは居た堪れなさそうに笑った。
「うふふ…しかしねぇ、タイガさんいつの間にこの人と仲良くなられたんです？」
「え！？オレ巻き込まれただけですよ！！」
「そうなんですか？その割には仲良さそうで嫉妬しちゃいますねぇ」
「や、やめてくださいよロードさん！オレ、ファルクマンさんとそこまで親しく無いですから！」
「おい助平七三 。この蜂蜜童貞 使ってさり気に俺の悪口引き出そうとすんじゃないよ」
「ファルクマンさん！なんてあだ名付けてんですか！？」
ネビロスが辞表を置いて行った日。それを見付けたタイガは慌てて部屋を飛び出した。そして扉の向こうに居たゼンと正面衝突した。
タイガの手から舞ったネビロスの辞表に一番最初に目を落としたのは人事部でもない、他でもないゼン・ファルクマンであった。タイガの苦手とするトラブルメーカー「第三小隊長」のすぐ下で法治国家の名の下に有無を言わさぬ交渉を仕掛けて来ると悪名高い男だ。
『痛てててて…！！おい、前見て歩けよ！帽子が吹っ飛んだじゃないか！』
『す、すみません！！本当ごめんなさい！慌てていたので…！！』
『ったく、俺が現役ならあらゆる理由付けて訴えてやるのに……ん？』
空恐ろしい事を口にしたゼンは目の前に落ちていた辞表を拾い上げる。そして妙に真剣な目付きでタイガを見た。
『おい…これ、誰のだ？』
『え？えっと…』
『見るぜ』
『開けちゃうの！？』
慎重に封を切り、書かれた内容と差出人の名前を見たゼンは少し怪訝そうな顔をする。そして興奮するタイガをどうどうと宥めると、冷静にこう言った。
『これ、持ってくの待て』
『え…？』
『俺の経験でしか無いから確信は無いが…上に出しに行くのは早計だ』
『え？でも…』
『一番信頼できる奴に相談くらいは良いだろう。その際、『前線駆除班第三小隊の頭脳にして元敏腕弁護士のゼン・ファルクマンに止められた』と言え』
そんなやり取りを経て、結果としてタイガから人事部への提出が遅れた事で受理されなかったネビロスの辞表。クロエ、ミアと調達班の未成年達で迅速に彼を保護した事で人事部まで話が上がり、辞表の提出を止めた張本人のゼンも交えて話し合いがなされた。
タイガ、サリアヌ、アペルピシア、クインも居る場でゼンは、ネビロスの弁護人の如く話をした。
ミアとのトラブルの件はミア本人が被害に遭ったと言っていない時点で不問と見做した方が適切だと言う事。あちこちに散らばされたメッセージにより、今回の行方不明事件はネビロスが衝動的に行った事で本人に消息を絶つ意志はほぼ無かったであろう事。
続け様に、その衝動を起こす程、つまり精神科に罹らねばならぬ程消耗していたにも関わらず外部で無く内部で同僚のアペルピシアが診察を担当していたのはミスでは無いのか？と言う話まで出したのでそれにはクインが異議を唱えるも、アペルピシア自身が「ネビロスの病状を見誤ったのは事実かもしれない」と発言し、治療の場は治療の場、職場は職場で分けるべきだと言う話も出た。
結社は、そもそも彼を引き取った時に彼の病状をきちんと把握していなかったと言うミスがあり、それがミアへの暴行と自殺未遂に発展したのだと已む無く結論付けた。
そして早々に結論付けたお陰でネビロスの職場復帰と病気療養の話を前向きに進めた。クロエの行動も、話の流れと全体を見てみれば極めて的確な行動であった為改めて重く咎める必要は無しと判断されたのだ。
「いやいや、俺も雇われてる身でお上を悪く言いたくは無かったんだがね。結社に落ち度があったと建前でもそうさせないとネビロス・ファウストを戻らせる事に前向きにならんかっただろうし、お前のクソ生意気な妹がアイツを連れ戻すのに勝手な行動取って未成年者を危険に晒したってとこが強調されりゃそっちはそっちで責任追求されちまう。ただでさえ二人も入院騒ぎになった後だ。こっちくらい早めに解決させた方が良いだろ」
「ええ…助かりました。私も色々あってクロエの行動は認知して居なかったので」
「早めに、全員が特に痛みも無く騒動を終わらせる為には善意ある嘘や小細工も必要だろ？」
「ええ…そうですね」
「くっくっく……散々俺の自尊心を傷付けてくれた相手に貸しを作るのはなんとも気分が良いねぇ」
ゼンの自尊心を傷付けたと言う状況とロードが結び付かないタイガだが、当のロードは思い出す事があるのか堪え切れずぷっと噴き出した。
「うふふふ…私にそんなつもりは無かったんですがねぇ？」
「あァ？お前、よくもそんな悪びれもせず言えたもんだな？」
「あのー…本当にロードさんがそんな事したんですか？ファルクマンさんの勘違いって事は…？」
「勘違いな訳無いだろう！？コイツは俺が聞いてるって確信を持ってあの時女抱いてたね！！って言うか、君みたいな蜂蜜童貞がおいそれと聞いて良い話題じゃないのだよ、もうちょい大人になってから首突っ込みな！」
「ま、またその不名誉なあだ名！！」
後日、クロエもゼンにお礼を言いに来たのだが彼のこの調子は易々と変わるものではない。
部屋から出た際眉間に深く深く皺を刻んだクロエは「あの野郎いつか絶対ぶっ潰す」と改めて怒りを露わにした。
* * *
頬を撫でる風が気持ち良い。降り注ぐ太陽光が心地良い。ネビロスは生きる喜びを噛み締めていた。
ねぇ、ルミエル。後二ヶ月もすれば君達を喪って一年が経ってしまう。色んな事があって、新しく色んな人に出会って。その中で見落としてしまいそうな、諦めてしまいそうだった想いや気持ちを君は思い出させてくれた。
まだ、生きていても良いのかな──…？
「ネビロスさーん！！」
物思いに耽るネビロスはミアの声にハッとした顔を見せる。ミアはいつも通りに近付いて来ると、甘える様にネビロスの腕に絡み付いた。
「ネビロスさん！お昼、美味しそうなところ見付けたんです！行きましょう？」
手を引いてくれるのは、一度諦めかけてしまった想いそのもの。
ミア。
彼女の気持ちも考えず罪悪感から逃げ出してしまおうとしていたのに、彼女は今でも自分を心配し傍に居てくれる。
愛してくれる。
それを、ルミエルやルーチェに対する不義理と結論付けてしまいもしたが、あの時レイレント精神病院で見たのが自分の願望ではなく本物の二人だったとしたら。二人は自分が生きて幸せになる事を望んでくれた。
ずっと、夜は明けないものと思っていた。
幸せは遠い存在と思っていた。
だから俺の中で君を恐ろしい存在にしてしまっていた。
化け物の様に扱ってしまっていた。
本当はこんなにすぐ近くに、優しく在ったのに。
夜が明けると知った時。
幸せが身近と知った時。
生きる気力も湧いて来て、今は深淵への望みは無い。
この夜を越えたと気付けた今、この苦難を越えられるかもと希望を持った今。
──いつかその時が来たら、もう一度君に会えるかな？
「ネビロスさん！お昼楽しみですね！」
「ええ」
でも、その『いつか』は何年も何年も後で良い。
もう夜が来ても恐ろしく無い。
幸せな『明日』を夢見て眠る事が出来るから。
その『幸せ』を噛み締めて、日々を生きようと思う。
二人が祈ってくれた俺の幸せを、『明日』も生き抜く。愛する人と一緒に。
「ん…ミア…？」
「おはようございます、ネビロスさん！」
「早いですね…」
「今目が覚めたところです！」
隣で眠っていたネビロスは少し眠たそうに目を開けると、甘える様にミアに擦り寄った。
ミアの体を抱き締め、胸元に顔を埋める。そして唇を落とし始めた瞬間ミアから待ったが掛かった。
「ダメ！！です！！」
「………何故」
「だってネビロスさん、今日復帰じゃないですか！今疲れる事しちゃダメです！」
本日、六月一日。ネビロスはマルフィ結社医療班へ復職予定だった。
あの退職騒ぎの後埃と汗まみれの体で連れ帰られたネビロスはすぐにアペルピシアによって再診を受けたが、彼女は一目見て彼をこのまま置いておいてはいけないと判断した。
彼が通う為の精神科を外部から探し、そこに通わせる事に決めた。職場であり治療の場と言う近しさはやはり精神科と言うところに通わせる以上好ましくない。
そして綿密なカウンセリングの末、今度こそ一度しっかり仕事を休ませる事にした。ただでさえ忙しい医療班に在籍して居るのに休職扱いの人間を置くのは厳しい話ではあるが、今休ませないと後々に響くだろうと言うアペルピシアの判断で人事部も納得した。
そこから約一月の間、ネビロスは仕事の事を忘れて過ごした。ミアが休みの時はミアと過ごし、一人の時は一人で本を読む。以前はその状況が吉と出るか凶と出るか分からない様な彼だったが、今回は良い方向に転がった様だ。
勿論その間にも色々あった。ネビロスは約束通りミアの次の診察に一緒に着いて行って婦人科の医師からお叱りを受けたし、同時にきちんと話を聞いて褒められもした。
前の様に無理をして仕事を入れて休みも忘れて駆け足で進むのではなく、色々な事をきちんと立ち止まって受け止めて考えて、そうして過ごした一ヵ月はネビロスの顔色を少しだけ明るくした。
「……昨日もミアが駄目だと言うから我慢したじゃないですか」
「今日の為の『駄目』だったんです！だから今疲れる事しちゃ駄目なんです！」
「………じゃあ今夜は？」
「今夜は…良いですけど……」
「ふふ…ミアは可愛いですね、まだ照れてしまうんですか？」
駄目と言われて子供が拗ねる様に口を尖らせたかと思ったら、一転して妖艶に微笑んでみせる。ミアはそんな風に心で思った事を素直に顔に出せる様になったネビロスが眩しくて眩しくてたまらなかった。
「な、何度だって照れちゃいますよ…」
「…そんな貴女を堪らなく可愛く思いますよ」
「ありがとうございます…！で、でも今日はお仕事頑張ってから！ですからね！」
「では今夜を楽しみに、ですね」
ちゅっ、と音を立てて唇を重ねる。愛おしそうにミアの頭を撫でたネビロスはそのまま立ち上がって洗面所に向かった。
「ミア、先に洗面所使います。私が終わったらゆっくり支度してください。今日はパンで良いですか？」
「はい！ジャムで食べたいです！」
穏やかなこの時間が流れて行くのを肌で感じ、ミアはとても幸せだった。
* * *
「しかし助かりましたよファルクマンさん。その節はどうも」
「おいおい随分と冷たいなー。俺のこの些細な物すら見逃さんとする識別能力があったから君とあのクソ生意気な妹を窮地から救うことが出来たんだぜ？」
ニヤニヤと笑うゼン・ファルクマン。彼はロードの目の前でタイガと無理矢理肩を組む様にして「よこせ」と言わんばかりに手を差し出した。
ロードは一瞬ピクリと目尻を動かす。何とも嫌な男に借りを作ってしまったものだ。そんな彼に肩を組まされているタイガは居た堪れなさそうに笑った。
「うふふ…しかしねぇ、タイガさんいつの間にこの人と仲良くなられたんです？」
「え！？オレ巻き込まれただけですよ！！」
「そうなんですか？その割には仲良さそうで嫉妬しちゃいますねぇ」
「や、やめてくださいよロードさん！オレ、ファルクマンさんとそこまで親しく無いですから！」
「おい
「ファルクマンさん！なんてあだ名付けてんですか！？」
ネビロスが辞表を置いて行った日。それを見付けたタイガは慌てて部屋を飛び出した。そして扉の向こうに居たゼンと正面衝突した。
タイガの手から舞ったネビロスの辞表に一番最初に目を落としたのは人事部でもない、他でもないゼン・ファルクマンであった。タイガの苦手とするトラブルメーカー「第三小隊長」のすぐ下で法治国家の名の下に有無を言わさぬ交渉を仕掛けて来ると悪名高い男だ。
『痛てててて…！！おい、前見て歩けよ！帽子が吹っ飛んだじゃないか！』
『す、すみません！！本当ごめんなさい！慌てていたので…！！』
『ったく、俺が現役ならあらゆる理由付けて訴えてやるのに……ん？』
空恐ろしい事を口にしたゼンは目の前に落ちていた辞表を拾い上げる。そして妙に真剣な目付きでタイガを見た。
『おい…これ、誰のだ？』
『え？えっと…』
『見るぜ』
『開けちゃうの！？』
慎重に封を切り、書かれた内容と差出人の名前を見たゼンは少し怪訝そうな顔をする。そして興奮するタイガをどうどうと宥めると、冷静にこう言った。
『これ、持ってくの待て』
『え…？』
『俺の経験でしか無いから確信は無いが…上に出しに行くのは早計だ』
『え？でも…』
『一番信頼できる奴に相談くらいは良いだろう。その際、『前線駆除班第三小隊の頭脳にして元敏腕弁護士のゼン・ファルクマンに止められた』と言え』
そんなやり取りを経て、結果としてタイガから人事部への提出が遅れた事で受理されなかったネビロスの辞表。クロエ、ミアと調達班の未成年達で迅速に彼を保護した事で人事部まで話が上がり、辞表の提出を止めた張本人のゼンも交えて話し合いがなされた。
タイガ、サリアヌ、アペルピシア、クインも居る場でゼンは、ネビロスの弁護人の如く話をした。
ミアとのトラブルの件はミア本人が被害に遭ったと言っていない時点で不問と見做した方が適切だと言う事。あちこちに散らばされたメッセージにより、今回の行方不明事件はネビロスが衝動的に行った事で本人に消息を絶つ意志はほぼ無かったであろう事。
続け様に、その衝動を起こす程、つまり精神科に罹らねばならぬ程消耗していたにも関わらず外部で無く内部で同僚のアペルピシアが診察を担当していたのはミスでは無いのか？と言う話まで出したのでそれにはクインが異議を唱えるも、アペルピシア自身が「ネビロスの病状を見誤ったのは事実かもしれない」と発言し、治療の場は治療の場、職場は職場で分けるべきだと言う話も出た。
結社は、そもそも彼を引き取った時に彼の病状をきちんと把握していなかったと言うミスがあり、それがミアへの暴行と自殺未遂に発展したのだと已む無く結論付けた。
そして早々に結論付けたお陰でネビロスの職場復帰と病気療養の話を前向きに進めた。クロエの行動も、話の流れと全体を見てみれば極めて的確な行動であった為改めて重く咎める必要は無しと判断されたのだ。
「いやいや、俺も雇われてる身でお上を悪く言いたくは無かったんだがね。結社に落ち度があったと建前でもそうさせないとネビロス・ファウストを戻らせる事に前向きにならんかっただろうし、お前のクソ生意気な妹がアイツを連れ戻すのに勝手な行動取って未成年者を危険に晒したってとこが強調されりゃそっちはそっちで責任追求されちまう。ただでさえ二人も入院騒ぎになった後だ。こっちくらい早めに解決させた方が良いだろ」
「ええ…助かりました。私も色々あってクロエの行動は認知して居なかったので」
「早めに、全員が特に痛みも無く騒動を終わらせる為には善意ある嘘や小細工も必要だろ？」
「ええ…そうですね」
「くっくっく……散々俺の自尊心を傷付けてくれた相手に貸しを作るのはなんとも気分が良いねぇ」
ゼンの自尊心を傷付けたと言う状況とロードが結び付かないタイガだが、当のロードは思い出す事があるのか堪え切れずぷっと噴き出した。
「うふふふ…私にそんなつもりは無かったんですがねぇ？」
「あァ？お前、よくもそんな悪びれもせず言えたもんだな？」
「あのー…本当にロードさんがそんな事したんですか？ファルクマンさんの勘違いって事は…？」
「勘違いな訳無いだろう！？コイツは俺が聞いてるって確信を持ってあの時女抱いてたね！！って言うか、君みたいな蜂蜜童貞がおいそれと聞いて良い話題じゃないのだよ、もうちょい大人になってから首突っ込みな！」
「ま、またその不名誉なあだ名！！」
後日、クロエもゼンにお礼を言いに来たのだが彼のこの調子は易々と変わるものではない。
部屋から出た際眉間に深く深く皺を刻んだクロエは「あの野郎いつか絶対ぶっ潰す」と改めて怒りを露わにした。
* * *
頬を撫でる風が気持ち良い。降り注ぐ太陽光が心地良い。ネビロスは生きる喜びを噛み締めていた。
ねぇ、ルミエル。後二ヶ月もすれば君達を喪って一年が経ってしまう。色んな事があって、新しく色んな人に出会って。その中で見落としてしまいそうな、諦めてしまいそうだった想いや気持ちを君は思い出させてくれた。
まだ、生きていても良いのかな──…？
「ネビロスさーん！！」
物思いに耽るネビロスはミアの声にハッとした顔を見せる。ミアはいつも通りに近付いて来ると、甘える様にネビロスの腕に絡み付いた。
「ネビロスさん！お昼、美味しそうなところ見付けたんです！行きましょう？」
手を引いてくれるのは、一度諦めかけてしまった想いそのもの。
ミア。
彼女の気持ちも考えず罪悪感から逃げ出してしまおうとしていたのに、彼女は今でも自分を心配し傍に居てくれる。
愛してくれる。
それを、ルミエルやルーチェに対する不義理と結論付けてしまいもしたが、あの時レイレント精神病院で見たのが自分の願望ではなく本物の二人だったとしたら。二人は自分が生きて幸せになる事を望んでくれた。
ずっと、夜は明けないものと思っていた。
幸せは遠い存在と思っていた。
だから俺の中で君を恐ろしい存在にしてしまっていた。
化け物の様に扱ってしまっていた。
本当はこんなにすぐ近くに、優しく在ったのに。
夜が明けると知った時。
幸せが身近と知った時。
生きる気力も湧いて来て、今は深淵への望みは無い。
この夜を越えたと気付けた今、この苦難を越えられるかもと希望を持った今。
──いつかその時が来たら、もう一度君に会えるかな？
「ネビロスさん！お昼楽しみですね！」
「ええ」
でも、その『いつか』は何年も何年も後で良い。
もう夜が来ても恐ろしく無い。
幸せな『明日』を夢見て眠る事が出来るから。
その『幸せ』を噛み締めて、日々を生きようと思う。
二人が祈ってくれた俺の幸せを、『明日』も生き抜く。愛する人と一緒に。
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